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研究 アーカイブ
浜名湖義塾
渡辺敦雄先生と一緒に、湖西市の浜名湖義塾を見学に行った。
三上市長ご夫妻、矢田部塾長、渡辺先生と、お昼前に鷲津駅で待ち合わせ。お昼をご一緒して、いざ浜名湖義塾へ。
この日はたまたま私たち以外にも見学者が2名おられた。
非常にのびのびとした雰囲気で素晴らしかった。
塾長は常に笑っておられた。
しかし、後で直接とメールでお話したところ、いろんな場面で真剣に子どもの言葉を受け止めておられた。それを子どもには全く感じさせず、楽しい雰囲気で授業をされていた。
私なら問い詰めてしまいそうな場面でも、塾長は笑っておられた。
だから子どもたちは楽しくて楽しくて仕方ないうちに、どんどん伸びてゆくのだろう。
この子たちの将来がとても楽しみだ。
ほんとうにいい授業を見せて頂いた。
矢田部塾長、ありがとうございました。
終了後、尚志館メンバーと合流。
ポットさんのタイ料理のお店でみんなでお食事。
とても美味しかった。
とても贅沢な一日だった。
講演会・岩田修一氏「大規模人工物と社会-クライシスマネジメントとサバイバル-」
テーラーメイド・バトンゾーン教育プログラム
平成23年度テーラーメイド・バトンゾーン教育プログラム
開発リーダー特論 第13講義
【日 時】平成23年12月16日(金)16:20~17:50
【場 所】講義棟 A1-201
【テーマ】これから重要性を増すテーマ(7)
『大規模人工物と社会』-クライシスマネジメントとサバイバル-
【講 師】岩田 修一氏(東京大学大学院新領域創成科学研究科教授)
を聴講。
原発の話をもっと聞きたかったのですが、残念ながらやむを得ず途中で退席せざるをえませんでした。申し分けありませんでした。
国語力検定
昨日の稽古後、国語力検定の結果を返却。
みんなとても楽しみにしていたようです。
想像以上に盛り上がりました。
問題も一緒に返却したので、あちこちで勝手に小グループができて、検討会が始まりました。
1時間以上みんなわいわいやってました。
これにはびっくりしました。
技術者の卵たちが、国語力検定でこれほど盛り上がるとは。
さすが武道部です。
問題も非常によく練られた良問でした。そして楽しく受けられる工夫がしてありました。さすがです。
習ふて書べし
許六『宇陀法師』に次のような文章がある。
俳諧文章の事、習ふて書べし。惣別俳諧の文章といふ事、いにしへの格式なし。『うつぼ』『竹取』『源氏』『狭衣』の類、皆々連歌の文法也。故に先師一格をたてて門人に伝申され侍る。みだりに書ちらす人もあれど、当流の格式をしらざれば、片腹痛事共多し。序・記・賦・説・解・箴・辞など、少づつ差別有べし。真名文章は字法有て慥にわかり侍れど、仮名物には無念の事のみ多し。
俳諧の文章には俳諧の文章の「格」がある。「序・記・賦・説・解・箴・辞」にも、すべて格の違いがあるという。しかしなかなか普通の人にはそれが分からない。だから、
俳諧文章の事、習ふて書べし。
なのである。正しくそれを習って書かなければならない。いかにも武家の許六らしい。
ところで、蕉門俳人で文章の格についてしばしば言及するのは、この許六と支考である。この2人は、芭蕉が夢見て果たせなかった俳文集を編纂して出版した。しかしそこには本質的な違いがあった。それは、『風俗文選』と『本朝文鑑』の収録作品を見れば明らかである。『風俗文選』には『徒然草』は収められていない。
さて、許六は支考を批判して、こうも言っている。
此坊発句大下手也。一生秀逸の句五句となし。文章もしさゐらしく書つづけ侍れど、口より奥まで趣意が通らず、言葉つづき半分なぐり、つゐに決定したる所なし。何の格、かの格と彼がいふは、みな嘘也。惣じて和文に格なし。ましてはいかいの文章には古格として用る物なし。只手短に、持て廻らぬやうに書を俳諧文章の格式也と、先師より慥に相伝したり。此坊がいふ事うけがふべからず。(『俳諧問答』)
俳諧の文章には古格はない、という点は『宇陀法師』と同じである。しかし、「序・記・賦・説・解・箴・辞など、少づつ差別有べし。」の方はどうなったのだろうか?
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日本のロックを批評するということ
19日夜。
昨日の日本文学のシンポジウムの前に竹田師匠と喋っていたら、
中森くん、この後の加藤さんのも来るの?
加藤さんとのって、何ですか?
