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すぐに役立つことは…

すぐに役立つことは、すぐに役立たなくなる、労力をかけて学んだことは、いつか必ず役に立つ。

話題の元灘中学・高校の国語の先生、橋本武先生の言葉として新聞に紹介されていた(朝日新聞2012年4月21日)。

国語は学ぶ力の背骨である。

とも。

記事には、学生時代、「大漢和辞典」の諸橋轍次さんの仕事を手伝ったとある。歴史の重みを感じずにはいられない。

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素直な人は伸びる

今日は撃砕特別講習会。

今までの動きは何だったの?というくらい、これまでと全く違う動きの稽古をした。これまでも断片的には稽古したり説明したりしたことがあったが、きちんとやったのは今回が初めてである。

みなさん最初は大混乱していたが、次第に感じをつかんでいったようだ。さすが黒帯である。今までの動きや考え方を全部捨てて、その場で一から新しくやらないといけない。これができた人から新しい動きができるようになる。これまでの自分に執着すればするほど次の段階にいくことができない。もちろん全く違うと言っても、これまでのことがきちんとできていないと次の動きも出来ないようになっているから面白い。

ある先生が前にこういう話をされていたことを覚えている。

毎年、年に1回習いに来る外国人が、「来るたびに変わっている」と言う。それは私も進化(深化)しているからで、仕方のないことだ。武道は素直な人が伸びるというのはその通りで、素直でない人は、「どうせまた変わるだろう」と思って、今、きちんと習おうとしない。そういう人は伸びない。

師匠も稽古を続け、成長を続けているのだから、師匠が変わってゆくのは当たり前である。一方の弟子も成長してゆくのだから、変わってゆく。どちらにしても、その都度その都度変わってゆくのである。武道には普通にあることである。しかし最近は、師匠の言うことが変わることに、不審感をもつ弟子もいるらしい。あるいは、どうせまた変わるから今は適当にやっておいて、もう少し進化してからまた習えばいいや、と思う弟子もいるのかも知れない。あるいは師匠の変化についていけず、ただ混乱しているだけの弟子もいるかも知れない。いろいろいるだろうが、結局、今、この場で、師匠と自分をどのくらい信じられるかにかかっているのである。

師匠を信じるとは、師匠の真似をするということである。自分を信じるとは、変化を恐れないということである。

「これまではこうだったのに」ということに執着していると次に進めない。来年また変わるかも知れないと思うと、今習っていることが無駄になると思えてきて、真剣に稽古できない。どちらも稽古する意味がない。

過去に執着せず、未来にとらわれず、「今、ここ」に集中できる人。これを武道では素直な人というのである。

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取材

フランスのTV「Le Grand Tour」の取材で上野の下谷神社大祭に行く。

スタッフと東京駅で待ち合わせてまずは昼食。お蕎麦を頂きました。みなさん見事な箸さばきでした。

その後下谷神社に到着。


舞殿

お神輿が出る前に、まずは私の参拝の様子を撮影。
レンズを変えていろんなカットの要求がありました。担当のカメラマンは完璧主義なのだそうです。半日一緒にいてその動きを見ていても、プロフェッショナルを感じました。要求を聞いていると、番組になったときの全体像が頭の中にあって、そのためにこのカットが必要だということが非常に明確にイメージされているようでした。さすがですね。


御神輿

インタビューは、細切れでいろいろな場所で行われました。テーマは「武士道」。
お神輿をバックに歩きながら、とか。残念ながらこれは人が集まり過ぎて収集がつかなくなり途中で中止しました。


出発~


お神輿も人もたくさん集まって来ました。

暗くなるととても寒くなりました。でもこれしか服がない。もっとも、たとえあったとしても同じ服装で撮影しないといけないので着られませんでしたけど。ともかく寒かった。インタビューのほとんどは寒さで声が震えていたと思います。ぶるぶる。


御神輿が神社の境内に集まって来ました。

最後に境内でのインタビューを終えて終了。

御飯を食べながらとか、タクシーの中とかでいろいろ話してしまったので、いざカメラが回っているときには無意識に省略してしまうことが多く、「もっと長く喋って」と言われました。多くの方が大抵こうなってしまうそうですが、そういうところが素人なんでしょうね。ついもう喋った気になってしまうのでしょう。

それと、どこまで詳しく微妙な事項を説明するかに苦労しました。フランスの一般の方にも分かりやすくという要求だったので、かなりシンプルに話をしたのですが、シンプルすぎてかえって分かりにくくなってしまったようです。それといったん調整にのると逆に止まらなくなって収集がつかなくなるので、かなり自制したこともあったかも知れません。

