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2011-07
猿たちの汐干狩
- 2011-07-31 (日)
- 日記
(これは寓話です)
チンパンジー何人かとボノボ何人かとオラウータン何人かとゴリラ何人かで汐干狩に行きました。
チンパンジーが「ここにいそうや!」といって砂を掘り始めました。
何人かのボノボはチンパンジーがそう言い終わらないうちに一緒に砂を掘り始めました。
ボノボはチンパンジーとほぼ同時に直感し身体が動いたのでしょう。
チンパンジーとボノボはわいわいがやがや、「おっ、いた! あっ、こっちにもいた!」といって楽しそうに掘っています。
オラウータンは一緒に掘っている人もいれば、離れて1人で掘っている人もいます。楽しそうにしているオラウータンもいれば、気難しそうな顔をしているオラウータンもいます。
ゴリラはその様子をちょっと離れて見ていました。そしてチンパンジーやボノボが楽しそうに掘っているのを確認してから、自分もその中に入っていきました。
もっと遠くで見ていた人間は、「そんな所より、もっとあっちの方がいっぱいいるんだよ。いやそこじゃないよ。ああそんな掘り方じゃだめだ。何やってんだよ。ああ、見ちゃいられねえ」と悪口を言いながら、ずっと見ています。
なんかこんな感じですかねえ。ある流れが出来るとき、
新しい流れを作り出す人
その流れと一体化して流れてゆく人
「流れが変わったぞ。こっちか」と確認してからついてゆく人
流れなんてどうでもよくて、自分の行きたいところに行く人
いつでも流れと反対に進む人
あれこれ考えてずっと止まっている人
それを外から見て、批判する人
世の中にはいろんな人がいます。
自分の中にもいろんな自分がいます。
難しいのは、自分がそうでありたいと思っているのと、実際の自分は違うということです。
ちなみに私は子どものころ外で遊んでいて、自分の興味に惹かれてそっちに行ったら、誰も一緒に来てなくて、1人だけ仲間から外れていたことがよくありました。少し大人になってからも、ディスカッションしてても、自分が興味ある話題を振ってもスルーされて、他の話題で盛り上がることもよくありました。
こういうことは今でもよくあります。たぶん。
たぶん、というのは、昔はそういうときショックを受けていましたが、今はそんなことどうでもいいので、いちいちショックを受けません。ですから、そういうことが起こっているのかいないのかさえも定かではないのです。たぶん事実としてはそういうことは今でもあるんだろうなあと思うだけです。でもどうでもいいし。
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憧れ
- 2011-07-30 (土)
- 日記
ある高校の先生からメールが来た。
最近の生徒たちを見ていると、大人に憧れる気持ちがないようです。
日本では子供時代が楽しいというのもあるでしょうが、子供でいたがる気持ちがつよく、青年期に、大人へ成長しようというエネルギーを欠いたまま、静かに過ぎているように思います。
これは私の実感ともよく合っている。
子どもが大人になる契機を奪ったのは大人である。一つは「憧れ」。一つは「価値観」。まずは「憧れ」から。
「はやく大人になりたい」とか、「ああいう大人になりたい」という憧れが子どもたち、若者たちに薄いように、私も感じる。大人にならないと出来ないことが極端に減ったからかも知れないし、魅力的な大人が減ったからかも知れない。まあ、あまりにも幼稚で、疲れ切っている大人に憧れる子どももいないし。もちろん明るく元気で魅力的な大人はたくさんいるんだけど。
そういえば最近やや上昇傾向になったと聞いたが、少し前までは新入社員の出世欲が非常に低いという調査があった。ある新入社員が、疲れ切った上司を見て、10年後の自分の姿をそこに見て絶望した、と言っていたのを聞いたことがある。
憧れが薄ければ「学び」も薄くなる。武道においては、憧れがないと「学び」そのものが成立しない。「あの人のような技を自分もやりたい」「あの人のようになりたい」「あの人の境地に自分も達したい」という憧れだけが、確かな頼りである。目の前の師匠がその境地に達していなくても、かつてその境地に達した先人がいたということが信じられれば十分である。師匠にあこがれ、師匠が憧れている境地に憧れる。師匠への憧れと師匠の憧れへの憧れ、これが日々の稽古を支えるのである。