この後、加藤さんとトークセッションあるんだよ。
ええ〜っ? そんなんあるって知らんかった〜。行きます、行きます。
ということで、竹田師匠についていった。こういうこともあろうかと、新幹線の予約を最終にしておいてよかった。
ということで、ジュンク堂池袋店に着きました。
加藤典洋『耳をふさいで、歌を聴く』(アルテスパブリッシング)刊行記念
「日本のロックを批評するということ」
加藤典洋 × 竹田青嗣
前にこのブログにも書いたが、加藤さんは私の恩人である。なぜ私が救われたかといえば、加藤さんが文学の力、批評の本質を教えてくださったからである。それが今日も遺憾なく発揮されていた。もう1時間半中、興奮し続けた。
批評とは何か?
音楽とは何か?
音楽を批評することの本質は何か?
トークセッションの前は、私は軽く考えていた。文芸批評家である加藤さんが、対象を文学ではなく音楽にかえた評論だと。しかし全然違った。文学を批評することと、音楽を批評することとは全く違うことだ、と加藤さんは何度も繰り返された。なるほど、そういうことだったのか。
いつもながらの独特の比喩満載で、とても面白いトークセッションだった。竹田師匠も生き生きしていた。
最後の方で加藤さんはこういうことを言われた。だいぶ前に「他者」について書かれたときにも同様のことを書いておられたと思う。
命がけで努力して、工夫して、もうこれ以上できないというところまで作り上げた作品。それに対して誰かに、これもそれまでの人生をかけ、命をかけて、「お前の作品なんて全然たいした事ないぜ」と言われる。そういうことがあって初めて、次の段階に行けるのである。
私もついこの間、そういう経験をした。ごく限られた字数(たしか1000字くらいだったかな)の中で、もうこれ以上書けないというレベルまで書いて出した原稿に対して、編集者が、もうちょっとこの情報も入れてね、と言ってきた。いくらなんでもそれは無理ですう〜 と思ったが、仕方ないので全部書き直した。字数一杯まで書いていたので、20文字入れるだけでも、全部書き直さないと入らないのである。
しかし書き直した原稿を見ると、明らかに修正版の方がよかった。最初の原稿も精一杯努力したはずなのだが、やはり「他者」からそれを指摘されることがとても重要なのである。もちろん私はそのことも前から知っていたので、最初の原稿を出すときに、もう何を言ってきても無理だよ〜、っと思って出したのであった。しかし、言われてやってみたら、やっぱりできた。
人間とはそういうものなのだろう。
ということは、自分の精一杯に対して、「お前なんて全然だめだよ」と全存在をかけて言ってくれる人がいるということがとても幸せなことなのである。それは友人であったり、師匠であったり、いろいろである。
日本文学協会第66回大会
日本文学協会第66回大会・国語教育の部
テーマ 〈文脈〉を掘り起こすーポスト・モダンと文学教育の課題ー
シンポジウム
於・東京大学
報告者・川嶋一枝氏・大谷哲氏・竹田青嗣氏
昨年の西研さんに続き、今年は竹田師匠の登場である。
この二人が日文協に呼ばれることについては、個人的に非常に感慨深いところがある。このシンポジウムでも川島氏と大谷氏によってしばしば口にされた「80年代問題」。その80年代、私は院生だった。当時ポストモダン思想が大流行しており、竹田師匠や西さんの話を私がしても誰も聞いてくれなかった。時代遅れの思想だと思われたのである。
しかしポストモダン思想が文学研究にあのような形で導入され流行してゆけば、やがて文学研究や文学教育は死んでしまうことは明らかであった。何より、研究者自身、教育者自身が矛盾を抱えて行き場を失ってしまう。
当時そのことを同じ院生の知り合いにも訴えたが、彼は親切に、
その方法を使えば論文を載せてくれるのに、使わないのはバカだ。
と教えて下さった。
ああ、そうですか。すみません。
でも、ようやくその問題を、「ポスト・ポストモダン」なる語で考え始めてくれたようである。嬉しい。
さて、前半はそれぞれによる基調講演。
川嶋一枝氏・「〈語り得ぬもの〉がある」と語るー「三月記」の教室からー
大谷哲氏・文学研究の「八〇年問題」と〈読み〉のグランドセオリー
竹田青嗣・批評のテーブルと事そのもの
川嶋氏、大谷氏の報告は、非常に真摯に研究、実践をされていることがよく伝わってきた。そして、竹田師匠との違いも明確であった。
竹田師匠は、例によって、だんだんのってきて、肝心の「事そのもの」についてはほとんど話す時間がなかった。しかし、文芸評論の核、文学研究、文学教育の核はきちんと示された。その中で、「作品の力」という言葉を使われた。この言葉は両氏と竹田師匠の違いを非常にクリアにすると思い、質問した。答えは予想した通りだった。
