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2011-09
学問の私物化
大学院生の頃の話。
私は院生になり学会に入って、研究発表をするようになった。私の研究は、芭蕉の高弟、蕉門随一の論客と言われる各務支考の俳論である。しかし当時(いまでも)学会において支考の評価は極めて低く、研究する者もほとんどいなかった。そんな中、堀切実先生(現早稲田大学名誉教授)が、長年支考研究を続けてこられ、いわゆる第一人者であった。
「それまでの研究が何を明らかにし、何を明らかに出来ていないか。自分の研究はそれまでの研究に何を加えられるか」を明確にするのが研究(学問)のルールだと私は思っていた。だから必然的に私の研究発表は、堀切説を引用し、その達成と限界を指摘した上で、自分の説を提示し論証するという方法をとることになった。
私は論文や学会発表で堀切説を批判し、堀切先生も私の発表の質疑応答で自説を述べられた。もちろん私たちは、感情的に対立していた訳ではない。むしろ、研究に対するお互いの態度を信頼し合っていたと信じている。だから懇親会などでも親しく、かつ楽しくお話をして頂いた。
ところが、である。ある日、ある先生にこう言われた。
なぜ君は、堀切さんをそんなに目の敵にするんだ。彼の研究は優れているんだよ。
若かった私は、驚く他なく、この方が何をおっしゃっているのか理解できなかった。ただこの方と私は、信じているものが違うんだ、ということだけは分かった。堀切先生と私は学問というものを信頼し、この方は別のものを大切にしておられたのだろう。
それから数年して、全く別の話であるが、私のとても尊敬する先生が、学会でのちょっとした事件について話して下さった。
学問を私物化するからああいうことが起きるんです。学問を私物化してはいけない。学問はみんなのものだ。何かを「自分が発見した」などと傲慢になるからおかしなことになるんです。それまでの研究の積み重ねがあったから、自分の研究を進めることが出来たのだということを忘れてはいけません。
私はとても嬉しかった。学問は、みんなで少しずつ進めていくものである。学問の前では、人は謙虚にならざるをえない。またそうであるからこそ、従来の説を批判することができるのである。それを曖昧にすることは、学問の冒涜に他ならない。
濃い一日
- 2011-09-09 (金)
- 日記
8日(木)
午前中研究室で仕事。
午後から中日文化センター「おくのほそ道」。
今日は芭蕉の「秋風」について熱く語った。つでにこのこのブログにも書いた『徒然草』の馬のりの話もする。
終了後、車で駅まで送ってもらって、新幹線に。
富士山もちょっと曇ってます。
品川で降りて、在来線乗り継いで某社本社へ。
ゲートのある会社に初めて入った。
最上階会議室へ。
そこに実に濃い人たちが集まっていた。
今日は私はオブザーバーなので黙って議論を拝聴する。
終了後懇親会。
ある方が言われた。
私は彼に軽蔑される生き方をしたくないんだ。
そう言われた方も、
もちろん俺もそうだよ。お互いだよ。
いいですねえ。
私よりだいぶ上の世代の方は、とても熱い。
自分がこれをやれば、彼に軽蔑される(信頼を失う)ことはやらない。
自分がこれをやらなければ、彼に軽蔑される(信頼を失う)ことはやる。
武道部で「武道部員として信頼されるか(軽蔑されないか)」を行動規範にしているのも、これと同じである。
自分の外に、そういう信頼できる価値判断、行動基準を持つことができた人は幸せだと思う。
自分の外に、そういう信頼できる基準があるかぎり、その人は傲慢になることはできない。
もちろん自分の心と身体を使って全身全霊で考え決めるのである。この時の基準は自分の中にある。そんなことは当たり前である。しかしそれに加えて、自分の決して思い通りにならない信頼できる他者を持っていること、これがとても大切なのではないだろうか。
失礼ながら中座して最終の新幹線で豊橋に帰る。
濃い一日だった。
武道部稽古再開
7日(水)
武道部の稽古がひと月半ぶりに再開した。
ほんとうは9月3日(土)再開予定だったのだが、台風でのびた。
水曜日だから、ほぼ学生だけによる再開となった。
武道部が長期に休んだのは創部以来はじめてのことである。
10年間の疲れを癒すべく、今年は長期休暇となった。
再会した武道部員は、様々だった。
おっ、と思う動きをした部員。
ことひと月半、一体何してたの? と言いたくなる部員。
再開の喜びに満ち溢れている部員。
これまでと変わらず暗い部員。
ほんとうにいろいろ。
それによってこのひと月半をその人がどう過ごしてきたかが分かる。
このひと月半をどう過ごしてきたかによって、その人の武道に対する心構えがわかる。
武道の心構えによってその人の生き方が分かる。
つまりその人間が分かるのである。
今回の長期休みの目的ははっきりしている。
リセット。
本来は続けながらリセットして欲しいのだけれども、どうしても難しいと判断したから長期に休みにしたのである。
長期休みを利用してリセットする方法は2つしかない。
猛特訓するか、何もやならないか。
中途半端にやるのが一番よくない。
とまれ、この長期休暇によって武道部はリセットされた。
今日からはまたルーティーンである。
今、もうちょっとで一気に花を咲かせようとしている部員がいる。
今、もうちょとでブレークスルーしかかっている部員がいる。
ほんとうに楽しみだ。
これからも武道部をよろしくお願いします。
