ホーム

中森康之ブログ

めちゃくちゃ便利

 最近携帯を変えた。おかげでメールがとても打ちやすくなった。あんまり打ちやすいので、どうも最近私のメールが長くなっているような気がする。たぶん気のせいではないだろう。
 調子に乗って、このエントリーも携帯で書いてみた。
 たぶん今だけだろう。単に新しいのが嬉しくて使ってるだけで、すぐに元に戻るに違いない。私はそういう人間だから。

 もうひとつ、使っていてめちゃくちゃ便利だと思うのが、JAPAN Knowledgeである。何と言っても日国の全文検索ができるのがありがたい。
 こっちはもちろん一時的なものではない、と思う。

百尺竿頭に一歩をあやまる

 ここのところ蝶夢の『門能可遠里』を読んでいる。
その中の「不易流行」を説いた箇所で、「不易とは正風の地の躰なり。流行とは正風の曲節の躰なり」。すなわち、「不易」が基礎(地)であり、「流行」はその時々の調子や節回し(曲節)のようなものであって、その両方を学ばなければならないことが説かれている。
 「しかれども初学の人は常に不易の句躰をわすれず、ふかく心にいれて修行し給ふべし」。初心者は、基礎となる不易を深く心において修行しなければならない。そうすればその基礎から、自然と流行の句は出来てくるものである。「不易の修行地より、をのづから流行の句躰はあんぜられぬべし」。
 では基礎である不易の句を忘れて、流行の句だけを求めるとどうなるか?「流行の句躰をのみ修行あらば、百尺竿頭に一歩をあやまり、風雅の実地を踏たがへて異風に落ぬべき事也」。
 正しく修行したら到達できたはずの極致への一歩を誤り、風雅の道を踏み外して、必ず「異風」に落ちるに違いない、というのである。

 この考えは、支考の「其地をよくしれば、曲節は時に自在なる物也」(『俳諧十論為弁抄』)などを念頭に置いているものと思われるが、正しいと思う。
 俳諧も武道も芸事である。芸事の修行においては、この「地」が何よりも大切である。少なくとも武道において「地」(基礎)を忘れ、目先の変化(派手さ)に心奪われた修行者が我流に落ちてしまうのを、私は数多く見てきた。武道においては、この「地=不易」は「形(型)」である。形を正しく練っているうちに、自ずから「その人の動き」(個性)が出てくるのであって、「自分らしさ」は自分から求めるものではない。武道の存在感を前にすれば、己一個の存在など実に取るに足りないものであり、このちっぽけな己の存在を溶かすところから修行は始まるのである。それは一人稽古であれ、対人稽古であれ、同じである。
 この、己がとろける快感が修行のエロティシズムであり、バタイユが言う「連続性」のエロティシズムに通じるものである。その意味で、恋愛と武道の修行は似ているのかもしれない。とすれば、よい恋愛が出来る人は、よい修行も出来るということか?(いい加減なことばかり言っていると、「お前こそ「地」をきっちり学べ」と怒られそうなのでこの辺でやめておこう)。
 ともかく、学問においても、武道においても、仕事においても、人生においても、(他人との比較ではなく)自分自身の「百尺竿頭」を目指すのであれば、その一歩を誤らないようにしなければならない。自分自身の百尺竿頭に至る道、それは「心身最有効使用道」(嘉納治五郎)である。

時間との闘い

昨日、いつものように楽しくバリカンで頭を刈っていたら、バッテリーランプが赤になった。前回やった後、充電していなかったのである。

ひえー、バッテリーが切れたら虎刈りのままやんけ!

