- 2011-08-05 (金) 10:00
- 研究
芭蕉が元禄7年1月29日、怒誰に宛てた書簡に次のような文章がある。
御修行相進候と珍重、唯小道小枝に分別動候て世上の是非やむ時なく、自智物をくらます処、日々より月々年々の修行ならでは物我一智之場所へ至間敷存候。誠御修行御芳志、頼母敷貴意事に令感候。仏頂和尚も世上愚人に日々声をからされ候。(引用は今栄蔵『芭蕉書簡大成』(角川書店)
今、田中善信『全釈芭蕉書簡集』(新典社)によって現代語訳を示すと次のようになる。
禅の修行が進んでいるとのこと、結構なことです。ただ、枝葉末節に分別が働いて、世俗的な利害に心が安まるひまがなく、自分の小賢しい智恵で物が正しく見えない状況、これが我々の日常ですが、日々、月々、年々修行を積んでゆかなければ、物と我と一致する境地に至ることはあるまいと思います。真剣に仏道修行に専念しているお志がたのもしく、とりわけあなたのお気持ちに感銘を受けております。仏頂和尚も世間の愚かな人々を導こうと、日々声をからして教えを説いております。
怒誰(どすい)は近江国膳所の藩士で芭蕉の門人。同じく蕉門の曲翠(曲水)の弟。『荘子』の思想に傾倒しており、芭蕉の思想に共感していた。この書簡の前半では、芭蕉の禅の師である仏頂和尚が芭蕉庵にやってきた折のことが報告されている。
さて、ここで芭蕉は、私たちの日常は、枝葉末節に自分の理性や欲望が働いて、あれがいい、これがダメだ、などと騒ぐばかりで、心休まる暇がなく、物が正しく見えない、と述べている。
「自智物をくらます」。智(知)は、もののほんとうの姿を見えなくする。普通私たちは、知識や智恵が物の本質を明らかにすると考える。だからそれらを身に付けるべく勉強をする。しかしそれは逆だというのである。
また、ここでは「自智」を「自分の小賢しい智恵」と訳しているが、ここでいう智には「自分の小賢しい智」と「そうでない正しい智」があるのではない。芭蕉がここで言っているのは、全ての智は、我欲にとらわれた浅はかなものである、ということである(田中氏もその意味で訳しておられるはず)。
だからその対極が「物我一智」(物我一致)の境地なのである。我も物もない境地。ここでは主体はとろけている。だから知識も知恵も分別もない。ただただ全ての流れと一体化しているので、「自分」というものがない。これを芭蕉は別の言い方で、「四時を友にす」とか、「造化へ帰れ」とも言った。
我欲をすて、自我を捨て、主体をとろけさせて、宇宙・自然と一体となる。全ての流れになる。そこに「私」はない。
同じことは芭蕉に限らず、思想家であろうが文学者であろうが宗教家であろうが武道家であろうが、たくさんの人が説いているし、その解説も備わっている。だからいまさらこここで大げさに解説するほどのことでもない。
ただ私は、自分に言い聞かせるために同じことを何度も繰り返し言う他ないだけである。しかしほんとうに自分に言い聞かせたいのはこちらである。
日々より月々年々の修行ならでは物我一智之場所へ至間敷存候(日々、月々、年々、長い長い修行を積んでゆかなければ、その境地に至ることはあるまいと思います)。
「日々より月々年々の修行ならでは」。いい言葉ですねえ。
最近twitterの方で報告しているが、毎日阿波研造師範の Itの境地による珈琲淹れ修行を楽しんでいる。私のような不器用な凡夫には、「日々より月々年々の修行ならでは」一杯の珈琲さえ満足に淹れられないのである。
- 次の記事: it珈琲
- 前の記事: LifeTouch NOTE1~Text Editor