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稽古に神変あり

「稽古に神変(じんべん、じんぺん)あり」という言葉がある。
『日本国語大辞典』は、『毛吹草』や『譬喩尽』をあげ、「熱心に稽古すれば、能力以上の高い境地に達するものである」と解説する。

私たち武道を志すものは、「練習」とは言わず「稽古」と言う。なぜか?
「稽古」という言葉の意味は、「古(いにしえ)を稽(かんが)える」ということであり、「古事を考えて、物事のかつてあったあり方とこれからあるべき姿とを正確に知ること」だからである。単に何かを繰り返すこととは全く違う。練習やトレーニングは、必ずしもいにしえをかんがえる必要はないのかもしれない。しかし稽古は違う。いにしえをかんがえ、理を明らかにし、正しき道を歩むこと。これが稽古である。

かつて先人たちが歩んだ道を、自分もまた正しく歩む。かつて先人たちが辿り着いた境地に、自分もまたいつかは至る可能性を信じて。そうして日々のやるべきことを少しずつ積み重ねているうちに、ある時突然ブレイクスルーするときがある。「稽古に神変あり」とは、そのことに他ならない。

それが、いつ、なぜ自分にやってくるのかは、決して分からない。また、神変を目指して稽古するものでもない。稽古には神変というものがつきものだが、神変のためにするものではないのである。神変は、稽古の結果であり、待つしかないものである。

ただ、正しい「稽古」を続けているものには必ずやってくることもまた、正しいことなのである。

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