中森康之ブログ
与えられた条件の中で
- 2009-03-24 (火)
- 武道部
新入生勧誘活動計画の報告に幹部がやってきた。具体的なことについては部長に任せてあるので、僕は新歓活動の武道的な意味について話をしただけだが、話の流れで、最後に
具体的なことは、みんなでいろいろ工夫してやって下さい
と言ったら、広報担当副部長がビラについて、
工夫しようにも、スペースがありません
と言った。ちょっと驚いて、
これ以上できないところまでやってみたのか?
すると、
いや、まだそこまでやってません
と笑って言う。
武道部では、リーダーは仕事を抱え込まず、部員に振ることになっている。リーダーは全体の調整とスケジュール管理をやらなければならないからだ。もちろんその話は何度もしてあるので、自分も、自分以外の部員もできずに、どうしようもなくて困っているのかと思ったら、どうもそうではないらしい。
昨年のビラも、担当の部員がギリギリまで努力し、その上で卒業生がアドバイスをして作った。そのことは第1回研修会でも詳しく説明してあるので、彼も知っているのだが、その段階までもまだやっていないと言う。要するに、ちょこっと自分でやってみた程度なのであった。
やる前から言い訳をしたり、状況のせいにする人に未来はない。そういう人は、失敗したとき必ず自分以外のせいにする。スペースが小さ過ぎた、時間が足りなかった、人手が足りなかった、忙しかった、体調が悪かったなどなど。
このような発想は、武道から最も遠い。
与えられた状況の中で発揮できた力だけが自分の力の全てである
というのが武道の覚悟だからである。足場が悪かった、体調が悪かった、いきなり襲われた、酒を飲んでいた、手を怪我していた等々の言い訳には何の意味もない。もうちょっと背が高かったら、目がよかったら、足が上がったら、と無い物ねだりをするのも同じである。
だが、幸い彼は、
もうちょっと頑張ってみます
と言った。もうちょっと頑張る人には希望がある。これまでの彼の稽古には、上の話に象徴される彼の生き方が出ていた。だから上記のような話をした。そして最後にこう付け加えた。
「ついついそう考えてしまう」「ついそうやってしまう」「自分の性格ではそういうことは無理だ」などというのは、性格ではなく技術の問題である。「自分を変える」というのは、性格の問題ではなく、武道の技術の話なのである。
さてさて、どんなビラが出てくるか楽しみだ。
続・結婚式北海道ツアー
- 2009-03-23 (月)
- 日記
3月20日
朝はゆっくりとモーニング。時計台に行って、またのんびり。
昼、スープカレー。昼過ぎに出発、洞爺湖へ。やや寒。羊蹄山がクリアに見える。とても美しい。早めに夕食。
達人養成ネックレスについて解説。みな驚き、喜ぶ。身体は実に面白い。早めに寝る。
3月21日
朝食後函館へ。昼前到着。会場へ直行。着替えて、司会の方と演武の打ち合わせ。
13時、披露宴(祝賀会)始まる。いきなり新郎の挨拶から始まるのは初めての経験。みなの祝福の気持ちがとても感じられる、いい会だった。
スピーチ、演武ともなんとか役割を果たす。最後の形のとき、前にカメラマンがしゃがみ込んでいたので、仕方なくやや斜めに前蹴りを出すというハプニングがあったが、全体としてはよい演武だったと思う。
16時過ぎ終了。ホテルへ行ってチェックイン。17時から二次会。ロビー集合のはずが、部屋でぐずぐずしているうちにおいていかれる。そうとは知らずロビーで待っていたので、少し遅れて店に到着。教え子の結婚式で二次会に呼んでもらったのは初めてなので、嬉しい。
二次会で予想外の展開があったが、ここでは書けない(そのうち公表できる日がくるといいと思う)。
8人ほどで三次会へ。活イカを食べられる店に行く。ホッケの刺身を初めて食べた。楽しみにしていた活ボタンエビもあったので注文。美味。
3月22日
7時半に新郎新婦をお見送り。朝市で朝食。小雨。ベイエリア散歩。昼ラーメン。その後ケーキ。夕食、またホッケの刺身。雨強まる。近所のホテルの大浴場によってから宿泊ホテルへ戻る。夜、大変盛り上がる。
3月23日
雪。朝市で朝食。知り合いの店に行って買い物。五稜郭へ。僕はタワーへは登らず、2Fでお茶。空港へ。1人見送って、残った者でトラピスチヌ修道院へ。空港へ戻って、16時発。
