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2011-08

it珈琲

昨日芭蕉の「日々より月々年々の修行ならでは」について書いた。
この言葉には、長い長い修行は、一日一日のしかも小さいことの積み重ねでしかないというニュアンスが込められている。

「長年修行しないと」というのと、「毎日の修行に始まって、それが毎月毎月の修行となり、それが積み重なって毎年毎年の修行となる。それなしには」というのとではだいぶニュアンスが違うだろう。

「日々」の修行には「時々」の修行がある。「時々」の修行には「分々」の修行がある。こうやって限りなく細分化されてゆく。これがどれくらい細分化できるかが、その人の修行のレベルを表しているのである。年単位で時間を考えている人と、秒単位で体感している人とでは、内的な時間感覚がまるで違う。そしてこれが細分化されつくしたとき、切れめはなくなる。「分別」はなくなり、流れのなめらかな連続となる。「無」となるのである。

このブログでもしばしばご登場いただく阿波研造師範に次のようなエピソードがある。「彼」というのが阿波師範である。

その頃、ある日のこと、私が一射すると、師範は丁重にお辞儀をして稽古を中断させた。私が面食らって彼をまじまじと見ていると、「今し方“それ”が射ました」と彼は叫んだのであった。やっと彼のいう意味がのみ込めた時、私は急にこみ上げてくる嬉しさを抑えることができなかった。
「私がいったことは」と師範はたしなめた、「賛辞ではなくて断定に過ぎんのです。それはあなたに関係があってはならぬみのです。また私はあなたに向かってお辞儀したのでもありません、というのはあなたはこの射には全く責任がないからです。この射ではあなたは完全に自己を忘れ、無心になって一杯に引き絞り、満を持していました。その時射は熟した果物のようにあなたから落ちたのです。さあ何でもなかったように稽古を続けなさい。」(オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』福村出版94頁)

術のない術とは、完全に無我となり、我を没することである。あなたがまったく無になる、ということが、ひとりでに起これば、その時あなたは正しい射方ができるようになる。(同『日本の弓術』岩波文庫30頁)

時間の細分化も空間の細分化も主客の細分化も同じである。細分化されつくしたところに「無分別」が現前するという逆説がある。

「“それ”が淹れました」。この境地に至るべく私は毎日珈琲を淹れている。名付けて「it珈琲」(IT(アイ・ティー)ではありませんよ~)。
ここ数日、「お湯をのせる」感覚に変化があった。日々の修行の楽しみは、たまに、そして唐突にやってくるその微々たる変化を待ち、そしてやってきたら機を逸することなくつかまえることにあるのかも知れない。

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日々より月々年々の修行ならでは

芭蕉が元禄7年1月29日、怒誰に宛てた書簡に次のような文章がある。

御修行相進候と珍重、唯小道小枝に分別動候て世上の是非やむ時なく、自智物をくらます処、日々より月々年々の修行ならでは物我一智之場所へ至間敷存候。誠御修行御芳志、頼母敷貴意事に令感候。仏頂和尚も世上愚人に日々声をからされ候。(引用は今栄蔵『芭蕉書簡大成』(角川書店)

今、田中善信『全釈芭蕉書簡集』(新典社)によって現代語訳を示すと次のようになる。

禅の修行が進んでいるとのこと、結構なことです。ただ、枝葉末節に分別が働いて、世俗的な利害に心が安まるひまがなく、自分の小賢しい智恵で物が正しく見えない状況、これが我々の日常ですが、日々、月々、年々修行を積んでゆかなければ、物と我と一致する境地に至ることはあるまいと思います。真剣に仏道修行に専念しているお志がたのもしく、とりわけあなたのお気持ちに感銘を受けております。仏頂和尚も世間の愚かな人々を導こうと、日々声をからして教えを説いております。

怒誰(どすい)は近江国膳所の藩士で芭蕉の門人。同じく蕉門の曲翠(曲水)の弟。『荘子』の思想に傾倒しており、芭蕉の思想に共感していた。この書簡の前半では、芭蕉の禅の師である仏頂和尚が芭蕉庵にやってきた折のことが報告されている。