何とか間に合った。
まさに時間との闘いであった。
私は勝った!
頭も刈った!
あーびっくりした。

演武会チャレンジ

 演武会の準備が着々と進んでいる。
この土・日に演武会出演チャレンジがあった。
チャレンジしたのは5名。3名は試割、1名はヌンチャク、1名は形である。

 演武会の演武には、武道部の基準がある。例えば試割なら、瓦何枚といった具合に。もの(瓦とかブロックとか)によっても、性別によっても、キャリア、段によっても違う。
 もちろん普段の稽古で、大体どのくらいできるかは分かっているのであるが、限界にチャレンジするという意味と、自らその演武を獲得するという自覚のために、今回はチャレンジをクリアできればその演目を獲得できることにしたのである。
 まず土曜日に4名がチャレンジした。
 ヌンチャクはすんなりクリア。
 次に試割。結果は2名クリア、1名クリア出来ず。クリアしたうちの1人は瓦。枚数は合格ギリギリであったが、迫力がかなりあった。演目獲得(祝)。もう1回、枚数チャレンジが出来る。
 もう1人も、「こんなのできるの?」という皆の心配を余所に見事クリアした(ものは当日のお楽しみです)。こちらは逆にもっと迫力がほしい。
 クリアできなかった者は、本人の希望により今週の土曜日に再チャレンジする(これで最後)。なぜ失敗したかを本人が気づいて改められればクリアできるだろう。しかしそれはかなり難しい。だが本人にとっても、他の部員にとっても、いい勉強になるだろう。本人が土曜日までに、どこまでできるかに期待したい。

 さて日曜日にもう1人チャレンジした。こちらは卒業生のみの特別稽古会でのチャレンジ。かなり厳しいハードルを設定した(しかも前夜急に言われてのチャレンジだった)が、見事にクリア。他の者には知らせてなかったので驚いたと思うが、このチャレンジは、その場にいた全員の心を動かした。私も感動して、見ていてちょっと涙が出た。まさに今回のテーマ「全身全霊」に相応しい(可能性を持った)演武だった。
 このチャレンジを見ていた卒業生は、自分自身の演武をもう一度見直し、これまでとは見違えるものにしてくれるだろうと確信している。帰宅報告メールには皆、その意味のことを書いてくれていた。
 だがこの演武に関しては、まだ確定ではない。可能性を示したが、演武会でやるレベルにはほど遠いからである。もちろん演武会までには素晴らしいレベルに仕上げてくるだろう。彼女はそういう人間である。彼女だけではない。あの場にいた卒業生たちは全員、そういう期待には応えてくれるメンバーなのである。とても楽しみである。
 
 これ以降は、特別なチャレンジ日は設定していない。誰がいつやるかの予告もしていない。毎回の稽古が全員のチャレンジだからである。
 次のチャレンジは明日。色帯の部員は、おそらく心と技の準備をしているだろう。色帯もまた、そういう期待に応えてくれる部員たちだからである。

工藤公康『47番の投球論』

47番の投球論 (ベスト新書)

発売元: ベストセラーズ
価格: ¥ 735
発売日: 2009/03/14

 出てすぐに読んだ本であるが、そのままにしてあったので、少し書いておく。

・自問自答
 私も常々力説している「自問自答」(自感自答)について語られている(pp36-37)。武道においても、「それを延々繰り返すしかありません」。

・見え方
 ピッチャーとキャッチャーとでは、「バッターの見え方」が異なる(p51)ということを、初めて知った。言われてみれば当たり前かもしれないが、両者で見ているものが違うということを、私は今まで考えたことがなかった。なるほど、そういうことなのですね。

・ボールの投げ方
 武道的に最も興味深かった。武道的な観点から、ピッチャーが「腕を強く振る」というのは絶対ウソだと考えていたが、それを優れた投手がきちんと語ってくれている。
 
 誤解されている人も少なくないと思いますが、ボールは腕を振って投げるのではありません。(略)(p53)

 この後、ボールの投げ方が詳しくイラスト入りで解説されている。解説自体は「体の回転」に力点が置かれているが、私としては、さらりと出てきた「しっかり胸も張らず」という一言が印象に残った。ここに秘密があるのである。だが「体の回転」と胸の張りの関係については詳しく説明されていない。おそらくわざとだと思う。

