- 2011-05-07 (土) 8:32
- 研究
少し年上の友人からメールがきた。この前「国語と国文学」に書いた論文の感想を頂いたのである。簡単なお褒めの言葉の後に、次のような意味の言葉が添えてあった。
自分はこれまでやってきた研究に意味がないのではないか、ではなぜ意味がないのか? と疑いながら研究を続けている。だから自分の研究対象、あるいは文学研究そのものに意味があると信じきっておられる多くの方から嫌われます。
だから私は彼が信頼できるのである。
文学研究の表現の出発は個人的意味である。まずそこで自問自答がある。文学研究の「思考」の強度は、ほとんどそこでの思考の深さと相関している。
表現するとは、その個人的な意味が、他の人にとっても意味があるかどうかを問うということである。つまり、固有の意味に何とかして普遍性を持たせようとする試みなのである。だからいつでも、意味があるかどうかは、「意味があった」という形で事後的にしか判定できない。
私はそう考えているのだが、ついつい雑事にかまけて怠けてしまうのである。そしてときたま、「俺は何やってたんだ~」とショックをうけるのであるが、彼のメールは、
あなた、それを忘れてないでしょうね?
という確認の声だったのである。
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