後半の討論会も、いろいろな話が出て面白かった。「国語教育の意味は?」というような本質的な質問にも、竹田師匠は、明確かつシンプルに答えられた。
全体を通して、竹田文芸批評原理が久しぶりに聞けて大変嬉しいシンポジウムだった。
タフなiPhoneケース
Touch Lab – タッチ ラボで紹介されていたタフなiPhoneケースが日本国内で販売開始されたらしい。
このケース、どのくらいタフかというと、「米軍の軍用規格「MIL-STD-810F」をもクリアした、最強の防御を可能とした、軍用グレードの保護ケース」(アマゾン)なのだそうだ。
上記Touch Lab – タッチ ラボのサイトにも貼り付けられている下記の動画は衝撃的である。
ハンマーで叩いても、車で踏みつぶしても、テニスラケットやバットやゴルフクラブで打っても大丈夫なのである。
あまりに衝撃的だったので、ちょっと考えてみた。
このようなものを作り出す精神とは一体何なのか。
ここにあるのは、壊れやすいものを絶対壊れないケースで守ろう、という精神である。
この、いかにもアメリカ的な精神を、日本文化は長い間持ち合わせていなかった。
私たちは、命あるものは必ず死ぬということを知っていた。
私たちは、形あるものは必ず壊れるということを知っていた。
だからこそ、
私たちは、そのはかない存在を慈しんできたのである。
桜は散るからこそ美しいと感じ、愛でてきたのである。
これを無常観という。
私たちは、その存在の命を永遠のものとしようとは決してしなかった。それが不可能なことを十分に知っていたからである。
存在は必ずなくなる。しかもいつなくなるかは誰にも分からない。
今、この瞬間かも知れないし、30年後かも知れないし、千年後かも知れない。しかし、
必ず、壊れ、なくなる。
だから私たちは、ただひとつのことだけをしてきたのである。
それは、その命を少しでも長らえるよう、その命を大切にし慈しむことである。
法隆寺を建てた宮大工は、それが千年もつように、木の心を知り、木の命を大切にして五重塔を建てた。
そして私たちは、その美しさを愛し、慈しんできた。
私たちは長い間、壊れやすいものを壊れないケースで守るという発想をとってこなかった。その代わりに、壊れないように丁寧に扱う、という心を育ててきたのである。
それでも、存在するものはいつかはなくなる。それが自然の摂理である。
私たちは、長い間、その自然の摂理に馴染もうとしてきた。
西行も芭蕉も「造化随順」を志した。
私たちは、決してそれを克服し、征服しようとはしなかった。
それが不可能であることを十分知っていたからである。
人間は自然には勝てない。存在するものは必ずなくなる。
私たちは長い間、自然に「勝つ」という発想をとってこなかった。
自然は征服すべき対象ではなく、畏怖しつつ愛でる存在だったからである。
存在を「永遠」にしようという発想をとってこなかった。
存在は、「永遠」を望むべき対象ではなく、今存在することを感謝し慈しむものだったからである。
私はこの文章をずっと過去形で書いてきた。
ここ数十年の間に、それが忘れられていったからである。
そして今回の東日本大震災は、それを思い出させてくれたはずだった。
しかし既にもう忘れられようとしているのかも知れない。
「世界一安全な原発」とは、その忘却の上にしか立脚しえないからである。
ちなみに私はこのタフなケースを買うことはないだろう。
なぜなら私はiPhoneを持っていないからである。
講演・藤嶋昭「感動しつつ、良い雰囲気のもとで研究しよう-光触媒を例にして」-
豊橋技術科学大学開学35周年
ICEED(豊橋技術科学大学工学教育国際協力研究センター)設立10周年記念講演会
榊プロデュース第15弾プレステージレクチャーズ
テーラーメイド・バトンゾーン教育プログラム(平成23年第2回バトンゾーン特論講義)
たくさんの冠がついた講演会があった。
ーーーーーーー
講師:藤嶋 昭氏(東京理科大学長)
演題:感動しつつ、良い雰囲気のもとで研究しよう-光触媒を例にして
ーーーーーーーー
冒頭、「鯰絵」(安政2年)と寺田寅彦の「津波と人間」が紹介され、今回の震災の話から始まった。
その後大学院生時代に行った酸化チタン単結晶を用いる水の光分解の実験の話。当時の学会や世界の反応を非常に楽しく話された。そして
感動することが大切!
その感動した技術から生まれた曇らない鑑、セルフクリーニング(太陽と雨で勝手に綺麗になる)等々、門外漢にも非常に面白かった。
そして、クフ王のピラミッドがいまだ崩れていない話から、
基礎が一番大切!
さらに研究の話へ展開。
研究はおもしろい
本物しか生き残れない
研究も基本的なものしか残らない
視野を広く
大きく考える
いろんなことに関心を持つ
ペンギンからメダカ、たんぽぽから蜘蛛の糸などなどを具体例とした、実に多彩なお話だった。
良い雰囲気を作ろう!!
