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寺子屋について

 このブログでも何度も書いているが、昨年から寺子屋という活動を始めた。既に2回開催し、第1回は21名、第2回は24名が出席してくれた。社会人も学生も、当日やむを得ず欠席した人も含めて、皆が真剣に取り組んでくれて、大変すばらしい活動になっている。ほんとうに嬉しいことである。
 寺子屋は基本的に武道の話が中心であるが、それを通して仕事や研究、勉強、日常生活の基盤となる心身を学ぼうというものである。課題図書を読んだり、私が講義したりした上で、ディスカッションをする。
 寺子屋で私が語っているのは、客観的に実証されている「事実」ではない。いわば私の「主観的な真実」である。名物コーナーとなりつつある「こんな奴いらん」では、メンバーの具体的な行動を取り上げ、「こんな奴いらん」と断定する。当然、自分はそうは思わないという反論がありえる。しかし、私は、自分が修行している武道と、そこで目指している価値観から、「こんな奴いらん」と断定するのである。そこからディスカッションは始まる。お互いが他者にさらされることによって、自分の志や価値観を鍛えてゆくのである。もちろんその中で、最低限の価値観を共有できなければ、一緒に修行はできない。

 先師一代、志の通ぜぬ人と俳諧せず。

 李由・許六『宇陀法師』にあり、蝶夢の『蕉門俳諧語録』にも引かれている言葉である。「先師」とはもちろん芭蕉のこと。
 芭蕉の俳諧同様、私の武道も、志の通ぜぬ人とは一緒に修行できない。だから、私は、私の志と価値観を、メンバーに問う(メンバーも私や他のメンバーに問う)。それが受け入れられれば寺子屋は続くし、誰にも受け入れられなくなれば、閉じるまでである。だからこそ、多くのメンバーが熱心に取り組んでくれることがとても嬉しい。
 また、寺子屋は「お勉強」の場ではない。ここには「事実」や「正解」を誰も与えてはくれないからである。私や他のメンバーが提示したそれぞれの価値観を、自分の身を以て吟味し、それがよいと思えば「決断」、「即その場で」実践する。
 後日の感想を読んでいると、「早速仕事で試している」とか、「日常生活でチャレンジしている」というものが多い。非常に嬉しいことである。しかしその一方で、「頭では分かっているのだが」とか、「今まで長年これで生きてきたので」という「我」を見せる者もいる。しかしそんなことをいっているうちは、断定も決断もできないのである。30年かかって蓄積されたものを壊すのに、何も30年必要な訳ではない。ごちゃごちゃ自分に言い訳する暇があったら、「即レス」するに如くはなし、である。

 囚われず、偏らず、心身を開いて「空」にし、即レスする。

 これが寺子屋で大切にしていることである。たったこれだけであるが、非常に難しい。でも私は難しいと思わないし、もちろん悩まない。いつでもその時その場でチャレンジし続けるだけだからだ。失敗してもうまくいっても、ただただ実践し続けるだけなのである。
 ここまで書いて、小林秀雄の「私の人生観」を思い出した。ちょっと長くなりそうなので、続きはまた明日。

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