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【講演会】藤田誠氏・自己組織化と分子技術

榊プロデュース第20弾プレステージレクチャーズ
平成24年度テーラーメイド・バトンゾーン教育
第4回開発リーダー特論講義

藤田誠氏(東京大学大学院工学研究科応用化学専攻教授)『自己組織化と分子技術』を聴講。

藤田さんのお人柄がよく伝わってくるとても心地のよい講演だった。話の中身は残念ながらほとんど分からなかったが、しかし聴講してよかったと思える講演だった。こういう先生の研究室のメンバーは幸せだろうなあ、と思いながら、我が身を反省した。

西窪くんがいい質問をし、藤田さんも嬉しそうに答えて下さった。

分子の気持ちを分かれ、とよく学生に言います。

お話を伺っていても、藤田さんは分子を愛しておられるし、本当に分子の気持ちが分かるのだろう。そしてそれが人間の振るまいと同じであるともおっしゃった。

私は、分子がもともともっていた潜在能力を引き出しているだけで、無理矢理外から何か力を加えている訳ではない。人間も同じで、研究室の学生さんも、もともと持っている能力を引き出してやると、研究が楽しくなるし、研究室全体もよくなる。

分子レベルの振る舞いや、生物本来の振る舞いと、人間の振る舞いが違っていることがよくあるが、そのほとんどは、人間の賢しらによるものであるのだろう。余計なものを捨てて、もっとsimpleに生きられないものか…。

 

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文学だけでは誤る

加藤典洋さんと橋爪大三郎さんの吉本隆明さんの追悼文を読む。
さすが、それぞれの個性が出ていて面白い。
前に読んだ竹田青嗣師匠は、吉本さんの核心を、加藤典洋さんは吉本さんの独自性を、橋爪大三郎さんは吉本さんの全体像を見事に描いている。

興味深かったのは、加藤さんが引かれた吉本さんの次の言葉である。

加藤さん、あなたは文学青年だったでしょう。そうでしょう? 私もそうだったんですよ。でも、文学青年だけではダメだ、誤る、と戦争で心の底からわかったんです、それが私の出発点なんです。(『新潮』2012年5月号235頁)

この言葉への返答のつもりで加藤さんが『戦後的思考』を書かれたというのにも驚いたが、この吉本さんの「青年だけではダメだ、誤る」というのをとても印象深く思いながら、橋爪大三郎さん・瀬尾育生さん・水無田気流さんの対談「羊は反対側に走っていく」(『現代詩手帖』2012年5月号)を読むと、そこでもやはり瀬尾さんが、

九〇年代初めの湾岸戦争のころ、吉本さんは「文学だけでは誤る」と繰り返し言われたんですが、(88頁)

と語っておられた。

なるほど。確かにその通りかも知れない。

文学はなくてはならないけれども、文学だけではダメだ……。

もう一つ加藤さんが毎日新聞(2012年3月19日夕刊)に書かれた「『誤り』『遅れ』から戦後思想築く」で述べられていたことが印象的だった。

転向論では、当時誰も頭の上がらなかった戦時中抵抗を貫いた非転向の共産党指導者たちをさして、「非転向であることなどにどんな思想的な意味もない」と全否定した。……これは当時、驚天動地の主張で、周囲はみな、腰を抜かした。

吉本さんの徹底ぶりがよく示されている。

ところで、最近、「ブレる」「ブレない」ということをよく耳にする。私はブレません、ということを自慢する人もいる。しかしブレないこと自体にはどんな思想的な意味もない、とちょっと吉本を気取って言ってみたくなった。
軽くてすみません。

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ジェイコブズ『都市の原理』

研究室輪講は今日からジェイコブズ『都市の原理』(鹿島出版会)。原題は”THE ECONOMY OF CITIES”。

この本は、「どうして成長する都市もあれば、沈滞・沈没する都市もあるのか、という私の好奇心から生まれたものである」(2頁)と語り始められ、前著『アメリカ大都市の生と死』からのテーマが引き継がれていることが明言されている。

