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2008-12

心身の意識を写すということ

 今日は十三手特別講習会の最終回。昨日に引き続き、Rさん、岩崎先生、Tくんが特別参加した。
 ここで大変なことが起きた。Rさんが、ばんばん技を決めだしたのである。
 Rさんといえば、武道部の初代部長であるが、空手を始めて1年半で卒業、地元北海道で就職した。その後空手から離れていたが、今年の演武会を見て感じるところがあり、2年半ぶりに戻ってきたのである。8月以降、月に1回ほど北海道から稽古にやってくる。
 そのRさんが、ばんばん技を決めた。もちろん稽古中に技が決まること自体は、何ら不思議なことではない。だが彼女の動きは、明らかに質が違っていたのである。 
 みんなの驚きを余所に、
「先生のやっておられる通りにやろうと思って、真似てるんですけど……」と彼女。
「僕(わたし)も先生のやっておられる通りに真似てるんですけど……」とほぼ全員、心の中でつぶやく。
ということは? そう、
真似てるものが、違うのである。

 武道の稽古においては、師匠を真似るということがとても大切である。だが一体何を真似るのか? もちろん師匠の動きである。だがここにはカラクリがあるのだ。
 一口に師匠の動きを真似ると言っても、これがとても難しい。同じようにやっているつもりでも、全然違っている。よく見ているつもりでも、見えていない。
 ほんとうはよく見てはいけないのだ。よく見ようと意識すればするほど、大切なことは見えなくなってゆく。「観の目強く、見の目弱く」(『五輪書』)は何も立ち会いの話だけではないのである。ではどうすればよいのか。
 よく感じるのだ。
 武道の稽古においてお手本を見るとは、師匠が技を行っているときの心身の意識を、自分の感覚に写し取ることなのである。そのためには、心身を開かなければならない。

  師匠と同じ結果が出る心身の運用を、自分の感覚としてつかむ

 言葉による理解はこの過程を阻害するから、考えるのではなく、見るのでもなく、心身を開いて感じるのである。だがやっかいなことに、この感覚は、ただ感じたつもりになっているだけではダメで、実際に動いてみなければ、自分のものとすることができない。
 要するに、動きを真似るしか方法はないのだが、同じ真似るのでも、動き自体を真似ようとするのと、動きを可能にしている心身意識を自分に写しながら真似るのとでは、全く意味が違うということである。
 このカラクリに気づくかどうかが、とても大きい。武道が徒弟制度を基本とするのもこのためであるが、それについてはまた改めて述べる。
 
 さて、Rさん。彼女は、私の心身意識を真似ていたのである。その片鱗は、既に昨日示されていた。砕破の稽古中、私が最後の部分をやってみせた途端、突然彼女が「ああ~、ああ~」と独り言を言いながら何度もそこをやり出したのである。

 「昨日の砕破のあの部分をやったときに、何か、感じが分かりました」

 形稽古で大切なのは、この、自分の動きを支えている心身意識を感じるということである。武道の心身意識は普通の人の日常のそれとは異質であるから、それまでの心身意識で動きだけを真似しようとしても出来ない。習い始めた形がとても不自由なのはそのためである(最初から形を自由にやろうとする人は上達しない)。
 形稽古とは、それまでの日常の心身意識を、その流派で必要な動きを可能にする心身意識に作り替えるための稽古である。形稽古を繰り返すうち、心身意識が上書きされ、形の動きが自由に感じられるようになってゆく。形稽古で大切なのは、この感覚を感じるということなのである。これを私は、「自感自動」とよんでいる。「自分で感じ、自分で動く」。
 彼女は、形稽古で、自分の心身意識を「自感自動」し、約束組手で、師匠の心身意識を自分に写そうとしていたのである。

 もちろん今回の稽古では、他にも出来ている者もいたし、ほんとうは、多かれ少なかれ、誰でも感じていたのだ。だから、彼女が目の前でやって見せたとき、「これだ!」と分かり、驚き、彼女に引っ張られて、みんな心身が開かれていったのである。
 出来ていなかった者は、頭が、言葉が、自意識が、少しだけ自分が感じていることを、自分に隠していたに過ぎない。だがこの差は決して小さくはない。
 何人か、かなりショックをうけた。だがおそらくそのショックはあまりに大きすぎて、余計な雑念を一緒に吹っ飛ばしてくれたはずである。
 彼ら、彼女らの来年がとても楽しみである。