武道の稽古はしばしば理不尽なこともある。科学的なエビデンスなんてないことがたくさんある。もちろん結果に対する事前の保証などない。ただ自分の憧れる師匠がそうしているから自分もそうするだけである。たまに師匠が「こうしなさい」とおっしゃるからそうするだけである。師匠もまたそうして今の師匠になったのであり、そうする以外に今の師匠はあり得なかったからである。
最初は、護身術とか、喧嘩に強くなりたいとか、いろいろな理由で武道を始める人がいる。それはそれでいい。ずっと続けていると、最初の動機なんてどうでもよくなるからだ。何年も続けていると、師匠が到達した境地に憧れ、師匠が憧れている先人が到達したであろう境地に憧れ、師匠の憧れに憧れる。そのような憧れの構造だけが頼りとなる。
どうもその構造にどっぷりつかると、自分の個性がなくなってしまうとおびえる若い人もいるようだ。自分をまずしっかり保って、自分に足りない点を分析して、それを補強して、というのだろうか。大丈夫。全身全霊で憧れたくらいで、個性なんてなくならないから。そんなに簡単に捨てられるなら誰も苦労はしないのである。
個性と教育の話はまた別の機会に。
閑話休題。
大人が楽しそうに生き生きしている社会でないと、誰も大人になりたいと思わない。
年寄りが生き生きしている社会でないと、誰も歳をとりたいと思わない。
私もあんなお年寄りに早くなりたい。そのために今しっかりがんばらなくっちゃ。
若者にそう思われるような、そしてこのような年寄りになるために自分は今まで歳を重ねてきたのだ、と自分で思えるような年寄りに、私もなりたい。
さて、もう一つの「価値観」。
子どもと大人は違うという価値観は曖昧にしない方がいい。例えば、子どもだからしていいこと、悪いこと、大人だからしていいこと悪いこと、最低限の違いはなくてはいけない。
子どもは早く寝るものなのである。
当然子どもの方が不自由である。しかし不自由感がないところで、「自由になりたい」という欲望は強くはならない。やや過度くらいの適度な不自由感が、人間の欲望を鍛えるからである。
言葉も同じ。言葉ほど便利なものはないが、言葉ほど不自由なものもない。しかしその不自由さこそが、コミュニケーションへの欲望を強くするのである。
またまた話を戻そう。
吉田松陰ゆかりの明倫館小学校(山口県萩市)の卒業生によると、入学したての一年生のとき、松蔭の次の歌をクラス全員が暗唱させられたという。
今日よりぞ幼心を打ち捨てて人と成りにし道を踏めかし
もうあなたは幼子じゃないんだよ。これからは「人間」になるための道をしっかり歩んでゆくんだぞ!
ここにはしっかりとした価値観が表明されている。
それにしても入学したてのぴかぴかの一年生に、毎朝これを唱えさせる小学校って、いいですねえ。
今でもやってるのかしら。
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職人と技術者
- 2011-07-29 (金)
- 日記
西窪くんと「職人」と「技術者」について雑談。
「技術者」にも「職人」にもいろいろいるのに、話しているとどうしても、俗流(だめ)「技術者」と、超一流「職人」の話になってしまう。多分わたしたちには、超一流の職人さんに対する憧れがあるのだろう。そしてそういう人たちは、自分を大工だとか職人とは言うが、技術者とは言わないからである。念のためにことわっておきたいが、優れた一流、超一流の技術者が沢山いることはよく存じ上げている。ただ、
あの人は職人的な技術者だねえ
というのは聞いたことがあっても、
あの人は技術者的な職人だねえ
というのは聞いたことがない。プログラマーの世界でも、「職人的プログラマー」と言ったりするという。この時の、「職人」という言葉には、あるニュアンスが含まれている。それは、例えば、その人のコードはとても美しい、とか、その突き詰め方が尋常でないなどいろいろあるが、一言でいえば、「その人にしか書けない」ということである。
その人にしか出来ないことが出来る人を私たちは「職人」と呼ぶ(もっともそれが何でもいいという訳ではないが)。この場合は、優れているかどうかは本来はどうでもいい。一般的には優れた技術をイメージすることが多いだけである。
西窪くんは、「技術者は技術の所有者」だと言った。面白い言い方だと思った。そう言うとき、「技術」と「人」は切り離されている。そして重点が置かれているのは「人」ではなく、「技術」である。この「技術」は「人」と切り離されているので、所有者は変更可能だ。したがって、誰でも身に付けられる普遍性を持つ。
