- 2009-07-03 (金) 14:17
- 研究
2日。一誠堂さんで本を見せてもらって、何冊か買う。
夜、竹田青嗣と加藤典洋が学生さんたちも交えて村上春樹『1Q84』についての討論会をすると聞いていたので、参加した。
久しぶりに竹田さんの村上春樹論が聞けるのと、加藤さんの『1Q84』論が生で聞けるのと、もうひとつ、極めて個人的な目的があった。
竹田さんは私の師匠であるが、加藤さんは実は私の恩人なのである。
私はかつて一度だけ、研究を続けていけるかどうかの危機に陥ったことがあった。まだ院生の頃、阪神・淡路大震災のあとだった。自分が2、3年前まで住んでいた下宿が完全に倒壊し、昨日まで楽しく話していた生協のお姉さんが亡くなり、隣の家は半壊し、家のすぐ前の新幹線の高架は崩れ、阪神高速も倒れた。街ではマンションの一階にとめてあった車たちは押し潰され、家はドリフタ-ズの芝居セットのように、こちら側の壁が完全になくなっていた。
直後は実感がわかなかったが、その影響は、あとからじわじわと私の中に染み込んできた。そして私は、自分が何のために、誰に向かって論文を書いているのかが分からなくなってしまったのである。本当に書きたいことを自分は書いてきたのか? 読者にではなく、「研究史」に向かって書いているのではないか? 学術論文とはそのようなものだと親切に教えてくれる人もいた。大切なのは研究史上の意味であって、あなたや読者の人生上の意味などではない。そうかも知れない。だが私が研究において知りたかったのは、そして語りたかったのは、人生におけるほんとうのこと(真実)であり、生きる意味であった。少なくともそれときちんと向き合っていない文学研究なら、私にはやる意味がない、だがはたして自分はそれを本当にやってきたのか、と。そう、じわじわと。
ちなみに震災後、村上春樹は芦屋大学で自分の作品の朗読会をやってくれた。めったに人前に出ない村上春樹に会えるというので、喜んで出掛けたのを覚えている。そのときのシーンは、映像だけが、はっきりと私の記憶の中にある。特に、自分の本にサインして握手している村上春樹の表情。
しばらくして、現象学研究会の合宿があった。加藤さんも特別ゲスト?で来られた。
研究会の最中に、ある象徴的な出来事があったので、私は加藤さんにそのことについて聞きたかった。いや聞かなければならない、と思った。研究会中は機会がなかったので、夜の飲み会で聞くことにした。だが食事が終わるとすぐ、加藤さんはその場で横になって寝てしまわれた。眠ってしまったのかどうかまではわからなかった。だが私はその横で加藤さんが起きるのをずっと待っていた。しばらくして、加藤さんはむくっと起き上がった。その直後、質問したのである。加藤さんは、一瞬考えた後、私の質問には直接答えず、
あのね、みんな間違うことを怖がり過ぎなんですよ。
と言われた。そしてその後、自分が初めて書評を書いたときのことを話して下さった。それは加藤さんにとって批評とは何かという本質そのものの話だった。
私はそれで救われた。これからも研究が、文学が続けられる、そう思った。そしてその秋、学会の全国大会で、これまでの自分の研究のど真ん中を発表することができた。実に不遜な発表だったが、気分爽快であった(ちなみに、私はこれまで学会誌への投稿論文が(書き直し再投稿判定ではなく)完全な不採択になったことが一度だけある。それがこの時のものだ)。
もちろん加藤さんはそんなことは忘れておられるのだが、私にとって加藤典洋という批評家はそういう存在なのである。今自分がここにいられることのお礼をひとこと言いたかった(それまで何度も加藤さんとはすれ違っていたのだが、まだ時が熟していなかったのだろう)。
さて、竹田さんと久しぶりに村上春樹の話しができて、率直に嬉しかった。このごろはすっかり(極めて自覚的に)哲学者になってしまったが、文芸評論家竹田青嗣は健在だった。だが、敢えて哲学者になった竹田さんは実に潔い、とも改めて思った。
加藤さんの話しも、さすがに面白かった。ああ、そういう風に読んだんだ、ということが手に取るようにわかる。そして今流行りの言葉でいうと、加藤典洋の批評の方法は、昔から全くブレない。見事である。内容はすぐにでも活字になって発表されるだろう。いずれにせよ、贅沢かつ至福の時間だった。
さて、私自身が『1Q84』をどう読んだかというと、
いや~、おもしろいね~
である。
だがそれをうまく言うのはとても難しい。
無理矢理いうとどうなるだろう?
自分が生きているこの現実が、何か夢のように不確かで曖昧でよりどころのないように感じられることがある。というより、常にどこかでそのような感覚を持ちながら生きている。村上文学は、その感覚と不安の内実を、実に丁寧にかつ深く描いてくれるのであるが、この作品では、これまで以上に深化した形で描かれている。かつて日本の近現代小説は、それを自意識の問題として描こうとしたときもあったが、村上春樹は他人との距離感(あるいは関係の持ち方)と、自分が生きる上での個人的な価値観の一番底の原理の問題として描いている。さらに今回の作品では、そういう感覚をもつ現代人が、それを抱えながらも自己の生を「手応えのある肯定」として生きることができるとすれば、そのとき頼りとなるのは一体何であるかを、これまでの作品より一歩踏み込んで描いている、と思う。乱暴にいえば「愛」であるが、その愛が人の魂を傷付け、あるいはよりどころとなる、その多様で複雑なありかたを、強力な物語として描き出している。そう、今回の作品は、物語の力が圧倒的なのである。
もちろん春樹文体も、いつもながら私の生の感覚の内実を見事になぞってくれる。
そこにはただ深い無力感しかないんだ。暗くて切なくて、救いがない。
睾丸を蹴られた痛みをこれほど見事に語ってくれる村上春樹が、私は大好きなのである。
だがちょっとだけ気になることがある。一つは終わり方である。続編が出る可能性も高いが、一応BOOK2までで言うと、このまま完結するのだったら、それはちょっと、と思う。あの空気さなぎのシーンではこの物語は終われないでしょ?やっぱり。せっかくここまできたんだから、後一歩先まで連れていってよ、と思う。ここまで連れていってくれる現代作家は、村上春樹以外にはいないのだから。今回の作品に限って言えば、はっきりとした肯定が、断定がありうると思う(もちろん「物語の」、という意味であり、「明言」するとか「謎」が解かれるという意味ではない)。それほどこの作品の物語の力は強い。
もう一つは、この物語は初読では圧倒的な力を持っていたのだが、何年か後に再読して、その力がさらに増すかが、やや疑問なのである。これは村上春樹の代表作となるか? 古典たりえるか?
まあそんなことを考えるくらい、面白かったということである。
3日は再び資料調査。これについては明日にしよう。さすがに携帯でこれだけの長文を書くと、指が痛くなってきた。