- 2011-08-06 (土) 8:02
- 日記
昨日芭蕉の「日々より月々年々の修行ならでは」について書いた。
この言葉には、長い長い修行は、一日一日のしかも小さいことの積み重ねでしかないというニュアンスが込められている。
「長年修行しないと」というのと、「毎日の修行に始まって、それが毎月毎月の修行となり、それが積み重なって毎年毎年の修行となる。それなしには」というのとではだいぶニュアンスが違うだろう。
「日々」の修行には「時々」の修行がある。「時々」の修行には「分々」の修行がある。こうやって限りなく細分化されてゆく。これがどれくらい細分化できるかが、その人の修行のレベルを表しているのである。年単位で時間を考えている人と、秒単位で体感している人とでは、内的な時間感覚がまるで違う。そしてこれが細分化されつくしたとき、切れめはなくなる。「分別」はなくなり、流れのなめらかな連続となる。「無」となるのである。
このブログでもしばしばご登場いただく阿波研造師範に次のようなエピソードがある。「彼」というのが阿波師範である。
その頃、ある日のこと、私が一射すると、師範は丁重にお辞儀をして稽古を中断させた。私が面食らって彼をまじまじと見ていると、「今し方“それ”が射ました」と彼は叫んだのであった。やっと彼のいう意味がのみ込めた時、私は急にこみ上げてくる嬉しさを抑えることができなかった。
「私がいったことは」と師範はたしなめた、「賛辞ではなくて断定に過ぎんのです。それはあなたに関係があってはならぬみのです。また私はあなたに向かってお辞儀したのでもありません、というのはあなたはこの射には全く責任がないからです。この射ではあなたは完全に自己を忘れ、無心になって一杯に引き絞り、満を持していました。その時射は熟した果物のようにあなたから落ちたのです。さあ何でもなかったように稽古を続けなさい。」(オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』福村出版94頁)
術のない術とは、完全に無我となり、我を没することである。あなたがまったく無になる、ということが、ひとりでに起これば、その時あなたは正しい射方ができるようになる。(同『日本の弓術』岩波文庫30頁)
時間の細分化も空間の細分化も主客の細分化も同じである。細分化されつくしたところに「無分別」が現前するという逆説がある。
「“それ”が淹れました」。この境地に至るべく私は毎日珈琲を淹れている。名付けて「it珈琲」(IT(アイ・ティー)ではありませんよ~)。
ここ数日、「お湯をのせる」感覚に変化があった。日々の修行の楽しみは、たまに、そして唐突にやってくるその微々たる変化を待ち、そしてやってきたら機を逸することなくつかまえることにあるのかも知れない。
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