一方で、私たちが「職人」というときは、その人がもつ「技術」と一体になっている人を指す。ここでは、「人」と「技術」は切り離せない。つまり、「その人でないと持てない技術を身体に宿している人」を職人と呼んでいるのである。決して技術を「所有」しているのではない。
だから、ある職人さんが亡くなったら、その技術も一緒に亡くなるのである。
前に、俗流「科学的」思考はリスクも責任もとらない、と書いたことがある。「技術者」というときも同じである。例えば、俗流「技術者」は、不可能な局面で、「今の技術ではこれは出来ない」というだろう。しかし「職人」は、「私にはこれは出来ない」というだろう。「今の技術では不可能です」というとき、その人に責任もリスクもない。「技術」がまだそこまで発達していないのだから。しかし、「私には不可能です」という人は、全てのリスクと責任を負っている。「私には不可能」というときは、「他の職人さんなら出来るかも知れない」という可能性を必ず含んでいる。そしてほんとうにそれが出来る職人さんが他にいたら、その人は信用も仕事も失うかも知れないのである。
逆も場合も同じである。確かな「科学的な」根拠もなく、保証もない場面で決断しなければならないとき(ほとんどの重大な決断はそうなのであるが)、その決断を自分の経験も勘も含めて、人生の全てをかけて決断する。私は自分でリスクと責任をとって、自分のもつ能力(技術)に徹底的に誠実に生きている人間が大好きであり、非常に尊敬している。そういう人といるととても元気になるし、生きる力が湧いてくるからである。
私は高度な技術者を養成することを使命とする大学で教育をしている。できればリスクと責任をとり、その人にしかできないことができる「職人的な技術者」になってほしいと願っている。もちろんそれは何も特別優れている必要はない。その人にしかできない、そしてそれとほぼ同義であるが、自分自身(=自分の技術)に徹底的に誠実である、ということが肝要なのである。
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学びの機会損失
- 2011-07-28 (木)
- 日記
康樹くんがtwitterに「機会損失」の話を書いていた。ビジネス用語である。
マネー辞典というサイトにこう書いてある。
費用概念の一つ。実際に取引を行い発生した費用ではなく、最善の決定をしなかったがために、利益を得る機会を逃した場合の費用概念のこと。
機会損失の原因となるものとしては、例えば在庫切れがある。これは、買い需要があるにも関わらず、売り手側が最善の決定をしなかったがために取引が成立せず、売り上げが減少したことから、機会損失の例となりえる。
学びにおいては売り手は学ぶ側である。逆ではない。だって、学び損なった場合に損をするのは学ぶ側であって、教える側ではないから。
学ぶ側は授業料を払い、教える側はそれによって報酬を得ることも多いが、それは学びの本質ではない。現代における学びの形態、つまりビジネスの話である。ビジネスになっていないところから、つまり授業以外のところから、人は大事なことのほとんどを学ぶ。
学びの本質はあくまで、学ぶ側がそのchanceを自分のものにすることである。学びのchanceはどこにでも転がっている。自分でそれに巡り合うために行くこともできる。そしてその機会を損失するのもまた学ぶ側なのである。
いつでも在庫を切らしている人は、「よい学び」の機会損失を繰り返す他ないのである。
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200人に1人
- 2011-07-26 (火)
- 日記
録画してあった、たけしアート☆ビートを見た。今回は、「モードの世界の先駆者、今なお世界から注目と尊敬を集める帽子デザイナー」平田暁夫さん。
番組HPにはこうある。
ハイファション・ブランド、皇室、美空ひばりなど、国内外に幅広い顧客を持つ。
60年代に渡仏して身につけた欧州伝統の帽子の製法は、今や平田の元にしか残っていないといわれている。
モデルさんに合う帽子を見つけるのに、「考えますね、悩みますね」というたけしさんに対して、
合わせようと考えない方がいいんじゃないですか。
と言われたのが印象的だった。
そして、平田工房へ。
たけし:平田さんのとこに「やらして下さい」って来る人いるでしょ?
平 田:いや……、ここへ入りたいという人はいますけどね。……なかなか入るとね……
たけし:入っても、もたない人、いっぱいいるでしょ?