優れた人たちは、同じ時代、同じ場所にかたまって出現するというお話。そこには特別な雰囲気があったのであり、そういう「良い雰囲気を作ろう」と。
そして、
本を読もう!!
良い本を読む!!
忙しいときこそ本は読める
基礎、感動、好奇心、視野、楽しむこと、良い雰囲気、読書の大切さを、軽妙な語り口で説いて頂いた。
最後に紹介された二つのことば。
一つは中国の諺。
台上一分鐘、台下十年功
もう一つは、人間国宝、濱田庄司さん。
十五秒プラス六十年
濱田庄司の流掛展
どちらも、十分な基礎、準備があって初めて成し遂げられるということである。
WZ Writing Editor プレビュー版
原稿執筆専用のテキストエディタと銘打った「WZ Writing Editor」のプレビュー版が公開されている。
http://www.wzsoft.jp/wzw/index.html
説明にはこうある。
------
WZ Writing Editorは、WZ EDITOR 7とは別シリーズの文書作成と編集に特化したテキストエディタです。
原稿執筆専用に機能と設定を厳選して、プログラム用の機能とマクロを除き、表示印刷の共通スタイル設定や文字組版などの新たな機能の追加に対応しました。
------
VZ→WZの愛用者の私は早速ダウンロードしてみた。
これからしばらく使ってみる。
WZ EDITOR 7にはない機能がいくつか追加されているようだ。逆に、WZ EDITOR 7ではできて、WZ Writing Editorではできないこともある。まさしく別シリーズの製品だということである。
新しい機能として「文字組版表示」が追加され、「軽快なテキストエディタでワープロソフトのような美しく見やすい表示が可能となりました」という。そして、「仕上がり体裁に近い表示で編集作業ができますので、入稿作業をスムースにおこなえます」とある。
ちょっと仕上がり具合をイメージしたいときに便利かも知れない(たぶん私にはあまり必要ないような気もするが)。
それよりまず嬉しかったのが、縦書と横書を一瞬で切り替えられるキー定義ができたことである。私は横書きで原稿を書く。しかし、雑誌や本は縦書きで印刷されるものがほとんどなので、縦書きのイメージをチェックしたいときに、一瞬で切り替えができればとても便利なのである。以前のバージョンにはあったはずなのに、今使っているWZ7にはいくら探してもそれが見つからなかった(私が見つけられなかっただけかもしれない)。しかし、今回のWZ Writing Editorでは、それがすぐ見つかったので助かった。また、ファイルを多重化して、縦書と横書を同時に表示しておくことも可能なので(これもWZで出来たのかな?)、ちょっと試しに使ってみることにした。
逆に、WZでは別々だった「表示設定」と「印刷スタイル設定」が共通化されてしまった。原稿を書く人の中には煩わしいという人が多かったのかも知れないが、私は別の方がありがたい。表示はモニターで見やすい設定にして原稿を書きたいし、印刷は、出版物の書式に合わせて印刷したいからである。これが一緒になっていると逆にちょっと困る。
上記の多重化を使ってうまく対処できるのかも知れない。多重化の別ウインドウで、別の書式設定が可能なようなので。
ともかく、これからしばらくいろいろ試してみたい。
企画展「連歌と一揆」展in朝日町歴史博物館
午前中、武道部の古武道審査を終え、すぐ出発。
島津忠夫先生の記念講演に合わせて、三重県朝日町歴史博物館で開催されている企画展「連歌と一揆」展に行ってきた。
いつもながら立派な展示であり、図録もある。
今回の展覧会は、以前大阪俳文学研究会で訪問したときに島津先生がたまたま目にされた『大吉天神宮納帳』の連歌田の資料に端を発したものである(そのときの記事はこちら)。
またその時の模様が、島津先生ご自身によって、和泉書院HPで連載の「老いのくりごと」第2回に紹介されている。
さて、講演。
演題:戦国武将と連歌-連歌田のことなど-
講師:島津忠夫先生
講演は、今年奈良国立博物館で開催された「天竺へ」で初公開された神像の背部に「勧人善阿弥陀仏」とあるのに驚いた話、つまりそれが連歌師善阿ではないかと驚いた話から始まった。そこから、『連歌新式』『僻連抄』『建治新式』などの話へと展開し、染田天神の連歌の話へ。『宗長日記』を読みながらの解説もあり、上記の「老いのくりごと」の解説もあり。もちろんこの『大吉天神宮納帳』の連歌田の資料がいかに貴重な資料であるかを十分に解説して頂いた。
超満員の聴衆はみなさん大変ご満足して帰って行かれた。高度な話を非常に分かりやすく話して下さったからである。
終了後、事務室でしばし歓談。
私は一路豊橋へ。
尚志館メンバーと合流。
またまたプチ稽古会となりました。
松岡ちゃんもちょっと遅れて合流。
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