そして、いきなりジェイコブズ節が炸裂する。

多くの分野ーー経済学、歴史学、人類学ーーで流布している理論は、農村経済を基盤にして都市が成り立っている、として疑わない。もし、私の観察と推論が正しければ、その逆が真実である。2頁

農業優位のこの理論(私の考えではドグマ)が都市についての従来の仮説にあまりに徹底してしみこんでいるため、この章では緊急要件として、この点を扱おうと思う。2頁

一般に信じられている思想が必ずしも真実ではない、ということは、科学史の上でわれわれのよく知っているところである。正しいと信じられていた思想の非真実性が明らかにされて初めて、その思想の及ぼした影響がどんなに広く、見かけ以上に危険なものだったかがわかる、ということも知っている。2頁

その説明のためにジェイコブズは生物学の例をあげ、多くの生物学者が「新しく発見された真実を従来の誤った理論に従わせるような理屈をつくることに汲々としていた」(3頁)と指摘するのである。

そして、

これと同じように、都市と経済発展一般についてのわれわれの理解は、農業優位のドグマによってゆがめられている、と私は考える。このドグマは、偶然発生の理論と同じくらい珍妙で、過去にすがりつくダーウィン以前の思想史の名残である、ということを論じようと思う。3頁

2章「新しい仕事はいかにして生まれるか」でも、ジェイコブズは非常に興味深い分析を行っている。ここで述べられている新しい仕事の発生原理は、現代においてイノベーションを考えるときにもとても重要な視点である。

これからどんな展開になるのかとても楽しみである。

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正しさを論ずるとは

今日の卒研指導。

初めて論文を書く学生のために、基本的な心構えを説く。

「学問に対する敬意をもって、誠実に論文を書こう!」という話をする。特に自分にとって不都合な資料やデータが出て来たとき、誤魔化さずに、それときちんと向き合って、誠実に論文を書こう、と。もちろん逆に、自分にとって都合のいい資料やデータが出てこないときも同じである。捏造なんてもっての他だ。それさえ忘れなければ、それほどおかしなことにはならないはずである。

自分が発見したことも、自分が考えた理論も、それまでの先人の積み重ねがあってはじめて可能となったことであり、決して自分1人で辿り着いた訳ではない。それなのに、そんな当たり前のことを忘れて、知らないうちに手柄争いをして、「自分が、自分が」となるからおかしなことになるのだ。

自分の興味のあるテーマを選び、研究が深まるにつれて、思わぬ発見があったり、いろいろ面白いことが分かってくると同時に、逆に謎も深まる。それが研究の醍醐味である。おそらくこれから研究を始める人も、そういう予感を持っているはずだ。初心忘るべからず。

さらに「正しい」とはどういうことか。「論ずる」とはどういうことか。というお話も少しする。

私たちの論文で扱う「正しさ」は、誰がいつどこで考えても絶対的に正しい(不変)という正しさではない。私たちの研究室で扱っているテーマは、客観的なデータを出せない場合がほとんどである。「定量化できないが大切なもの」に光を当てようとするものだからである。

だから、「正しさ」というのも、その人でなければ言えない「正しさ」のことである。その意味で、「正しさ」の出発点は極めて個人的で主観的なものである。しかしそれは普遍性へと開かれているはずのものでもある。「なるほどその人にそのように言われてみればそのように見える」。そのような正しさである。

「論じる」とは、そのような最初の自分の直観的な「正しさ」を普遍化するために道をつける努力のことである。「誰がそう考えてもそういう道を辿るよね」という道をつけてやることである。それは、読んでくれた人の納得や共感を目指すものであって、決して誰かを論破したり、自分の先見の明や優秀さを示そうとするものではない。

学問は、先人から渡されたバトンを少し前に運んで、次の人に渡そうとする努力の中にある。その努力の中に、自分だけの面白いテーマもあり、研究の醍醐味もあるのである。不誠実なランナーは、先人からのバトンをきちんともらうことができない。先人からのバトンをきちんともらうことができなかったランナーには、研究の醍醐味を味わうことはできないのである。