・最高の出来
 工藤選手は99年が生涯最高の出来だったという。

 とにかく、バッターがよく見えていました。打席に立っているバッターをひと目確認するや、こういうふうに投げたら外角低め、あるいは内角高め、とフォームの微妙な感覚だけで投げ分けることができたのです。(p95)

 投げる時の意識が、キャッチャーミットやコースではなく、自分のフォーム(体の動き)に向いている。さすがである。「自問自答」を繰り返していたからに違いない。私もそのくらい空手の形を練りたいものだ。
 しかも、驚くべきは、

 だいたい、あのときの僕はネクストバッターズサークルに控えるバッターまで見えていました。(p96)

 すごいですね。

・意味を求める
 工藤選手は、全てにおいて意味を求めている。キャッチャーが出すサインもそうだし、自分が打たれたことについてもそうだ。

 結果的にヒットにはなりましたが、あれの意味するものは「ワンスリーのカウントからでも立浪は積極的に打ってくるから気をつけろよ」というメッセージであり、僕の次に投げるピッチャーに残すことができたのです。(p114)

 キャッチャーを育てるために、打たれるのが分かっていてサイン通りに投げたという話は有名であるが、見ているもののスケールが大きいですね。

・師匠からの学び
 本書には、師匠東尾氏とのことも書かれている。

 僕の師匠であり、今でも尊敬する大先輩です。
 しかし、その師匠から直接何かを教わったことはありません。ただ、間近でいろいろと感じとらせてはいただきました。(略)
 これからの自分の“手本”となるべき人に身近で接しながら、学び取とうろとしました。たとえば、
 「今はいいかもしれないが、これからはストレートとカーブだけじゃあ抑えられんぞ」
 こんなひと言をくれました。
 では、どうすればいいのか? それについては話してくれませんでしたが、このひと言をヒントに、「では何をすべきか」と考えていくことができたと思っています。(p118)

 これは後で述べる「考える」ことの重要性と繋がっている。

・準備力
 何か事にあたるにおいて最も大切なのは準備だと思います。
 プロならばあらかじめ“仕事”のための準備をしておくことは必要最低限のマナーであり、(p128)

 この後、試合前の「ルーティーン」について語られる。工藤選手も、やはりきちんとしたルーティーンをもっているのである。

・考えること
  考えることで成長する(p133)
 自覚がなければただ去るのみ(p139)

 素晴らしい体に恵まれ、特に筋肉、骨格などは同じプロ選手として羨むばかりのものをもち、投げればすごいボールを放る。それでも長続きせずに去っていく選手は少なくありません。
 つまり、「考える」ことをしなかったからだと思います。(p140)

 答えは聞いてはいけないんです。答えは自分で見つけるものなのです。(p175)

忌野清志郎さん

 忌野清志郎さんが亡くなった。
 とてもショックだ。
 私は、RCサクセションのファンでもなかった(むしろ曲などほとんどきいたことがなく、その存在が嫌いだった)し、ソロの曲もほとんど知らない。ただ有名ないくつかの曲をきいたことがあり、その中のほんの数曲はとても好きだという程度である。そんな私などが、清志郎さんのことを云々するのは、ファンの方には大変申し訳ない。

 だが、いつの頃からか、私は「清志郎」という「存在」が気になりだし、気がついたらとても好きになっていた。
 あのシャイで正直で愛と夢にあふれた「清志郎」という「存在」を、私はとても尊敬し、憧れていたのである。
 だからとてもショックだ。でも感傷的なものではない。
 むかしホテルで見たドキュメンタリー番組の中の清志郎さんは、ノスタルジーには興味がなく、未来に向かって、今を生きてた。熱烈に愛と夢を語っていた。
 私の授業は、あの番組を見てから少し変わった。武道部での話も変わった。私自身が変わったのだと思う。それまでは、照れて、恥ずかしくて、言えなかったことが、言えるようになった。多くの他者を目の前にしても、少し心を開いて自分を出し、自分を語れるようになったのである。もちろん今でもよく失敗するが、久しぶりにDVDを見て、やはり悲しくなったが、見ているうちに元気が出てきた。
私も頑張ろうという気になった。

