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2009-01
みんなで講演会
- 2009-01-30 (金)
- 武道部
来月、『国家の品格』でお馴染みの藤原正彦氏の講演会が大学の近くである。例によって武道部員に声をかけて出かけることにした。
武道部は、大学の課外活動として、技術者としての「人間力」養成を掲げている。道場での稽古以外に、コミュニケーション能力やプレゼンテーション能力、企画力養成など、いろいろやる(詳しくは現在作成中の「技術者教育としての課外活動の可能性」のサイトを見て下さい)。
少し前には、世界一小さい歯車で有名な樹研工業の松浦元男氏の講演会に行った。経営者向けの講演だったが、事前に学生を連れて行く許可を得ていたので、武道部員にむけて、「技術とは何か」「技術の質とは何か」「技術をどう生かすか」「マーケットをどう捉えるか」「技術者としての発想法、考え方」といったお話もして下さり、大変有難かった。
部員たちもいろいろ感じたらしく、講演会後の感想会(お茶会)では、色々な感想や意見が出て面白かった。
その前には、夜回り先生こと、水谷修氏の講演にも行った。このときも大変面白く、とても勉強になった。
さて、こういう機会が訪れたとき、部長を通じて全部員と常時参加卒業生に連絡がいく。もちろん参加は任意であるが、連絡をもらたったとき、色々な思考がある。
1)顧問(部長)からのお誘いなので、内容には関係なく行く。
2)内容をよく吟味し、面白そうだから行く。
3)顧問(部長)からのお誘いなので行きたいが、どうしても外せない用事があるので行かない。
4)内容をよく吟味した結果、面白そうなので行きたいが、どうしても外せない用事があるので行かない。
5)内容をよく吟味した結果、自分には面白くなさそうなので行かない。
6)手帳をみて、空いているので行く。
7)みんな行くので行く。
8)面倒くさいから行かない。
9)その他
さて、この中で、武道修業に向く思考と向かない思考はそれぞれどれでしょうか?
学生の議論
- 2009-01-28 (水)
- 授業
今日の3限めは国文学。この授業は大きく3部構成となっている。
プレゼンテーション
応答プレゼンテーション
お勧めシート閲覧会
応答プレゼンというのは、前回プレゼンされた本を別の学生が読んできて行うプレゼンである。今回は、小松和彦『妖怪学新考―妖怪からみる日本人の心』(洋泉社MC新書)。
一通り内容やそれについてのコメントを述べた後、発表者が問題を提起した。
我々が「闇」を排斥し続けることで、一体何を失うのか?
それに関連して、
公共の場から排斥された「闇」はどこに行ったのか?
近代化、科学の進歩が「闇」を排斥したのか?
インターネットなど、新しいコミュニケーションの在り方における「闇」とは何か?
などなど、いろいろな議論があった(議論は、本の主題から離れて自由に行ってよいことになっている)。
とりわけ、技術科学大学で勉強し、卒業後高度な技術者を目指す学生にとって、次の問題は、とても大きい問題であった。
科学技術の進歩によって、私たちは何を得、何を失うのか?
自分たちの生きる工学の世界によって、自分たちが関わる技術によって、そして自分たちの技術が作るものによって、人間は何を得、何を失うのか。それが人間の幸せとどう関わるのか。そのことを学生のうちによくよく考えてほしいと思っているので、とても面白く議論を聞いていました(たまに口出しもした)。
来週も期待していますよ~
父の命日
- 2009-01-22 (木)
- 日記
今日は父の命日である。
小学生くらいまでは、あちこち遊びに連れて行ってくれた。「子どもだけで野球をやりに行ってはいけません」と先生に言われたら、一緒に行き、私たちが野球をするのをずっと見守っていてくれた。月食があると言えば、夜中に起きて車で望遠鏡やカメラを運んでくれた。
だがいつからか、私と父は、ちょっと不思議な関係になった。お互いとてもシャイだったからだと思うが、ほとんど直接しゃべらなくなった。必要最低限のことは、母親を通して伝え合った。もちろんお互いに嫌っていた訳ではない。とても好きだった。
普通は思春期が過ぎればそういうこともなくなるのだろうが、私はいつまでも大人になりきれなくて、その奇妙な関係はずっと続くことになった。
2005年の正月もいつものように帰省していた。年内から具合が悪かったらしいが、私にはその素振りすら見せず、母にも口止めをしていたようだ。
妻の実家を経由して、1月4日に家に戻ったら、留守電が入っていた。今日父が入院したと。
翌日病院に行った。
今日は仕事は休みか?
