『日経ビジネス』の案内が送られてきた。
その中に、2011年5月9日号に掲載された、野中郁次郎さんの言葉が紹介されていた。
日々の仕事という凡事の連続が蓄積していく中で、ある時、非連続が生まれ、凡事が非凡化する。それがイノベーションにほかならない。その変化は、日々の凡事を積み重ねているから気づくことができる。
早速本文を読んだ。
短い談話だが、非常に面白かった。
野中さんは、「資本主義の本質をイノベーション(革新)による不断の発展過程ととらえた経済学者ジョセフ・シュンペーターは、その担い手を既存構造の破壊と創造(創造的破壊)を遂行する「アントプレナー」と位置づけた」が、日本の場合は少し違った展開をしたという。
それは「衆知経営」(松下幸之助)である。社員一人ひとりが「実践的な智恵」をもって動ける経営である。では、そのような社員の「実践知」を高めるには何が必要か。
第1に現場での「即興の判断力」だ。
そのためには、何が「善いこと」なのかという価値基準が共有されていなければならないという。
「善いこと」に対する価値基準を共有し、あとはそれに従って一人ひとりが現場で具体的な判断をして実践してゆくというのである。野中さんの談話のニュアンスからは、昔の日本企業はそれができていた、と受け取れる。
おそらくそうだろうと思う(もちろん今でもそういう企業はたくさんある)。
日本の教育は長らくそのような教育を行ってきた。「そのような」というのは、一部の優れた人材を養成するのではなく、基本的には同じことを徹底して繰り返し、全員それを修得することを前提としてきた、という意味である。いわゆる「底上げ」教育をしていたのであり、それがそのまま日本の「底力」となったのである。そして重要なのは、これまでも数多くいた日本の優れたリーダーたちも、まさしくそのような「底力」の基盤から生まれたということである。
小山田良治さん(五体治療院代表)が「結局はトップアスリートほど、こうした地味なトレーニングを大切にしているんです」(小山田良治監修 織田淳太郎著『左重心で運動能力は劇的に上がる! 』(宝島社新書)あとがき)というように、トップアスリートほど「底力」の大切さを理解している(こちら)。マエチンが同じことを何度も繰り返すことについては、このブログに何度も繰り返し書いている(同じことを繰り返す)。
だが、一般的にはそのような価値観が否定されてから、もう数十年がたつ。もっと生徒が主体的に、個性的に、自ら学び考える教育がよしとされた。「底力」ではなく、トップパフォーマンス?(「底力」の反対は何と言うのでしょうね?)を引き上げることが推奨されたのである。
では企業の、「現場での実践知を弱体化させ」たものは何か。
米国流の経営に強く影響を受けた分析至上主義と過剰なコンプライアンスだ。
と、野中さんは述べている。これが現場での「即興の判断力」の妨げになっていると。
そして、
実践知を高める第2の条件は、「凡事の非凡化」である。
「凡事」とは、「底力」のことである。「非凡」とはイノベーションである。「非凡」は「凡事の蓄積」から生まれる。その逆ではない。そう野中さんは言っているのだと思う。
企業が直面する多くの混乱や困難を乗り越えるには、イノベーティブな試みが必要になる。ただ、イノベーションは、「やろう」と思い立って起こせるものではない。日々の仕事という凡事の連続が蓄積していく中で、ある時、非連続が生まれ、凡事が非凡化する。それがイノベーションにほかならない。その変化は、日々の凡事を積み重ねているから気づくことができる。
イノベーションは、「日々の凡事」の連続からしか生まれない。「日々の凡事」がなければ、それがイノベーションであることにも気づくことができない。一時期よく言われたセレンディピティも、「凡事の連続」の蓄積なしにはあり得ないはずである。
そうだとすると、「創造性」を養う教育、イノベーションを起こせる人材育成にほんとうに必要なのは、「凡事の連続」なのではないのか。個性を発揮し、主体的に動け、現場で高い実践知を発揮できる人間を育成するために、「共通善」の価値観の共有と「凡事の連続の蓄積」が必要なのではないのか。
私には、「イノベーション、イノベーション」と叫び、「非凡」を評価し「凡事」を低く見る価値観が、そこ(イノベーション)からどんどん離れていっているような気がしてならない。求めるものは足下にある、というのは昔から教えられてきたことではなかったのだろうか。「脚下照顧」とは履き物を揃えよ、ということだけではないのである。
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