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永平寺の日々

 29日。
稽古後武道部の総会。せっかく集まっているのでということで、この前永平寺で買ってきたDVD『永平寺の日々』をみんなで見た。といっても私は実は病院に行っていて間に合わなかったのだが。

 最初に、新しい修行僧の入山シーンがある。2月半ばを過ぎた雪の中、8名の志願者が朝7時15分に山門に並ぶ。しかし迎えの人は出てこない。50分後、案内してきた和尚に木版を叩くことを許可される。約1時間後、ようやく先輩の修行僧が現れる。そしていくつかやりとりが行われる。それがいわゆる体育会系だったで、とても驚いた。が、それはともかくそこで先輩の修行僧が何度も確認したのは、二つのことである。

あなたの修行は永平寺でなければならないのか?
あなたは永平寺の厳しい修行に耐える覚悟があるのか?

 修行の最初において、「自分の修行の場はここ以外にはない」ということと、「ここでの修行に耐え切る」という二つの覚悟を求められるのである。修行を始めればすぐに、自分の覚悟が甘すぎるものであったと気づくのであるが、それでも最初にその覚悟なき者は修行を開始する資格がないということである。
 なぜか。
 自分の修行の場は「ここ」以外にないという覚悟がないもの、つまり、逃げ場がある者は、本当に苦しい時に逃げるからである。
 小川三夫さんも講演会で、鵤工舎でなくても、他でもやっていける人は採用しなかったと話されていた。その理由が、「逃げ場がある人は、本当に苦しい時に逃げるから」ということであった。本当に苦しい時に逃げる人の仕事には魂が入らない。だから逃げ場がない人しかものにならないのである。

 本当に苦しいとき、逃げずにその場で踏ん張って突破するには、自分自身が変わらなければならない。今までの自分では通用しないなら、自分を変えるしかない。この主体変容こそが、修行におけるブレークスルーであり、快楽なのである。

 もちろん「なぜ永平寺でなければならないか」「なぜ鵤工舎でなければならないか」ということに、論理的な根拠はない。だからそんな説明は求められない。ただ、自己の主体を変容させブレークスルーする覚悟があるかどうか、それだけが見極められるのである。

 現代の学校教育は、この主体変容についての最初の覚悟という、学びにおいて最も重要な契機の喪失の上に成り立っている。そしてあまりにもそれに慣れすぎた現代人は、学校以外の多くの学びの場においても、それを忘れたままにしてしまっているのかも知れない。
もちろん学校においても、それを取り戻す契機はたくさん存する。いくらでもかけがえのない「自分の」師に出会うことができる。ただ学校というところは、それがなくても入学し、卒業できるようになっているだけである。

 現代における武道修行の意味の一つは、ここにある。武道を修行することは、人が何かを学ぶことの意味を取り戻す、そういう効用もあるのだと思う。自分の主体を後生大事に抱えている人は、技もかからないし、ブレークスルーも望めない。だから武道の快楽も味わえない。
もちろん武道を始めるときには、そこまでの覚悟は求められない。たまたま近所に道場があったとか、大学にサークルがあったとかで始める人がほとんどだろう。私だって、あまりに体力が衰えてきたときに、たまたま親戚のおっちゃんがやっていたから、その道場に行ったに過ぎない。
だが武道の修行には、どこかの時点で、自分の師はこの人以外にはおらず、自分の修行の場はここ意外にはない、と思うときが必ずあるのである。

 幸い武道の師に入門することは、職業には関わらない。一部の特殊な人を除いて、武道は職業と直結していないのである。武道は、普通の人が誰でもできる、日常生活における修行の場である。どの仕事をしている人でも学生でも、そのままで武道の修行ができるところが頼もしい。むしろ日常生活を離れて武道の修行は成り立たない。

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