研究を始めるにあたって、まずはそれを知っておいてほしい。

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雇われなくてもそれをやる

ジェイコブズは、正当派「都市計画者たち」を手厳しく批判するが、その要諦の一つは、彼らには「一般人に対する根深い蔑視が根底にある」というものである。

遊技場や芝生や雇われ警備員や監督者が本質的に小供にとって立派なものであり、通常の人だらけの都市街路が本質的に子供たちに有害だというおとぎ話は、一般人に対する根深い蔑視が根底にあるのです。(『アメリカ大都市の生と死』(山形浩生訳 鹿島出版会 2010年4月 101頁)

これは、子供の遊び場として、歩道のかわりに公園などを用意する都市計画に対して、歩道がいかに安全であり、公園がいかに危険であるかを訴えている箇所である。

歩道が安全なのは、「普通の人」の目があるからである。その目は、「公共的な責任」を負っている目である。いついかなるときでも、仕事でもないのに誰かがそこを見ているのである。一方の公園が危険なのは、そこには雇われ警備員がいるが、彼の目は、仕事の目だからである。雇われた人だけが、雇われた時間だけ、仕事としてそこを監視しているだけなのである。

しかしこの話は、今現にそこを通る人が安全か危険かということに止まらない、もっと恐ろしいことを含んでいる。それは、歩道における「普通の大人たち」が暗黙のうちに子供たちに教える「公共的な責任」のことである。

現実世界では、子供たちが成功した都市生活の第一原則を学ぶのはーーそもそも学べたらの話ですがーー都市の歩道にいる通常の大人たちからだけなのです。その第一原則とは、人々はお互いに何らつながりがなくても、お互いに対し多少なりとも公共的な責任を負わなくてはならない、ということです。102頁

大切なのは、これは言葉で教えられただけでは決して学ぶことができない、ということである。

これを言われただけで学ぶ人はいません。自分とは何の姻戚関係も友人関係も役職上の責任もない人が、自分に対して多少なりとも公共的な責任を果たしてくれたという体験から学ぶものなのです。102頁

そしてもう一つ、この「公共的な責任」は、雇われ警備員には決して教えることができないということである。

こうした都市住居についての指導は、子供の面倒を見るよう雇われた人々には教えられないものです。というのも、この責任の本質というのは、雇われなくてもそれをやるということだかです。それは両親だけでは決して教えきれないものです。(略)こうした指導は社会全体から与えられねばならず、そして都市でそれが与えられるとすれば、それはほぼすべて、子供がたまたま歩道で遊んでいる時間に与えられるのです。103頁

子どもたちの遊び場を歩道から公園や遊技場へ移し、その安全を「普通の大人たち」から「雇われ警備員」へ託したとき、そこに住む大人たちは「公共的な責任」を果たさければならないという都市の文化が壊れ、逆に安全性が脅かされるようになる、そうジェイコブズは主張しているのである。ジェイコブズは「文化」とは言っていないが、文化といって差し支えないだろう。そして一度壊れた文化は、修復するのにとても時間がかかる。いや、ひょっとしたらもう元には戻らないかも知れない。

ジェイコブは、「都市計画者たち」が計画する都市が、斬新でないとか、美しくないとか、計画者のオリジナリティーがないとか、理論的に整合性がないとかと言っているのではない。彼らによって計画された都市は、「一般人に対する根深い蔑視」を根底にもつゆえ、人間の文化を破壊し、普通の生活を破壊すると言って怒っているのである。

ジェイコブズがこれを訴えてから50年。状況は改善されたのだろうか。もしそうでないなら、都市計画や建築が一体誰のためにあるのか。私たちはそれをもう一度考えなければならない。

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罰金制度を設けたら文化が崩壊した

28日のスーパープレゼンテーション(Eテレ)の一つ、
クレイ・シャーキー「”知力の余剰”が世界を変える」Clay Shirky: How cognitive surplus will change the worldで紹介された保育園のお迎え遅刻の話がとても面白かった。