かくして長いツアーが終了。
結婚式北海道ツアー
- 2009-03-19 (木)
- 日記
札幌。
昼過到着。やや寒。小雨。昼食、二条市場。小樽散歩。ルタオにてお茶。夕食、ジンギスカン。
10時、11時半に相次いで後続組到着。閉手形と開手形の違い、三戦と転掌の関係などについて語り、はやめに寝る。
フッサール『現象学の理念』(立松弘孝訳)
- 2009-03-15 (日)
- 読書
久しぶりにフッサールを読んだ。『現象学の理念』は、院生の頃通っていた古本屋のタグがついているので、もう20年近く前に買ったのだと思う。奥付も1988年 24刷となっている。挟まれていた「通信用カード」の切手の部分に「差出有効期間昭和65年2月10日まで」とある。昭和がまだまだ続くと思われていた時代に刷られた本である。ちなみに翻訳本の初版は1965年、本書に収められた『五講義』は1907年に行われた。
『現象学の理念』を読んだのは、現象学研究会のテキストだったからだが、私がこの本をきちんと読んだのは、たぶん今回が初めてだと思う。
でもやっぱりフッサールは、読んでいて勇気づけられる。もちろん難解なので分からないところはたくさんあるが、そんなことは全く気にならない。師匠の竹田さんに教えてもらった現象学の核と照らし合わせながら読んでゆくと、科学とは異なった「哲学」固有の方法である現象学、「真の認識批判学」(39頁)としての現象学を確立しようとするフッサールの意気込みが伝わってきて、とてもワクワクしてくるのである。
このような純粋現象を研究対象とする可能性がある以上、もはやわれわれが心理学の立場に、すなわち超越的客観化を行なうこの自然的態度の科学の立場に立たないことは明らかである(68頁)
われわれはすでに純粋認識の分野を確保したのであるから、これでいよいよ純粋認識を研究し、純粋現象についての学問、すなわち現象学を確立することができるのである。(69頁)
そうしてこう宣言する。
現象学は直観的に解明し、意味を規定し、意味を区別するという方法で研究を進めるのである。……現象学は客観化的科学を支配する諸原理たる根本概念や根本命題を解明するのであるから(……)、客観化的学問が始まるところで現象学は終結するのである。したがって現象学は〔客観化的科学とは〕全く違った意味での学問であり、全く別の課題と方法をもつ学問である。きわめて厳密な現象学的還元の内部での直観的・イデー化的方法は現象学の独専的私有財であり、またこの方法が認識批判の意味に、また一般に理性のあらゆる批判(したがって価値判断理性や実践理性の)に本質的に属している以上、これはまったく哲学固有の方法である。(86頁)
ただ、本書の『五講義』を序論とする講義『事物論』について、フッサールは「それは一つの新しい出発であったが、残念なことに私の弟子たちには、私が期待していたほどには、理解もされず受け容れられもしなかった。確かにいろいろな困難があまりに大きすぎて、即座にそれらを克服することは不可能であった」と記しているという(編者序 6頁)。フッサールの落胆ぶりが伺われて、何とも切ないことである。
さて、別の研究打ち合わせが終わってから現象学研究会に参加した。中身については、西研さんと竹田さんが丁寧かつ簡明に解説してくれたので、とてもよく理解できた。また、私が最近考えている感性の問題、武道における認識とその上達の問題、教育における発達の問題を現象学はどのように考えるかという疑問(直接そう質問した訳ではなく、要領の得ない質問になったが)、いつも通り竹田さんが答えてくれた。たぶん8割くらい理解できたと思う。残りの2割は私の問題意識が詰められていないことによるので、もうちょっと頑張って考えたい。
もちろん竹田さんが解説してくれた、「いろんな「正しい」があるときに、それをどう考えるか。誰でも確かめられる認識の底板を確定する、つまりどこまで行けるのか(どこから先は物語になってしまうのか)をはっきりさせる」という現象学の基本的なモチーフが本書でもはっきりと示されていることは十分理解できた。そしてフッサールがその遂行過程で、一歩進もうとすると難問が立ちはだかり、それを一つ解決するとさらなる難問がまた現れるという状況に真正面から立ち向かっていることも。
例えば、