これは私の悪い癖ですね。俳諧を専門にしているせいかどうか知りませんが、ともかく極限まで省略したくなってしまうのです。それにプラスして、聞き手の認識や知識をどの程度に設定して喋ったらいいのかが私にはよく分からないのです。これはフランスの方にむけてだからという訳ではなく、日本人でも同じだし、学術論文や学会発表の時も同じです。何が共通認識なのかがよく分からなくなってしまうんです。だからあんまりそういうことを忖度せず、その事項について、必要最低限のことを丁寧にかつシンプルに説明することが大切なんだと思います。分かってるんですけど、なかなかうまくいかなくて。でも今回またそのことを再認識させられたので、この課題を頑張って克服したいと思います。

優秀なスタッフと一緒に仕事ができた、実に楽しい半日でした。

最後の一枚。

Lucileさんとツーショット

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一体感を目指した都市は崩壊する

今日は輪講、ジェイコブズジェイコブズの『アメリカ大都市の生と死』(山形浩生訳 鹿島出版会 2010年4月)。

「一体感」とは新しい郊外の精神的な拠りどころで、都市では破壊的に機能するようです。080

一体感を理想とした都市は崩壊する。それは私的空間と公的空間が限りなく曖昧になってしまうからである。都市においては、私的空間と公的空間には明確な一線が引かれていなければならない。私的空間を担保した上で、隣人と仲良く交流するのである。そのための公的空間があるのでなければ、都市は健全に機能しない。

あんまり仲が良いからといって、いつでもお互いの家に上がり込んでお茶を飲んだり、勝手に御飯を食べたりしていると、だんだんうっとうしくなってくることもあるだろう。出かける用事があるのになかなか帰ってくれないということもあるだろう。あんなに仲が良かったのに、今は顔を見るのも嫌だという関係になることも稀ではない。

ジェイコブズが問題にしているのは都市である。都市とは知らない他者が圧倒的に多い空間である。だから私的空間を確保した上で、親しい人とお茶を飲むための公的空間、喫茶店などが必要なのである。一体感、ふれあいをもとめるロマンチックな観念には、それは冷たいように見えるかも知れない。しかし多くの現実の人間関係は、そうなっているのである。

君子の交わりは淡きこと水のごとし

さすが古人の知恵は現実を生きた知恵である。
都市においては、「ふれあい」の場としての公的空間がなければならない。そうでない都市は必ず壊れる、そうジェイコブズはいうのである。なぜなら、公的空間が確立されていない都市では私的空間が壊れるからである。

よい都市の近隣は、自分の基本的プライバシーを守るという人々の決意と、周囲の人々からさまざななレベルの交流や楽しみや助けを得たいという願いとで、驚くほどのバランスを実現しています、077

このバランスを担保しているのが、歩道などの公的空間と私的空間の間に引かれた一線なのである。

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映画テルマエ・ロマエ

娘に映画「テルマエ・ロマエ」に連れて行ってもらった。

タイトル、ちゃんと言われへん。どうしよう。

と私。

はぁ〜?

阿部寛って言うか。それとも、風呂のやつ!

お好きにどうぞ。

そんな会話をしているうちに窓口に着く。

「先に行って」と娘を前に出す。

娘が「テルマエ・ロマエ」と言ったとき、すかさず「以下同文」と言ってカードを出した。

ほっとしている私に、「以下じゃないし…」。と娘の冷めたつぶやきが聞こえたような気がした。

映画はコメディータッチの、とても面白い映画だった。
それでいて心ある技術者の苦悩もわかりやすく描かれていてよかった。シンプルだけれども、だれでも直面する苦悩だろう。

今もてはやされているのはほんものではない。本質を忘れた、うけをねらっただけのものに過ぎない。それが許せない。しかしそれを打破するには、技術者としてはそれを圧倒的に凌駕するものを作る以外にない。自分の理想を具現化し、本質を生かしかつ人々に受け入れられるようなものを。しかしそう簡単にできるはずはない。

そのためには、息を止めて水の中に長時間潜っているほどの苦しさに耐えなければならない。その苦しみの向こうに、ひょっとしたら何かのヒントが見つかるかも知れない。これは決して比喩ではない。

阿部寛演じるルシウスが別世界にワープするとき、必ず溺れる。その苦しみを経て、別世界で新しいヒントを手に入れることができる。そして涙を流したとき、元の世界に戻ってくる。

涙を流すのは、それまでの自分が壊れ、それによって世界が変わるときである。ルシウスはうんと苦しみ、最後の最後に溺れるくらい苦しんで新しい自分を手に入れる。それは新しいものを作れるようになった自分である。そのときに涙を流すのである。