 実は、この講習会の後、もう一つ凄いことがあったのだが、あまりに凄すぎてここでは書けません~ 

全身全霊の武道部

 八代高専空手道部顧問の岩崎先生が、学生のTくんを連れて武道部の稽古にやってきた。課外活動の可能性を問う共同研究の一環である。北海道からは初代部長Rさんも参加した。高専生に、

 これが武道部だ!というのを見せたろ

という思いが全員にあったのだろう。とても気合いの入ったよい稽古であった。これだけのいい空気が作れたのは久しぶりである。T君もきっと感じてくれただろう。
 武道部の今のテーマは「全身全霊」である。

 心身を全開にし、自分のもっている力を全部出す。底の底から絞り出す。

 これがなかなか難しい。とりわけ普段理屈を重視している工学部の学生にとって、頭と心のリミッターを外すのは困難極まりないのである。もちろん1人ではとてもできない。
 だからみんなで一緒に稽古するのである。お互いがお互いの気を引き出しながら、全体が全開になってゆく。その時の空気は格別である。一度味わったら忘れられない。
 全身全霊の稽古はとっても気持ちがいいのである。

 昼からは、一年間の感謝の気持ちを込めて、武道場の大掃除。数年前から武道部が言い出しっぺとなって、いくつかのサークルを誘ってみんなで大掃除をしているのである。

 夕方は、岩崎先生、Tくん、Rさんと一緒に尚志館の稽古に参加。今日で年内稽古納めである。みんな元気よく声を出して、おしまい。
 今年は、道場生が一気に増え、5人が黒帯に昇段するなど、子どもも大人も成長しました。中でも今年一番成長したのは館長ですね。子どもたちも負けないように、来年もがんばりましょう。

 夜は、武道部のクリスマス会。恒例の木村さんのリンゴジュースで乾杯。おいしい。
 今年のアイテムはサンタさん変身グッズ。順番にサンタさんになって記念撮影。RサンタやY美サンタがとても人気でした。途中から参加の大阪のY子さんも、サンタになった。
 今年はほとんど全員参加の、大いに盛り上がったクリスマス会でした。

教師の性を捨てた人、権化となった人

 今日は1時限目授業をした後、三重大学で行われた東海地区大学教育研究会に出席した。
 後半の研究大会では2人の講演があった。
 一人目は田尻悟郎氏。以前テレビで拝見した通り、実に楽しい授業をされているようだ。講演も面白かった。

 英語は水泳と同じ技能であるから、教師はレクチャラーではなくインストラクターに徹しなければならない。したがって説明は1回しかしない。それで聞き取れない者は放っておく。

 もちろんただ放っておく訳ではない。その裏には、生徒(学生)が自ずと授業に集中するように、実に細やかな神経と仕掛けが張り巡らされている。
普通の「いい先生」は、細やかな神経を顕在化させてしまう。全ての神経と仕掛けをレクチャーに込めたくなるのだ。しかし氏は、

 生徒(学生)を甘やかさない。徹底的に追い込み、泣きながらでもやらせる。

 もちろんここにも、暖かな心が潜在しているのだが、この、潜在と顕在を逆転させたところに田尻メソッドの秘密があるのだろう。
ちょっと考えれば当たり前のことなのだが、教師という人種がこれを授業で実践するのはとても難しいのである。氏も言っておられたが、それが教師の性だからだ。これを捨てるのに、氏は20年かかったそうだ。
 その潜在の部分も、講演では、ちらちらと垣間見せて下さった。有難い限りである。
  
 さて、二人目の講演は、山口良治氏。スクールウオーズのモデルとなった先生である。「熱き感動を求めて」という演題通り、まことに熱い講演であった。感動した。

 先生方! 生徒に何を教えたくて教師になったのか?
 
 学生たち!何のためにここ(大学)にきて、ここで何を勉強して、これからどういう人間になりたいんや? 

 何度も何度も、聴衆に問いかけられた。そして実話版スクールウオーズを展開され、やはり何度も泣かれた。
 自分自身と、そして他人と心の底から真剣に、真正面から向き合う。
 これぞまさしく教師の性の権化である。権化だから潜在も顕在もない。ただただ熱く語る氏の講演を聞いていると、人間の心を動かすのは何か、人間は何に感動するのか、がよく分かる。