唐津焼珈琲カップ1
- 2011-09-07 (水)
- 日記
心にかかる事あらば、その馬を馳すべからず。
- 2011-09-05 (月)
- 日記
兼好の『徒然草』(第186段)にこうある。
吉田と申す馬乗りの申し侍りしは、「馬ごとにこはきものなり。人の力、あらそふべからずと知るべし。乗るべき馬をば、まづよく見て、強き所、弱き所を知るべし。次に轡(くつわ)・鞍の具に、危き事やあると見て、心にかかる事あらば、その馬を馳すべからず。この用意を忘れざるを馬乗りとは申すなり。これ秘蔵の事なり」と申しき。
(現代語訳)
吉田と申します馬乗りの名手が、言いましたことには、「どの馬もみな、手ごわいものである。人間の力は、馬と張り合うことができないものだと知るがよい。これから乗ろうとする馬を、まず十分に観察して、その馬の強い所と弱い所とを知らなくてはならない。次に、轡(くつわ)や鞍の器具に、危ないところがありはしないかと調べてみて、気にかかることがあったならば、その馬を走らせてはならない。この心づかいを忘れない人を、馬の乗り手と申すのである。これは乗馬についての秘訣である」と申しました。
(引用はJapanKnowledge 『新編日本古典文学全集 徒然草』小学館 永積安明校注・訳 による)
名人とそうでない人の違いは何かという話である。
まず、
名人は、人間の力は馬には決して及ばないことを知っている。
ということである。
馬乗りの名人は馬を意のままに自在に操れると思いがちだが、実際は逆で、自分の力は決して馬には及ばないということを明確に自覚しているのが名人だというのである。
さらに、
これから乗る馬の長所、短所をしっかり把握すること。
その上で、
危険な箇所はないかと徹底的にチェックして、少しでも気がかりなところがあれば、決して馬を走らせない。
この「用意」(深い心づかい)を忘れない人を「馬乗り」(の名人)という。
この「秘蔵」の教えには、技術(テクニック)のことは一切書かれていない。名人とそうでない違いを隔てているのは、「用意」(深い心づかい)であると述べているのみである。それは、己の分を知り、これから自分が使うものをよく知り、そして少しでも危険性が感じられるものは、決っして動かさない、という「用意」である。
先日NHKのETV特集「アメリカから見た福島原発事故」を見ながら、同じだ、と思った。
「馬」を「原発」に置き換えればそのままである。
人間の力は決して及ばないことを知った上で、長所と短所をしっかり把握し、危険な箇所はないかと徹底的にチェックして、少しでも気がかりなところがあれば決して動かさない。
こんな当たり前でシンプルな「用意」を、人間はすぐに忘れてしまう。それは何も効率やコストを追い求める現代だけの話ではない。兼好の時代からそうだった。だから、この「用意」の有無が、名人とそうでない人を隔てる高い壁だったのであり、これが「秘蔵」の教えとなったのである。
おそらく原発に関わった専門家の中にも、名人もおられたはずである。圧倒的に多くの「専門家」の中で、ごく小数の名人の「用意」は生き延びることができなかったのか。
さぞかし無念だったに違いない。
私は、日本のものづくりを支えてきたのは、「高い技術力」ではなく、この「用意」(深い心づかい)だったと本気で信じる者である。そして、この「用意」のないところに「高い技術力」などあり得ないと信じる者である。つまり日本のものづくりが「高い技術力」を誇ってきたのは、日本の多くの専門家(技術者)がこの「用意」を大切にしてきたからだと信じているのである。
私はことさら「名人」と書いてきた。しかし兼好は「馬乗り」と書いているのであって、「名人」とは書いていない。兼好は、この「用意」がない人は、「馬乗り」とは言わないと述べているのである。つまり、この「用意」がない人は、名人どころか、その道の専門家ではないということである。
私は、これからの社会で、この「用意」を大切にするほんとうの意味での「専門家」が生きられるような価値観が共有されることを心から願っている。
ここで兼好が使っている「用意」は「深い心づかい」という意味である。しかし「用意」には、「まえもってしておく準備」の意味もある。
少々こじつけて言えば、この「深い心づかい」は、何かをなすための不可欠の「準備」なのである。その準備があってはじめて、何かが実行される。高い技術力が生まれ、質の高いものが作られる。
私が子どもの頃は、「用意」の大切さをさんざん言われた。「明日の用意を前の日のうちにしなさい」「プールに入る前には準備運動をしなさい」等々。運動会の前には必ず準備体操があった(今でもあるだろう)。
子どもの頃はこの「用意」の大切さがよく分からなかった。ほとんどの場合、十分な「用意」がなくても何とかなったからである。しかし大人になる中で、「用意」の大切さを身にしみて感じる経験を何度かしてきた。そして分かったのである。この「用意」の大切さを分かることが、大人になるということなのだと。子どもは用意せず行動しようとする。だから味わい深い行動にならず、かつ危なっかしいのである。しかし子どもはそれでもよい。子どもに出来ることには制約があるし、その経験によって子どもは学んで成熟してゆくからである。しかし大人は違う。
大人による「用意」なき「実行」ほど、空虚で危険なものはない。
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