娘に……

夕食後走ろうとしたら、娘が一緒についてきた。
始めは仲良く併走していたのだが、

この私について来られるかな?ふふふ。

と、僕がペースを上げたら、「ふん」とばかりに、逆においていかれた。
超ショック(T_T)

全身全霊

 昨日の続きをちょっと。

 全身全霊は、気合いとは違う。一所懸命とも違う。全身全霊は、これまでどのような生き方をしてきたか、普段どのような生活をしているか、どのような価値観を持って生きているか、何を目指して生きているか等々、その人の存在全てを含んでいる。
 例えば前日夜中まで飲んでいて、演武会当日だけ必死にやる。それで、「自分は全身全霊で演武しました」と言われても、誰でも違和感を持つだろう。当日全身全霊の演武ができるかどうかは、むしろ、それまでどれだけ準備をしてきたかが、ほぼ全てである。何も演武会だけではない。日々の稽古も同じである。その日の稽古を全身全霊でやるには、それ以外の時間をどう過ごしているか、が大切になってくる。授業もあれば、研究もある。仕事もバイトもあるかも知れない。そのような事全てを含めて、自分の存在があるのである。

 全身全霊は、それまで自分が生きてきた人生をかけて、今の自分の全存在をかけて、はじめて結果として現れることもある、そういうものなのである。

 もちろん優れた武道家なら、いつでも出したいときに出せる。しかし私たち凡人は、ただ必死にやって、結果として出てくるのを待つしかないのである。最初は自分では出せない。自分のコントロールを越えて、出てくる、のである。しかしそれを繰り返すうち、自分で出せるようになってくる、はずである。

 比喩的に言えば、自分が今持っている殻を破らないと全身全霊は出てこない。自分の全存在をかけるためには、自分の殻を後生大事にもっていては、かなわない。それまでの自分をその都度捨てなければならないのである。
 ボクシングのチャンピオンであり続けたければ、一度チャンピオンベルトを返還して、挑戦者と同じ場所に立って、防衛戦に勝って、またそれを自分で奪うことを繰り返すしかない。手放しては獲得する、この繰り返しだけが、チャンピオンであり続ける条件である。この連続には、無数の断絶が含まれているのだ。もし試合前に一旦チャンピオンベルトを手放すことを拒否したら、その時点でその人はチャンピオンである資格を失うのである。

 自分が変わるためには、まず捨てなければならない。新しいものが得られることが保障されていない段階で、である。この順序を間違えると、役に立つことしかしない、つまり、この稽古が何の役に立つのかを納得しなければやらない修行者になる。何のために勉強するのか?というのと一緒である。少なくともそういう修行者が上達することはあり得ない。

 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ

 この逆説が信じられた人だけが、溺れなくてすむのである。

 稽古前にはそれまでの自分を一旦捨てる。必死に稽古して、稽古が終わったら、結果として、なんとか紙一重で新しい自分を獲得できていた。その繰り返しが出来たら最高である。
 もちろんこれは単なる精神主義ではない。武道は、武術という身体の技術を通してそれを行うのである。

 道場はそのための空間である。自分をさらけ出して、自分の存在をかけて稽古する場所は、特別な空間、敢えて言えば神聖でなければならない。だからみんなで掃除もするし、出入りの時には一礼もする。そこを特別な空間にするかどうかは、そこにいる人の心次第である。

 もう紙一重のところまで来ている部員が何人かいる。だがこの紙一重が難しい。風船を膨らまして破裂させる瞬間には、それまで以上の力が必要なのと同じである。だがここで一踏ん張りしなければ、風船はしぼんでしまう。
 勿体ない!
 多分次回には爆発させてくれるだろう、と信じている。
 逆に、とても心配な部員もいる。今一番心配しているのは、f、y、m。