平 田:ええ。……ここまで、やっぱりね、……かなり辛抱しなくちゃいけない……
たけし:うちのお笑いと同じですよ。……200人くらいで1人ですね。どうにか食えるようになる人。
平 田:はああ~、はああ~
やはり辛抱が大切なんですね~
200人に1人しかもたないレベルの辛抱が。
でもそれでもどうにか食える程度ですから、もっと上のレベルに行きたければ、もっとレベルの高い辛抱が必要なんでしょうね。
しかし私は、そのレベルの辛抱をした人から、「それが辛くて辛くて耐えられなかった」というのを聞いたことがない。耐えられたのだから当たり前だけど。もちろん、じゃあもう一回やりますか?と聞くと、いやだという人は多い。でも小川三夫師匠も、菊池恭二さんも、将棋の大山康晴さんも、それほどでもなかった、あるいは、そんなことは当たり前すぎて一々辛いとか辛くないとかいうべき筋合いのものではない、という感じが強い。
内弟子や「丁稚」を経験することによって、極めて高い境地に到達した人は、その辛抱を「辛い」ものではなく「当たり前のもの」とするマインドを持っていたのだろう。辛い辛いと言っていても、技術が身に付く訳ではないし。このマインドが修行の心得なのであるが、これは自分でつかむしかない。
それにしても平田さん、いい味だされてます。
その後のたけしさんが工房の人に聞いたことがまた洒落ていた。
武道部はもうすぐ、創部以来ののべ入部者が200人になるはずだ。
その中で、たった1人ですかあ。どうにかこうにかのレベルに行けるのは。
うわ~。
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cowbell
- 2011-07-25 (月)
- 日記
演武会の翌日、荒川夫妻からお誕生日プレゼントにcowbell(カウベル)と栞を頂いた。どちらもスイスとバーゼル情緒溢れるものである。
wikipediaによると、「カウベル とは牛(カウ)などの家畜の首に付ける、金属製の鐘鈴(ベル)のことである。(略)自由に動く金属の舌が付いていて、カウベルが揺れるとこの舌が球を内側から叩いて音を発する。家畜が動くとカウベルが鳴るので、家畜の所在を把握するのに使う」。
私が迷子にならないようにという、教え子の深い愛情が感じられます。ほんとうにありがたいことです。
首にぶら下げとくと授業中うるさくてしかたないので、研究室の扉にぶら下げてます。
これまた頂いたリュックもぶら下げてます。
なんとなくザクっぽくぶら下げてしまう私は技科大病??
よしだくん~
リュック、ちゃんとありますよ~
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LifeTouch NOTE
- 2011-07-24 (日)
- 日記
わたしは「ちっちゃいやつ」が大好きである。
http://blog.housun.jp/?p=747
そんな私がポメラの次に買ったのは、当然
LifeTouch NOTE
N-08Bは携帯なので、電池の持ちとレスポンスがとてもいい。そして何よりキーボードのタッチ感が抜群である。しかし携帯なので、アプリのテキストエディタでも入力文字数に制限があり、これが少なすぎる。もっともメールに関してはわたくしもう普通の携帯に戻れない……と思う。
ポメラも電池の持ち、大きさ(重さ)、起動の速さなどは申し分ないが、1ファイルの入力文字数が28,000文字しかないこと(まあ普通の論文1本くらいなら書けるのであるが)、Unicodeに対応していないこと(これはかなり致命的)、PCの辞書が移植できないこと(これもちょっと困る)、通信機能などが不満である。そして何よりキーボードがあまり楽しくない。
もちろんどちらにしても、設計者の思想にないものを私が勝手に求めているだけなので仕方ないのである。
ということで、LifeTouch NOTEを買ってみた。モバギの再来と評判になったが、ちょっと触った感じだと、それは期待しない方がよいように思う。素人の感想だが、全く別の思想で設計されているように感じた。モバギとは全く違う「ちっちゃいやつ」としてしばらく遊んでみたい。
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twitter&Face Book
- 2011-07-23 (土)
- 日記
遅ればせながら、twitterとFace Bookを登録してみた。
登録したとたん、フォローして下さったり、お友達になって下さった方がいた。
ちょっと面白いね。
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PV
- 2011-07-21 (木)
- 研究
カヤの平井さんが、私のPV作ってくれました~
HNK(ヒューマンネットワーク高専)での講演DVDプロモーション用です~
DVDについてはこちら
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食事会
- 2011-07-20 (水)
- 武道部
20日。
今日は武道部の稽古はお休みで、部員たちと食事会。いつもながら大鯛さんにお世話になった。
公式行事ではなく来られる人だけでの食事会だったが、それでも17名ほど参加してくれた。
例によって雑談。
「本物とニセモノ」の話、「責任」の話、「上達曲線」の話、「存在感」の話、「ママさん武道家」の話、「ちりばめられたヒント」の話等々色々話したように思うが、酔っていてあんまりよく覚えていない。
え?
もちろん桃ジュースにですよ~
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