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授業 アーカイブ

輪講

今日は久しぶりの輪講。

ニシクボくんと二人なので、竹田師匠の本を読んだ。

久しぶりの竹田節。

やはり深くて分かりやすい。

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ゼミ

今日は久しぶりのゼミ。

今日は国語力検定の結果分析を行った。

英語力と国語力などの関係など、とても興味深い結果が出た。

報告会できちんと報告しよう。

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15歳がいい。18歳では遅い。

年末からの研究室の片づけを続けている。

2010年7月16日(金)の竹中工務店東京本店でにシンポジウムのメモが出てきた。小川師匠の言葉である。

(弟子入りは)15歳がいい。18歳では遅い。15歳で来ると、身体が仕事の体になってゆく。大学卒、体ができてからだとキツイ。朝も寝てたい。身体が出来て頭を使う。身体がしんどいので頭で考えるようになると、ズルを考えるようになる。

これは私のこれまでの経験とよく合う。
15歳と18歳というのは、ちょうど高専と技科大に当たる。それぞれ高度な技術者を養成するという使命を掲げているが、それぞれに果たすべき役割があるはずである。そのとき、学生の年齢というものを考慮しなければならない。
高専ではできるが技科大ではできないこと。またその逆もある。高専の年齢のうちにやっておかないと、技科大にきてからではもう遅いということもある。技科大できちんとやると、それまでの高専での経験が飛躍的に伸びるということもある。

高専と技科大は現在様々な連携を行っているが、高専(年齢)でこれをやってくれていたおかげで、技科大で飛躍的に伸びた、また、技科大(年齢)でこれをやってくれたおかげで、高専での教育が十二分に展開された。そういう連携を構築したいものである。

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初めての卒研発表

今日は卒研発表の日。
中森研究室としては初めての卒研発表である。
2人とも頑張って発表してくれた。
予想外の質問もあったが、なんとか自分で乗り切った。
この経験がきっとあとで生きてくるだろう。
お疲れ様でした。

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今日も予行

今日も卒研の予行発表。
明日が本番。2人とも力を発揮してほしい。

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本の搬入とゼミ

先日搬出した研究室の本の搬入。
思ったより早く終了した。

夕方はゼミ。
20日の卒研発表の予行発表を聞く。
明日までの修正点を指摘して終了。

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国語力検定成績配布

今日は国語力検定の成績の配布日。

みんな続々と取りに来ました。

笑いあり、悔しい顔あり。
廊下はとても盛り上がってました。

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ヴォーリズ『吾が家の設計』

研究室の輪講はヴォーリズ『吾が家の設計』。

「個性」に関する考え方など、ちょっと首肯しかねる考えが結構述べられている。もちろんなるほどいうところもある。

おそらくヴォーリズ建築の魅力は、彼が意識的に考えたところ以外から出ているのであろう。創造とはそういうものなのでそのこと自体は驚くに値しないけれども、しかしそうすると、ヴォーリズ建築の魅力が一体どこにあるのかということが、いよいよ気になってくるのである。

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卒研

学部生の卒研もいよいよ大詰め。12月6日が提出である。
今年はじめて卒研指導をしたが、ほんとうに勉強になった。
しかも工学部建築・都市システム学系の専門の卒研である。
論文というものの考え方から、研究手法、研究目的、「業界」の常識など、全く違うのである。
それら全てを含めて、ほんとうに勉強になった。

しかし何より勉強になったのは、「教育」ということである。

とても素晴らしい研究をし、そてもすばらしい卒論を書いた学生がいる。私はほとんど何もしていない。おそらく私が余計なことをしたら、その論文は出来なかったであろう。私はただ毎週、その学生の報告を聞いて、思いついたことを好き勝手言っていただけである。これが「オーバーアチーブ」というものだろう。私はそれを狙った訳ではなかった。ただ結果としてそうなっただけである。もうすぐ完成。とても楽しみだ。

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寺田寅彦「科学と文学」

今日の国文学2は、先週に引き続き寺田寅彦の「科学と文学」。

今日の範囲は「言葉としての文学と科学」、「実験としての文学と科学」。

文学が言葉であると同じように、科学も言葉である。
ここで問題である。次の文章の【 ① 】には、科学(論文) 文学(小説)のいずれが入るだろうか?