演武会プログラム

 7月11日の武道部演武会のプログラム案がほぼできた。今回のテーマは「全身全霊」。今どきの若者の「全身全霊」を感じてもうらおうというものである。技科大吹奏楽団とのコラボもある。

 プログラム案は大枠がほぼ出来上がったので、あとは細かい詰めと、演武者の決定である。今までは、演武内容と演武者を同時に決めていたが、今回は、全て第一候補者があがっているだけで、まだ決定していない。それは、今回のテーマと関係がある。

 「全身全霊」というのは、口でいうのは簡単だが、実行はとても難しい。自分の限界にチャレンジし続けた者だけが、時に「全身全霊」の領域に入ることができる。テクニックの巧拙とは全く別のことなのである。
 頭ではチャレンジしようと思う。心でも思っている(と自分では思っている)。だが、実際に動くと、すぐ心が折れる。あるいは集中しきれない。それでは全身全霊の領域にはほど遠い。

 武道部の最近の課題は、この全身全霊であった。全身全霊で稽古できない部員が年々増えてきたのである。在学生だけではない。卒業生も私も同様である。つまり武道部全体が、全身全霊を忘れつつあるのである。それでは困る。そこて今回勝負に出て、これを演武会のテーマとしたのである。

 今回の演武会が全身全霊の演武会にならなければ、武道部に未来はない。もちろん部員にも私にも未来はない。

 だから今回は、自分の限界にチャレンジし続け、全身全霊の領域に足を踏み入れた者だけが舞台に立てる、そういう演武会にしたい。何度も言うが、巧い下手ではない。だから色帯も黒帯もない。それぞれが自分の全身全霊を出し、会場中を全身全霊の空間にできるかどうかである
 本気で、それこそ全身全霊でやろうと思えば、今すぐ誰にでもできる。今年入った新入部員にもできる。だからこれからの稽古の中で、その領域に届かない者は、演武会に出ることが出来ない。これまでは、全員参加でやってきた。でも今回は、惰性で出演する者は必要ない。

 全身全霊でないものは去れ

である。だから私を含め、どの席も、誰にも、約束されていない。全身全霊が出せなければ、出せる人と交代するか、その演目自体を削除するかしかない。

 幸い、先週の土曜日の尚志館の稽古中、幸美さんがその領域に一瞬足を踏み入れた。今のところ、在学生で足を踏み入れたところを私が見たのは彼女一人であるが、おそらく彼女は、これから何度も足を踏み入れることができるだろう。他の部員もそれにつられて、どんどん足を踏み入れることを期待している。次回の稽古の時に、第一候補を押しのけて割り込んできたり、まだ候補が挙がっていない演目の第一候補になる部員が多くいるようであってほしい、と思う。
 もう一つ期待しているのは、卒業生である。卒業生が限界にチャレンジしている姿を在学生に見せることほど刺激的なことはない。
 次回の稽古から、一人、また一人と、全身全霊の領域に足を踏み入れる者が出てくる。そういう稽古がしたい。
 
 武道部員以外でこのブログを見て下さっている方は、ぜひ楽しみにしていて下さいね。

コーヒー豆

 今日、コーヒー豆を400グラム買った。
200グラムずつの二袋に分けて入れてくれ、マスターはこう言った。

 こっちは、今、ちょうどいい豆です。
 もう一つの方は、まだ少し早いと思いますので、後に飲んで下さい

 豆が足りないから奥に取りに行ったのかと思ったら、そういう配慮だったのね。
 ちょこちょこ買いに行くのが面倒くさいから多めに買ってゆく程度の客に、プロとしての心遣いをしていただき、ちょっと嬉しくなった。
 コーヒーをとても愛しているマスターなのである。
 今日はカウンターに座って、マスターがコーヒーを入れる姿を眺めていたが、その姿からも、やはり愛情が溢れていた。
 

ホーム

カレンダー
« 2025 年 12月 »
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
最近の投稿
最近のコメント
カテゴリー
アーカイブ
リンク
中森康之研究室
武道部
俳文学会
現象学研究会

ページトップに戻る