休みや。
しばらくして、
また来るわな。
ああ
かわした会話はそれだけだった。だがなぜか帰り際、私は無意識に手を差し出した。父も黙って握手した。なぜ自分が手を差し出したのか、今もって分からない。ただその握手は、私たちの40年間の関係の全てを溶かし込んだ。
帰りの車の中で、止めどもなく涙が流れた。
父は、私だけでなく、家族や自分の周りの人のために生きた。
自分の母親が寝たきりになった時も、8年間介護に通った。毎日のように家族の送り迎えもした。偏屈で大酒飲みであったが、人のために生きた。
父の引き際は見事であった。
自分と母の部屋の絨毯を新しいものに交換し、身の回りのものを全て整理してから、
今までずっと人に尽くしてきた。もうそろそろ休憩させてもろてもええやろ。
と母に言って入院し、そのまま他界した。
父は、見ず知らずの多くの人を救った訳ではない。ただ、自分の仕事を定年まで勤め上げ、家族を支え、家族や自分の手の届く範囲の人の世話をしただけである。
孫のセンター試験の日が過ぎるのを待って、私が病院に行ける日を待って、1月22日午前4時55分、家族に見守られながら息を引き取った。
大切な人の死の意味は、直後ではなく、後からじわじわと自分の中に浸透してくるものだということを私は知った。
そしてもう一つ、母親が父親をとても愛していたということを、私は知ったのである。
不覚!
- 2009-01-21 (水)
- 武道部
後に授業や稽古があるときは、にんにく入りの料理を食べないように気をつけている。
だが今日、昼夜兼用ご飯に注文した和風きのこパスタに、にんにくが入っていた。しかも思いっきり。メニューに「にんにくマーク」がなかったのに……と思ったが、後の祭りだった。
授業が全部終わっていたが、その後、武道部の稽古があったのである。
もちろん全部食べた。
誰も何も言わなかったが、たぶん臭かったと思う。自分でもちょっと臭かったし……。
だが臭かったことは別に大した問題ではない。普段部員に、日常生活そのものが武道であるとエラソーなことを言っておきながら、ご飯の注文で油断してしまった。
面目ない。不覚であった。部員の皆様方、お許しあれ。
と、たまには謝っとこーっと。
「先生」と呼べる強靱な精神力
- 2009-01-19 (月)
- 研究
この前テレビをみていたら、ノーベル賞を受賞された益川敏英さんが、次のような意味のことを言われていた。記憶だけを頼りに書いてみる。
最近は、教授でも准教授でも「さん」と呼ぶ研究室もあるようですね。これは、学問には先生も学生もなく、対等に議論をするためです。若い方の考えみたいですけどね。
益川さんご自身の研究室ではなく、別の話の流れの中で一般論として話されたに過ぎない。そのことについて、特に意見を述べられた訳でもない。
教員のことを最近の学生が「さん」と呼ぶことについては、別に驚かなかった。私の勤務校は工学部であり、学生は教員本人がいないところでは「さん」と呼んでいるようだからだ。少し前に、ちょっと気になって学生に聞いてみたことがある。
「うちの学生って、本人のいないときは、先生のことを「さん」って呼んでる?」
「……。そう言われれば「さん」って呼んでますね」
「自覚してないの?」
「あんまり意識したことないです。みんな自然にそう呼んでいますね」
この時は、自分がどう呼んでいるかに対して、無自覚であることにちょっと驚いたが、それはさておき、このことは、益川さんの話とは違う。益川さんは、研究室における議論の場において、遠慮無く対等に議論をするために「先生」ではなく「さん」という呼称を選択する研究室がある、と言っておられるのである。
だが、「さん」と呼ばなければ遠慮して議論ができないほど、日本人の精神力は低下したのか?