しかしその反対に自己所与性一般を否定するのは、一切の究極的規範を、すなわち認識に意味を付与する一切の根本規準を否定することである。もしそういうことになれば一切を仮象であると公言し、さらに仮象そのものをも仮象であると公言する不合理を犯し、その結果全面的に懐疑論の矛盾に陥らざるをえなくなるであろう。だが言うまでもなくこのような仕方で懐疑論者を論駁できるのは、根拠を見る者、すなわち見ること、直観すること、明証にまさに意味を認める者だけである。見ていない者、あるいは見ようとしない者、論じ立て論証もする反面、自分自身は相変らずいろいろな矛盾を犯し、しかも同時に一切の矛盾を拒否しようとする者、そういう輩はわれわれにもどうしようもあるまい。
ここでもフッサールは、現象学が「根拠を見る者」であることを明言し、懐疑のための懐疑論を批判しているのであるが、これ一つとってみても、「確かにいろいろな困難があまりに大きすぎ」るようだ。
ところで、あまりにも唐突だが、私が専門としている支考の俳論を読むとき、私はいつもフッサールを思い出す。支考というのは芭蕉の高弟、各務支考のことである。彼の主著『俳諧十論』も、それまでにない新しい領域を開拓しようという意気込みに溢れていて、用語、文章が非常に難解である。そしていろいろな理由から、現在でもひどく誤解されたままになっている。支考とフッサールは全く何の関係もないけれども、私はとてもシンパシーを感じてしまうのである。
『俳諧十論』を、ぜひ余計な先入観を排して、多くの人に読んでもらいたいと思う。そのために、竹田・西両氏の「完全解読」にならって、そのうち注釈しようと前々から思っていたが、その気持ちがさらに強くなった。幸い、フッサールは竹田師匠の解説なくしては読み得ないけれども、支考の方は大体読めるので。
そんなこんなのフッサールであった。
名前憶えてね
- 2009-03-14 (土)
- 武道部
担当の学生が、武道部HPの「顧問の部屋」に、このブログのリンクを貼ってくれた。
が、
名前の漢字が間違ってる。入部してもうすぐ1年になるのに、まだ覚えてもらってなかったんだあ~
まあ、僕も荒川くんが茶帯のとき、「きみ、名前何だっけ?」と聞いたらしいから、仕方ない。
那谷寺・百万石の大名展
- 2009-03-11 (水)
- 研究
今日は那谷寺に行った。
石山寺と同様、実際に行くのは初めてだったので、奇岩遊仙境にはびっくりし、感動した。やはり自然の力は偉大である。
その後はちょっと足を延ばして金沢へ。兼六園で夕顔亭を見た後、県立美術館に行き「百万石の大名展」。さすがに加賀百万石である。初めて見たものも多く、面白かった。
丁度今日から、国宝「古今集巻十九残巻(高野切)」が展示されていた。昨日から幻住庵、石山寺、那谷寺という芭蕉ゆかりの地の調査をしていたので、その締めくくりのここでも誹諧歌に出逢えて、ちょっと感動し、豊橋へ帰る。
幻住庵・石山寺
- 2009-03-10 (火)
- 研究
幻住庵に行った。
蝶夢が建立したという石碑の調査である。幻住庵には、俳文学会第58回全国大会(2006年)の文学遺跡踏査でも連れて行って頂いたのだが、その時は私自身がその石碑のことをよく分かっていなかった。
駐車場に車を止めて、とくとくの清水のせせらぎと鶯の声を味わいながら、ゆっくりと登っていった。やはり、いい。
「芭蕉翁幻住庵舊跡」と刻まれた石碑はすぐに見つかった。だが裏面・側面とも摩耗していて読めない。これなら前に来たときも見たし写真もとったが、表面以外読めなかったので、それ以上の興味を持たなかったのである。
だが今回は、この石碑の調査に来たのである。これが蝶夢建立のものかどうかを確認しなければならない。保勝会の馬場さんがわざわざ幻住庵まで来て下さり、説明を聞く。馬場さんが持ってきて下さった本(昭和40年刊)のコピーによると、この石碑の裏面には「明和九年壬辰十月十二日僧蝶夢勧落陽湖南道弟建立」と刻まれていたとある。当時は読めたのだろうか。「裏面」と書いてあるが、側面についての記述はない。私の目には、側面は文字が彫られていることは分かるのだが、裏面はそれすらも分からない。側面は、目のいい人なら、あるいは工夫をすれば今でもたぶん読めるだろう。学内の研究室に頼んで、写真の画像処理をしてもらおうかな?