吟味が充分に行き届いた【 ① 】であれば、それを読む同学の読者は、それを読むことによって作者の経験したことをみずから経験し、作者とととに推理し、共に疑問し、共に解釈し、そうして最後に結論するものがちょうど作者のその著によって発表せんとした内容の真実性とその帰結の正確性とを承認するのである

答えは、「論文」。つまり、これは科学について述べた文章なのである。しかしここに「小説」と入れても何ら違和感はないのではないだろうか。ここに記述されている体験が、村上春樹の小説を読んだ読者の体験の記述であったとしても。

寺田は、科学は言葉であるという。その意味は、言葉である以上、科学はは必ず表現されなければならないということである。つまり、他者に向かって表現されて、だれでもがそれを読むことが出来て、追体験できるのでなければ科学ではないのだと。

ある学者が記録し発表せずに終わった大発見というような実証のないようなものは(略)科学界にとっては存在がないのと同等である。

つまり、寺田が言っているのは、科学とは言葉であり、言葉である以上、表現されなければならない。そしてそれが読者による追体験、つまり検証に耐えるものでなければならない、ということである。ここでカール・ポパーの「反証可能性」を思い出すのは私だけではないだろう。

さらに寺田はこう続ける。

もっとも読者の頭の程度が著者の頭の程度の水準線よりはなはだしく低い場合には、その著作にはなんらの必然性も認められないであろうし、従ってなんらの妙味も味わわれずなんらの感激をも刺激されないであろう。

しかしこれは文学的作品の場合についても同じことであって、アメリカの株屋に芭蕉の俳諧がわからないのも同様であろう。

なかなか手厳しい。

しかしこのように考えると、一体文学と科学の違いはどこにあるというのか?それは、科学が「普通日常の国語とはちがった、精密科学の国に特有の言葉を使うことである。その国語はすなわち「数学」の言葉である。

では、「普通日常の国語」と「数学」はどう違うか。「数学」は、「日常の言葉と違って一粒えりに選まれた、そうしてきわめて明確に定義された内容を持っている言葉である。そうしてまたそれらの言葉の「文法」もきわめて明確に限定されていて少しの曖昧をも許さない」。

しかし、と寺田はいう。

事実は決してそれほど簡単ではない。

「数学は他の畑から借用して来た一つの道具であって、これをどう使うかという段になると、そこにもう使用者の個性が遠慮なく割り込んで来る」と。

ここで寺田が直観しているのは、「数学」が決して厳密に定義された言葉ではないということである。これもウィトゲンシュタインやクリプキを知っている私たちには既に馴染みの考え方であろう(私のウィトゲンシュタイン理解は、『はじめての哲学史』(幻冬舎)に書いたのでそれを見て下さい)。

さらに寺田は、数学が文学的であると同様、文学も数学的ではないか、ということに思いを巡らす。すなわち、

もしも、人間の思惟の方(ママ)則とでも名づけられるべきものがあるとすれば、それはどんなものであろうか。(略)自分はそこにまず上記の微分方程式のことを思い出させるのも一つの道ではないかと思うのである。

人間の思惟の方則、情緒の方則といったようなものがある。それは、まだわれわれのだれも知らない微分方程式のようなものによって決定されるものである。

われわれはその式自身を意識してはいないがその方則の適用されるいろいろの具体的な場面についての一つ一つの特殊な答解のようなものを、それもきわめて断片的に知っている。そうして、それからして、その方程式自身に対する漠然とした予感のようなものを持っているのである。

ここで寺田が述べている「方則」をフッサールは「本質」と呼んだ。ウィトゲンシュタインは、「ルール」と呼んだ。それは、厳密に取り出すことも、根拠づけることもできない。しかし私たちが普通に生活する中で、すでに、つねに知っているものである。フッサールもウィトゲンシュタインも、そしておそらく寺田も、それが厳密に根拠付けられないことに大騒ぎするのではなく、厳密に最終的には決して根拠づけられないにも関わらず、現にそれが通用していることを肯定的にとらえようとしたのである。

寺田の文章はここからどこに向かうのか。それは来週の授業までのお楽しみである。と思ったら、これから2週続けて木曜日の授業はないのであった。

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