普段は先生として敬意を払う。しかし学問上の議論となれば、一研究者として対等に議論を戦わせる。「先生」も学生もない。研究室であろうが、学会であろうが、そんなことは当たり前のことのはずである。「先生」と呼べばそれが出来ないなどということは、私には理解できない。それは学問に対する信頼の問題である。
このように言うと、逆に、「さん」と呼んでも十分尊敬しているのであって、「先生」と呼ばなければ敬意を払えないなんで信じられない、と言われるかもしれない。そう言われれば、そうですね。
私も師匠の竹田青嗣を「竹田さん」と呼んでいる(それは私が弟子入りした時に、まだ「教員」ではなかったご本人が「先生」と呼ばれることを嫌がったからだ)。
だから「先生」と呼ぼうが「さん」と呼ぼうがそんなことはどっちでもいい。ただ「対等の議論のために」という理由で「さん」と呼ぶのだとしたら、その精神は実に脆弱なものではないかと思うのだ。
話は変わるが、だいぶ前から、プロのスポーツ選手がガムを噛みながらプレーする姿がよく見られるようになった。ガムを噛むとリラックスでき、パフォーマンスが上がるというのである。それについて、誰かが、ガムを噛まないと力みがとれない身体しか日本人が持てなくなったということであり、それは日本人の身体能力が低下したということだ、という意味のことを書いていた。
その通りだと思う。
ガムなど噛まなくても力まずいいプレーが出来る。「さん」と呼ばなくても、学問上の議論が対等にできる。そんな逞しい精神をこそ私たちは身に付けなければならないのではないだろうか、と思う。
もう一つ付け足しておく。これもだいぶ以前からだが、携帯電話などを使って質問できるシステムが開発されているらしい。面と向かって直接先生に質問するのは、学生にとって非常に大きいストレスであるから、そのストレスを減らすシステムだというのである。
これで誰でも気軽に質問できる、というわけだ。
だがどのようなシステムであろうと、質問というのは、それによって自分の理解のレベルを晒すものである。自分を晒すリスクを負わないで、十分納得のいく答え(ハイリターン)だけ求めようとする精神は、ちょっとセコ過ぎるんとちゃう?と言いたくなる。
自分を晒す覚悟を決め、恥ずかしさやプレッシャーを乗り越えて質問できる人間を育てるシステムをこそ、私たちは作らないといけないのではないだろうか。
恐るべし、フジヤマノトビウオ
- 2009-01-18 (日)
- 日記
だいぶ前のことになるが、書いておきたい。
ある日、喫茶店でお茶を飲みながらスポーツ新聞を見ていたら、フジヤマノトビウオ、古橋廣之進氏(日本水泳連盟名誉会長)のインタビュー記事が載っていた。
長距離なんて頑張り、我慢比べの競争ですから。マラソンだってそうですよ。我慢して我慢してやれば、勝てるんですよ。
今どき珍しい精神論だなあと思いながら、読み進める。
自分の経験から言うと、一番泳ぐときは1日3万メートルですよ。それぐらい泳がないと、体ができてこない。魚になるまで泳げ、というのをひとつのモットーにしてね。
8時間か9時間ですよ。よく言うんだけど、僕が選手時代に泳いだ距離は6万キロ。地球1周半ですよね。それぐらい泳がないと、本当の水泳選手にはならねえよ、と。今も(日本)の自由形が弱いのは、みんな泳がないし、泳げないんですよ。精神的に弱くてね。
フジヤマノトビウオは一日3万メートル泳いだのだと知って、少し驚いた。また、今の選手は、精神的に弱くてそれだけ泳げないと、連盟の名誉会長がおっしゃっておられることにも、さすがに少し驚いた。しかしそれくらいなら特に何ということもない。
だが、私は次の発言を読んで、びっくり仰天したのである。
今の若い人たちは、泳がないからね。体だって魚みたいにならないですよ。タオル使って体ふいているようじゃあね。体をブルッと振ったら水がはじかれ、落ちちゃうようにならないと。水滴がポタポタたれるようじゃあダメなんですよ。
先に軽く読み流した「魚になるまで泳げ」というのは、こういう意味だったのだ。
現在どのくらいの水泳選手が「体をブルッと振ったら水がはじかれ」る身体を持っておられるのか、そしてこの身体が現代の水泳競技にどのように有効なのか、私は存じ上げない。
ただ、武道を修業する身として、フジヤマノトビウオの身体は驚異的という他ない。
もっとも、現代の武道家でこのような身体を持っている人がどのくらいいるのかも私は存じ上げない。沢山いるのかもしれないし、ほとんどいないのかもしれない。そんなことはどっちでもいい。
ただただ私は、それほど隅々にまで神経の行き届いた、柔らかい身体を私も持ちたいと思うだけだ。もっとも、そのために一日3万メートル泳ぐ根性は私にはないだろう。