ともかく、実物から分かったのは以上である。たぶんこの石碑でいいのだろうと思うが、もう少し詰める必要がある。
ちなみに、この石碑建立の「由緒文」が書かれた木額が昭和55年に近津尾神社の倉庫から発見されたそうだが、現在は所在不明だそうだ。
さて、幻住庵の後、石山寺に行った。7年ぶりにご本尊如意輪観世音菩薩さまが御開扉されている。しかも間近で見せて頂けた。何ともいえない安心感があり、包まれるような感じがする。いいものを感じさせていただいた。
石山寺の「石」も実際に見るのは初めてだ。やはり写真と実物は全く違う、と改めて感じた。
追いコン
- 2009-03-09 (月)
- 武道部
7日の夜は武道部追いコン。
事前にここでプレッシャーをかけ、さらにはじめに私が話をするという異例の追いコンであったが、終わってみれば、非常に特別な追いコンとなった。卒業生もそうであるが、在学生がこんなに多く涙を流した追いコンは初めてだろう。
心配していた「一人一言」。在学生もよく出来ていた。とりわけ、面と向かって直接プレッシャーをかけられ、その日の御礼メールで、「期待しておいて下さい」と自らハードルをあげるという暴挙に出た幸美さんは、とても見事なスピーチだった。私が在学生の「一人一言」で涙を流したのは、初めてである。
卒業生もそれぞれ印象深い話をしてくれた。今回の卒業生は9人。みなそれぞれに精一杯の努力をして、この追いコンの日を迎えることができた。
今日、ここに立てることに、感謝の気持ちで一杯です。
前に立ったとたんに号泣し、一つずつ言葉を慈しむように語り出した豊川くん。武道部員にとって、この日、この場所に立てることは特別のことなのである。技科大で武道部を卒業まで続けることは難しい。自分自身を変え、成長し続ければ誰でも出来るのだが、それまでの自分を頑なに守ろうとする人にはとても難しい。武道部では、そういうハードルを設定してあるのである。
彼も相当苦しんだが、黒帯になった頃からどんどん成長し、この場に立つことができた。心から祝福したい。
期待していた荒川くんも、さすがだった。
みんな95%くらいは回りのお世話になっているのだ。自分で努力できるのはせいぜい5%に過ぎない。その5%で自分が手を抜いちゃ、いかん。ごちゃごちゃ言ってないで、精一杯努力しろ!
と後輩を叱咤した。そして、
久しく試割をしていないが、これまで自分は瓦を14枚しか割ったことがない。どうしても一枚残ってしまった。それが自分の課題であった。
何枚割ったとしても、最後の一枚が割れないと、その先は見えないのだ。
単なる思い込みかもしれないが、今日、ここに立っている自分は、最後の一枚が割れたかな、と思う。
また、自分が絵実子さんと裕子さんにあこがれて稽古してきたことを告白し、武道修行における「あこがれ」の重要性を語った來原さん、部長としての成長を示した宇野さん、武道部メソッドの有効性を示す体験談を語ってくれた竹井くん、その他の卒業生、それぞれによい一人一言だった。
OB・OGもそれぞれの思いを、涙ながらに語った。やはり長年一緒に稽古してきた者として感慨深いものがあったのだろう。
さらに、翌日友人の結婚式が神戸であるにも関わらず、そのドレスをひっさげて大阪から裕子さんが来てくれた。荒川君と來原さんの演武を見にきたのだという。彼女の話はいつ聞いても「武道っていいなあ」と思わせる。武道は人に生きる力を与えるものだということを強く感じさせてくれるのである。
私自身も、武道を、そして彼(女)らをもっと信じようと思った。
というわけで、とってもよい追いコンとなりました。
ただ残念だったことが3つある。
1つは、OB・OGの話が長すぎたこと。彼らは、何時に会全体を終わらせるつもりだったのだろう。その考えがなかったとしても、会場を出なければならない最終時間は決まっているのだから、残り人数と残り時間を考えれば、自分に許された最大時間は簡単に分かるはずだ。しかも自分より上位の者が後に控え、特に今回は裕子さんもわざわざ来てくれているのである。幹事も途方に暮れていた。それにも気づかなかったのだろうか?