自分の全存在をかけて、ものをつくる。
それまでの自分を壊さないと作れないような、ものをつくる。

そんな技術者を私は尊敬している。

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撃砕特別講習会

今日は今年4回めの撃砕特別講習会。
めでたく全員参加。

今日はかなり難易度の高いことをやった。
ほとんどのメンバーがうまく出来ないことが多かったが、それでもみんな楽しそうだった。
私も楽しかった。

難しい方が面白い。
あれこれ自分で試行錯誤することが楽しい。
道、ってそういうもんですね。

難易度の高いことをやると、それぞれの実力がはっきりする。
これもまた楽し。

もちろんショックをうける。

動きの質が違う、といわれてショックだった。

と裕子さんの帰宅メールにあった。

それもよし。
このショックがあって、試行錯誤して、出来たり出来なかったり。
それが楽しいのである。

学ぶことの喜びは、自分のレベルを超えたものを学ぶから得られるのであって、出来ることだけやっていても仕方ない。

撃砕になってから稽古会のレベルをぐっと上げたが、その分だけみな楽しそうである。
めでたし、めでたし。

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武道部でよかった…

ヌッチャンが内定をもらったと報告に来てくれた。
おめでとう!

ヌッチャンは、今武道部に在籍している唯一のM2である。他の同学年の学生は途中でやめてしまった。
ヌッチャンは、武道部初の留学生部長である。立派にやりきった。
ヌッチャンはほんとうに頑張り屋さんである。あんまり頑張り過ぎるのでちょっと心配するくらい。

そんなヌッチャンが、

武道部でよかった。

と言ってくれた。ほんとうに嬉しい。

これまでも何人もの卒業生が、

武道部でよかった。

と言ってくれた。言われるたびに心から嬉しく思う。そして、私も、

武道部でよかった。

と思うのである。

彼(女)らにとって武道部の何がよかったのか?
彼(女)らが武道部から何を学んだのか?

それは私には分からない。
ただ、

武道部でよかった。

のである。
それで十分だ。

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人はいろいろ

今年度授業が激増した。
そんなことを言っても誰も同情してはくれず、むしろこれまで楽してきたと言われかねないので、ここでほんのちょっと、小声で言っておこう。

さて、その中の一つが、これまで開店休業状態だった博士後期課程の授業。再編によって専攻も科目名も変わった(応用言語学特論→日本文化特論)。もちろん内容も全然違う。つまりは、日本文化特論になったとたん受講生が現れたというだけの話である。

本日1回目のこの授業。3人が受講。
3人とも非常にいい学生さんだった。
私がずっと主張している高専~技科大生の特徴の、良くない方はほとんど備えておらず、非常にオープンマインドで、柔軟で、しかも専門は優秀そうである。すばらしい。

私を入れて4人。
どういう授業が展開されるか、とても楽しみである。

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こういう日も…

昨日今日と、こういう日もあるのね、という日だった。
いろんな方からアクセスがあった。

予期せぬ方から、村上春樹の『1Q84』についてお電話があった。前に書いたブログを見て頂いたようだ。

返信を待っていたメールに、どんどん返信がきた。

渡辺先生のところで実験をやっていた沼津高専の卒業生が研究室を訪ねてくれた。3人でやってきたが、屈託のない明るい学生さんで話していて楽しかった。

武道部の稽古に、新入生が見学に来てくれた。1人は入部したらしい。

武道部の今年の演武会のポスター第1稿が出来てきた。いつもながらさすがプロである。完成が楽しみである。

着任以来開店休業状態になっていた博士後期課程の授業を受講したいという学生が、2人もやってきた。それぞればらばらに。授業は明日。博士後期課程の学生の授業は初めてである。

2人の先生に用事があったのだが、2人とも偶然いいタイミングで会えた(これはしばしばあるけど)。

5系に人事交流で来られた先生の歓迎昼食会があった。ここでも面白いお話が聞けた。

他にも細かいことがあったけれども、「アクセス」の多い日だった。
そういう流れの二日間だった。
こういう流れに乗れているときはとても気持ちがいい。
そのお陰で、毎朝淹れているit珈琲もいい。

もう少しで調うと思う。

あとは原稿書きが調えば……。完璧である。

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日用心法鈔

『日用心法鈔』(文政10年)の冒頭にこうある。

世をくらすに三つの大事あり。勤めと正直と慎みと也。勤め働く事は人間第一の宝なり。

慎みをもって正直に日々のことに勤める。なんと素晴らしいことだろう。

ものごとをきちんと考えるための「哲学」。
ことばを繊細に感じるための「文学」。
人生をきちんと生きるための「心法」。

これらを小学校のカリキュラムにいれてほしい。
どれもその一部が、少し変形した形で入っているといえば入っている。しかし私は子どもたちに真正面からそれを身に付けてほしいのである。

ところで現代社会を生きる「三つの大事」とは何か?
グローバリゼーション? イノベーション? 効率主義? 

そんなぁ……。

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