ニージーとルスティチーニの論文にあるグラフとして紹介された「抑止論」の検証結果である。

イスラエルの10の保育園の「お迎え時間」の親の遅刻。1保育園あたり週に6~10人が遅刻していた。そこで、10分以上遅れたら10シェケルの罰金を与えることにした。するとすぐに変化が現れた。導入から4週間、遅刻は増え続け当初の3倍に達し、その後は2倍と3倍の間を上下したという。この結果は、単純に「違反行為を抑止するには罰を与えればいい」とは言えないということを示しているが、この現象についてClay Shirkyはこう述べている。

罰金制度を設けたことで、保育園の文化が崩壊したのです。

「お金で解決できる問題だ、という空気になってしまった」と。「20世紀における人間行動の研究によると、我々は皆、合理的かつ自己中心的なのだ」そうだが、しかし「罰金がなかった頃、決してやりたい放題ではなかった」。

そしてさらに恐ろしいことに、実験が終わり、罰金制度撤廃後も状況は変わらなかったのである。

一度崩壊した文化は元には戻らなかった。

金銭的動機と内因性動機は相性が悪く、不一致が生じると修復には時間がかかるのです。

犯罪行為を抑止するのは、警備員や管理人ではなく、そこに住む多くの普通の人々の公共意識の目である、と指摘したのはジェイコブズである。そしてその中で育った子どもは、大人になったとき、自らもその役割を果たすようになると。これが文化である。この本質は、ジェイコブス風に言うと「罰則がなくてもそれをやるという公共的な責任」である。私たちはもう少し、人間のもつ「公共的な責任」というものを信てよいのではないだろうか。

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お墓参り

久しぶりに父親のお墓参りに行った。

途中泰斗武館により、こちらも久しぶりにちょっと稽古に参加した。
小野くんもいて楽しく稽古できた。

墓参り。
私には、失ってはじめて、自分にとってそれがかけがえのないものだったことに気づいたことがたくさんある。私は馬鹿だから失わないと気づかなかったのである。

果たして私は学習したのだろうか。

今でもまだ、ほんとうに大切なものを粗末に考えているのではないだろうか。

失う前に気づきたい。

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講演・箕浦輝幸氏「グローバル経済競争下での日本のものづくりと人材育成」

第18弾プレステージレクチャーズ
テーラーメード・バトンゾーン教育プログラム

グローバル経済競争下での日本のものづくりと人材育成』
講 師:箕浦輝幸氏(トヨタ紡織株式会社 代表取締役会長、
           元 トヨタ自動車株式会社 専務取締役、
           元 ダイハツ工業株式会社 代表取締役社長)
日 時: 平成24年5月24日(木)14:40~16:10
場 所: 豊橋技術科学大学 講義棟 A-101
【講師コメント】
世界経済を索引してきた先進国で、大量生産・大量消費を基本とする経済モデルの限界が見え始め、逆に新興国が先進国を追い上げて来るというグローバル経済戦争時代に突入した。日本の産業は6重苦と言われる大きな課題を抱え、空洞化という大きな問題を抱えてしまった。「Japan as No1」といわれた経済大国がその地位をおびやかされつつある。こういう状況下においては、従来の延長線上でのものづくり戦略では、戦いに負ける。我々は国全体が一体となって改革(イノベーション)するという覚悟がなくてはならない。 本講演では、それを乗り越えるための企業自体が追及しなければならない基本的な生産戦略についてお話したい。又それを進めるためにどんな人材が必要か、どう育てればいいのかも少しふれてみたい。

--------------
グローバル化、イノベーション、「待ったなし」の日本をとことん強調された講演だった。とにかく強調されたのは、

もう既に時代は変わった。
もう既に環境は変わった。
全部を変えなければならない。

ということだった。

しかし、日本が豊かであるためには経済成長し続けねばならず、そのためには製造業が発展しなければならない、と話されたので、その点だけは変わらないのだろう。しかしその枠組み自体も問う必要があるだろうと思う。

この世代のトヨタの方は、大野さんを心から尊敬しておられる。そのことが今回もとてもよく伝わってきた。これだけ人の人生に深く入り込んだ大野さんは、ものすごい方だったのだろう。ぜひお会いしたかった方の1人である。