結局、会の途中で会場を出なければならなくなった。
感傷的になり過ぎて全体が見えなかったのだとしても、分かった上で自分の感傷に溺れたのだとしても、いずれにせよ、武道修行者としてあるまじきことだ。少なくともそんな先輩を心から尊敬する後輩は一人もいないはずである。翌日のお礼メールで、幹事が時間配分のまずさについて謝ってきた。もちろん仕切りの責任は幹事にあるが、今回ばかりは、3年生にそれを求めるのはちょっと酷だと思う(甘いかも知れないが)。やはり先輩がきちんと配慮してやってほしい。
もちろん上に書いたように、彼(女)らの気持ちは十分わかる。話自体はとても胸を打つよいものであった。それだけに、今回のことはとても残念だった。普段の稽古にこの甘さが出ていないか、もう一度よく見つめてほしい、と思う。
2つめは、OBたちだけと二次会に行った卒業生がいたこと。これまた気持ちはよく分かる。だが最後のチャンスに、後輩を連れて行ってあげてほしかった。私は今回の卒業生は、自分の稽古はとてもよく出来たと思っている。だが一つだけ物足りないものがある。それが「先輩学」なのである。先輩として後輩をどう導くか。教師でも、師匠でもない先輩だからこそできるコミュニケーションがあるのである。それをしてもらった後輩は、今度は自分がそれを出来るようになってほしい。そういう伝統をきちんと構築してほしいと、各学年が揃ってきた頃から言い続けてきたのだが、やはり最後の最後でもそうだったかと、とても残念だった(OB・OGにも求めているのだが)。
3つめは、その他の卒業生が在学生を連れて二次会に行ったが、行かなかった在学生が多くいたことである。
これまた最後なのに、もったいないと思う。もっとどん欲に「人間」を求めようよ、みなさん。
しかし逆にいうと、上に書いたように、先輩が後輩との繋がりをきちんと築かなかったということでもある。連れて行った卒業生が、在学生の少なさを残念がっていたので、「後輩たちが一緒に行きたいと思わなかったのだから、お前に人望がなかったのかもね」と言ったら、「そうかもしれません」と言っていた。
そんなこんなでいろいろ複雑な追いコンだった。
ただ追いコン自体の空気は、最高の追いコンだったことは間違いない。
卒業ミニ演武会
- 2009-03-08 (日)
- 武道部
7日午前中は、卒業記念ミニ演武会。
例年在学生が団体で卒業生に演武を見せ、卒業生が一人ずつ形の独演を行う。
在学生演武は驚くほどよかった。これは、卒業生への感謝の心と、「これからの武道部は自分たちが守ってゆくので、安心して卒業して下さい」という気持ちを卒業生に伝えるためのものである。それが十分に伝わってきた。自分たちだけで頑張って稽古したのだが、それに加えて、卒業生に対する感謝の心が、本番での演武を最高のものにしたのである。とくに杖の形はよかった。「これなら安心して卒業できる」と卒業生たちも喜んでいた。
卒業生独演も、これまたよかった。これは、卒業生がそれまでの武道部における自分の武道修行の全てを、形の演武によって在学生に伝えるものである。言葉はない。誤魔化すことはできない。今、ここで演武している形がその人の全てである。
豊川くんの三戦は彼の人生そのものであった。
來原さんの制引鎮は貫禄があった。
荒川くんの十三手は迫力があった。
豊川くんは、入部前から大変な苦労をしてきて、必死で生きてきた青年である。大袈裟でなく、彼の人生は武道によって救われたのだと思う。それが見事に現れていた三戦だった。
來原さんは、入部当初から、当時監督だった絵実子さん(尚志館館長)に憧れており、制引鎮はその絵実子さんの得意形である。2006年の全国大会では、毎回泣きながら特訓に耐え、その制引鎮で優勝した。その後もずっと彼女は絵実子さんの背中を追い続けてきたのである。その意味で制引鎮は彼女の武道人生の象徴である。それを示すに十分な形だった。
荒川君は十三手。彼の武道に対する熱い思いのこもった、迫力のある形だった。あの迫力は荒川君でなければ出ないだろう(姿勢がよくなればもっといいね秊。
それ以外の卒業生も、自分に出来る精一杯の形をやったように思う。とても嬉しかった。
その後は、鶴岡監督の十八手。そして絵実子さんと裕子さんのツイン十三手。この2人はほんとうに仲がいい。まるで双子のようである。さらに私も独演をした。6年間で初めて私にお願いをした來原さんのリクエストに答えて、制引鎮。
その後、私と絵実子さんと來原さんで3人制引鎮。私と裕子さんと荒川くんで3人十三手。どちらも一つになれて、とても気持ちがよかった。
ありがとう。
最後は、全員での追い突き。これまた全員が一つになったとてもいい追い突きだった。
さらに今年は余興として、豊川くんと荒川くんに在学生が挑戦するという、自由組手を行った。まあこれはあくまで余興である。
というわけでミニ演武会見事に終了。
最高のミニ演武会でした。
事務連絡:既に卒業している人で、映像希望者は中森まで直接メール下さい(武道部卒業生に限ります)。
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