さて、ここで芭蕉は、私たちの日常は、枝葉末節に自分の理性や欲望が働いて、あれがいい、これがダメだ、などと騒ぐばかりで、心休まる暇がなく、物が正しく見えない、と述べている。
「自智物をくらます」。智(知)は、もののほんとうの姿を見えなくする。普通私たちは、知識や智恵が物の本質を明らかにすると考える。だからそれらを身に付けるべく勉強をする。しかしそれは逆だというのである。

また、ここでは「自智」を「自分の小賢しい智恵」と訳しているが、ここでいう智には「自分の小賢しい智」と「そうでない正しい智」があるのではない。芭蕉がここで言っているのは、全ての智は、我欲にとらわれた浅はかなものである、ということである(田中氏もその意味で訳しておられるはず)。

だからその対極が「物我一智」(物我一致)の境地なのである。我も物もない境地。ここでは主体はとろけている。だから知識も知恵も分別もない。ただただ全ての流れと一体化しているので、「自分」というものがない。これを芭蕉は別の言い方で、「四時を友にす」とか、「造化へ帰れ」とも言った。

我欲をすて、自我を捨て、主体をとろけさせて、宇宙・自然と一体となる。全ての流れになる。そこに「私」はない。

同じことは芭蕉に限らず、思想家であろうが文学者であろうが宗教家であろうが武道家であろうが、たくさんの人が説いているし、その解説も備わっている。だからいまさらこここで大げさに解説するほどのことでもない。
ただ私は、自分に言い聞かせるために同じことを何度も繰り返し言う他ないだけである。しかしほんとうに自分に言い聞かせたいのはこちらである。

日々より月々年々の修行ならでは物我一智之場所へ至間敷存候(日々、月々、年々、長い長い修行を積んでゆかなければ、その境地に至ることはあるまいと思います)。

「日々より月々年々の修行ならでは」。いい言葉ですねえ。

最近twitterの方で報告しているが、毎日阿波研造師範の Itの境地による珈琲淹れ修行を楽しんでいる。私のような不器用な凡夫には、「日々より月々年々の修行ならでは」一杯の珈琲さえ満足に淹れられないのである。

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LifeTouch NOTE1~Text Editor

Jota Text EditorというEditorが評判が良かったのでインストールして使っている。
すばらしい。まず、
– 100万文字程度までのテキストファイルに対応(Alphabetで1MBytes/ShiftJISで2MBytes)
– 文字コード自動判定
がありがたい。
その他、ショートカットキー、行番号表示、カーソル位置の保存などなど、機能が充実している。まだ使っていないが、別ソフトでGrepも用意されている。これだけ揃ってると、もっとあれも、これも、と高望みをしてしまうほどだ。実は希望したい機能もある。要望にもビビッドに対応してくれそうなので、伝えてみたい。

しばらくはこれメインで原稿を書いてみよう。

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五体のマエチン

(昨日の続き)

おはようございます~

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代表、さわやかな笑顔

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五体の新しい丁稚、くり坊のストレッチ

このくり坊のストレッチを見に行った……
のではなく、五体のマエチンに会いに行ったのです。
いやあ、びっくりしました~
ここまでとは。
生の「そうっすね」が、ここまで面白いとは。

いやそうではなく、治療後に黙々と自分の感覚を確かめながらのトレーニング。
この積み重ねがマエチンなんですね~
その「誠実」な姿に感動致しました。
『左重心で運動能力は劇的に上がる! 』(宝島社新書)のあとがきに書いてある、

結局はトップアスリートほど、こうした地味なトレーニングを大切にしているんです。

というのを生で見せて頂きました。
こういう誠実な姿が日本代表FWを作っているんですねえ。
すばらしい。

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記念撮影。左端が五体の新しい丁稚、くり坊。

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五体の代表って

昨日(7月31日)は五体治療院へ。
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この人の運転する車で。

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この人も一緒。

しかし五体に到着すると、
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代表は寝ていた……

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