もう一つ話を聞いていて感じたのは、箕浦氏が、日本の技術者は無理難題を与えられても最終的には何とかする、と心から信じておられるということである。これも今の大企業のトップの方の世代にある程度共通する信念なのだと思う。そうやって日本のものづくりは、いいものを作ってきたという体験を持っておられるのである。
これに関して悲観的な意見が学生自身から出されたが、私自身は、箕浦氏同様、若い技術者の潜在力を信じたい。

講演の最後に、夢を持って頑張れという励ましの言葉とともに、次のメッセージが送られた。

やりきる力を持て
修羅場を買って出ろ
火中の栗を拾う人間になれ

〈グローバル=イノベーション=待ったなし〉に関しては私は別の考えを持つ者であるが、最後の3点に関しては同感である。

別の考えというのは、そもそもグローバル人材というのがよく分からないのであるが、さらに、グローバル人材教育とか、イノベーション人材教育ということを私は信じることができないのである。誤解のないように申し添えておきたいが、グローバル人材やイノベーティブな人自体を否定している訳ではない。そういう人は多勢おられるだろう。ただ、それを一極集中的に目指した教育の、全体的な成果を信じられないというだけである。

ちょうど、個性重視、「個性を出せ、個性を出せ」といって育てられてきた今の学生世代の多くが、「自分には個性がないのではないか症候群」になっているように、「グローバル人材になれ、イノベーションを起こせ」と言い続けられて育てられた多くの人は、「自分にはイノベーションを起こせないのではないか症候群」に陥ってしまうように思えて仕方がない。このような教育は、デメリットがあまりにも大きすぎる。

グローバルとかイノベーションを目標にせず、結果としてグローバルな人材やイノベーティブな人を生み出す教育を考えるべきである。何も難しいことはない。かつての日本にはそういう教育があったのである。そのまま現代に適応しろとは言わないが、学ぶべき点は多いはずである。

これも誤解のないように付け加えておきたいが、箕浦氏は、そのような成果の一局集中教育を主張された訳ではない。箕浦氏は、人材育成のためには、修羅場を経験させよ、と話された。その修羅場で自分で徹底的に考えさせろ、と。これも大野イズムなのだそうだ。

This is〈グローバル=イノベーション=待ったなし〉のような講演を聞いて、部屋に戻ったら、加藤典洋さんと内田樹さんの対談(「週刊現代」2012年5月19日号の記事)がネットにアップされていた。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32550

加藤さんが、いきなり、「今の日本社会を一言で言うと、「浮き足立ち社会」になるでしょう。」と言う。「たとえば原発の再稼働。原発全停止が実現すると「夏に電気が足りなくなるぞ」とまずタイムリミットを置き、人を急き立て、浮き足立つ形で国論を二分する大問題が提起されています。これが最近の特徴ですよね。」と。

内田さんも、「「待ったなし」という誰が決めたかわからないタイムリミットだけあって、「もう時間がない、残された選択肢はこれしかない」と迫る。時間がないことを言い訳にして、考える義務を自己免責している。」と受けている。

今日は、両極の話が聞けた日である(一方は読んだんだけど)。どちらも個々には共感する点も多かった。しかし核心について言えば、加藤・内田両氏の「タイムリミット症候群」の話の方が、少なくとも私の身体にはよいように思われた。

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豊郷小学校旧校舎群、ヴォーリズさんの設計室

豊郷小学校旧校舎群、と旧八幡郵便局で開催されているヴォーリズさんの設計室展にゆく。

が、金環日食の話を先にアップしたいので、この日の話題は22日に書きます。
申し訳ありません。

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正岡子規『なじみ集』

たまには俳諧ネタ。

平成21年に世に出た正岡子規の『なじみ集』の翻刻版を入手した。
松山市立子規記念博物館から、翻刻版と複製版が発売されている。

この本が世に出たときの入札会の下見に私も行った。しかし長時間ずっと熱心に見ておられる方がおられ、新幹線の時間もあり、見るのをあきらめて帰った。
翻刻版とはいえ、ようやく中身が見られるのは嬉しい限りである。

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