 深い共通点もあり、かつ対極的でもある、お二人の講演を用意して下さった担当校に感謝します。

 その後は、泰斗武館の稽古に参加。いつきても泰斗武館の道場は素晴らしい。気持ちよく稽古できる。武道部員2人と武道部初代部長も参加し、とても有意義な稽古でした。

平井伯昌『見抜く力 夢を叶えるコーチング』

発売元: 幻冬舎
価格: ¥ 756
発売日: 2008/11

 北島康介選手のコーチ、平井伯昌さんの本である。
非常にまっとうで、それゆえ実行がとても難しいことを平井さんは実践されていることがよく分かる。

 オリンピックで世界の頂点に立つことだけが、最終目標では決してない。……水泳を通じてみんなのお手本になる、社会の中でみなさんの役に立っていける人間になってもらいたい。水泳を通じて人間を磨いてもらいたいと思っているのだ。

 口でいうのは簡単だが、それを本気で信じて実践するのはとても難しい。本書を読むと平井さんが、日々の指導の中で、実に根気強く水泳と人生の「心構え」を説いていることが分かる。その「心構え」の上に強い心と感性を育ててゆくのである。

 伸びていくためには、その選手自身が自分の「感性」をどこまで磨いていけるかどうか、そこがポイントになるといえるだろう。

 ある程度の実力がついてくると、こんどはその体を心が支えていかないと伸びていかない。

 私たちは、試合、とりわけオリンピックなどの大舞台が選手を育てるとつい考えてしまう。もちろんそれも事実だろう。しかし、選手の強い心を育てるのは実は日々の練習の中にある。

 選手は練習の中で試行錯誤を重ねながら、少しずつ成長していく。努力をして、新たな課題を発見し、それを克服することで自信をつけ、精神的な強さも身につける。

小さな失敗と成功の積み重ねが、強い人間を育てていくのである。

そしてその先に何があるか?もちろん世界記録でも金メダルでもない。

 集中したその先を突き抜けると、これまでとは全く別の世界が広がっている

のである。
私の知る限り、勝負の世界に生きる超一流の人は、みな平井さんのように「勝ち負けはあくまでも結果である」と言う。

 私たちは、もっと遠くを見つめているんだ、

 この本には、他にも武道的なところが満載である。しかしその意味についてはまた別の機会に述べたい。

追伸)武道部員、日本文化論Ⅱの受講生は、普段僕が言っていることが具体的なかたちで一杯出てきますので、ぜひ一読を~

身体化された時間意識

 武道の稽古において、普段意識していないことに意識を向けることはとても大切である。とりわけ今武道部の課題となっているのは、身体化された時間意識である。
 遅いのだ。技が「遅い」のではない。その基盤であるはずの、身体の中を流れている時間が、とても遅いのである。
 これを早くするには、いままでゆっくり歩いていたのを、スピードアップするというのとは、ちょっと感じが違う。 
自分の身体に「沈殿」した時間意識を変えるには、新しい時間意識を上書き(再)インストールしなければならないのである。それは全く新しい時間意識をもった身体を獲得するということである。
 そのためには、意識してその時間感覚で動くことを繰り返し、「習慣化」しなければならない。
 目下、部員一人一人がそれにチャレンジしているが、何せ20年ほどかけて身体化された時間意識である。ちょっとやそっとじゃ上書きはできない。
 それでも前回の稽古では、4人ほど出来てきた。次回は何人になっているだろう?
 次回がとても楽しみである。

一歩を踏み出す勇気

 ここ何回か、基本と追い突きの号令かけを立候補制にしている。それも早い者勝ち。
 これが実に面白い。
 現在武道部には、黒帯と色帯(緑、紫、黄色)と白帯がいる。上級者の方が反応も早いし、積極的である。だからいつも、色帯は、緑帯と紫帯に独占されていた。黄色帯には、自分は級が下であるという負い目があるので、なかなか身体が動かないのである。
 ところが、今日、最後の追い突き号令の時、黄色帯が割って入ることに成功した。おそらく真っ先に入ることだけを考えて、アイドリング状態で合図を待っていたのだろう。
 合図があったら、誰よりも早く一歩を踏み出す。これが自分の実力を上げる第一歩なのである。
 頑張れ、黄色帯!

 ところで、黒帯は何をしているか?状況を瞬時に判断し、1人か2人黒帯が混じるように動いているのである。

いつでもアイドリング作戦

 最近武道部の稽古の空気がとてもいい。
このままどんどんよくなってくれると嬉しい。
みなさん、まずは「いつでもアイドリング作戦」でいきましょう!
一昨日の稽古終了後は、久しぶりに思いっきり動いて見せた。自分ではちょっと不満もあったけれど、多分今できるMAXの動きだろうと思う。見た人は、参考にして下さいね。

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