やっぱり精神的に弱いのだ……
ということは、あながち前半の精神論も、古いとばかりは言ってられないのかもね。
(引用は、スポーツ報知(2008年1月24日)より。ただし、急いで書いたメモによるので、間違いがあるかもしれません。ご指摘的があれば訂正します。)
超一さんの法則
- 2009-01-16 (金)
- 日記
私の経験では、超一流の人と三流の人は同じことを言う。
もちろん中身も説得力も根拠も何もかも違うのだが、表面上は、似たことをいうのである。
スポーツでも、ビジネスでも学問でも武道でも同じである。私はこれを「超一さんの法則」(ちょういちさんの法則)と呼んでいる。
そして私は超一流にはなれないので、三流のままでいたいと思う。なぜなら、超一さんチームと、一二流チームは、目指すところも価値観も違うと思うからである。
木村秋則『自然栽培ひとすじに』・石川拓治『奇跡のリンゴ』
- 2009-01-07 (水)
- 読書
発売元: 幻冬舎
価格: ¥ 1,365
発売日: 2008/07
発売元: 創森社
価格: ¥ 1,680
発売日: 2007/01/20
ミーハーな私は何にでもすぐ感動してしまう。NHK番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」で初めて木村秋則さんを見たときも、あの笑顔に魅せられ、あの話し方に聞き惚れた。台風で折れたりんごの木を地面から持ち上げようとするシーンに感動し、リンゴを手に「かわいいな。あははは」と笑う木村さんに愛を感じた。そして差し出された2年たっても「腐らないリンゴ」にびっくり仰天したのである。
自然のものは腐らず、枯れてゆくんじゃないかなあというような気持ちを持っています
その木村さんの本である。『自然栽培ひとすじに』はご本人、『奇跡のリンゴ』は石川拓治氏の筆になる。 『奇跡』はドラマチックに書かれており、『ひとすじに』の方は、次のような話が淡々と書かれている。
「私のお父さんの仕事はりんごづくりです。でも、私は、お父さんのつくったりんごを一つも食べたことがありません……」
食べさせたくないわけがない。食べさせてやりたくとも、ひとつとして実らないのですから。(45頁)
さて、『奇跡』の最初の方に、印象深いエピソードが紹介されている。木村さんは当時トウモロコシも作っていた。出来は極めて良好。ただ、タヌキの被害に悩まされた。
それで畑のあっちこっちに、虎鋏をしかけた。そしたら、仔ダヌキがかかったの。母親のタヌキがすぐ側にいてさ、私が近づいても逃げようとしないのな。虎鋏をはずしてやろうと思って手を出したら、仔ダヌキは歯を剥いて暴れるわけだ。可愛そうだけど、長靴で頭を踏んづけて、虎鋏をはずして逃がしてやった。ところが、逃げないのよ。目の前で、母親が仔ダヌキの足、怪我したところを一所懸命舐めているのな。その姿を見て、ずいぶん罪なことしたなあと思ったよ。それで「もう食べにくるなよ」って、出来の悪いトウモロコシをまとめて畑の端に置いてきた。……
次の朝、畑に行ったら、ひとつ残らずなくなっていた。と同時に、タヌキの被害が何もなかったのな。それで虎鋏をやめて、収穫するたびに歯っ欠けのトウモロコシを置いてくるようにした。それからタヌキの被害がほとんどなくなった。だから、人間がよ、全部を持っていくから被害を受けるんではないのかとな。そんなこと考えました。元々はタヌキの住処だったところを畑にしたんだからな。餌なんかやったらタヌキが集まって来て、もっと悪戯するんではないかと思うところだけど、そうはならなかった。(43頁)
木村さんの栽培は、この感性に支えられている。苦労の末、9年ぶりに花を咲かせたりんごの木を見たときも、こうである。
なんか、まともに見られないのな。……期待はしていたけど、その一方でさ、リンゴの木はまだ私のこと許してくれないんじゃないかって、心のどこかで思っていたのな。(『奇跡』166頁)
この感性は普通ではない。だからこの感性に支えられた、
この栽培法はだれでも行えるものですけれど、決してたやすい農法というわけではありません。しかしそれだけ力を尽くす価値のある農法です。(『ひとすじに』155頁)
「だれでも行える」が「たやすい」わけではない。これはもはや栽培法の話ではない。感性であり、生き方である。
もちろんこの感性は、誰でも身に付けられる。だが「たやすい」わけではない。だから「力を尽くす価値のある」ものなのだ。ではどうすればいいのか?
バカになればいいんだよ(『奇跡』23頁)
えっ?
あのさ、虫取りをしながら、ふとこいつはどんな顔をしてるんだろうと思ったの。それで家から虫眼鏡を持ってきて、手に取った虫の顔をよく見てやったんだ。そしたら、これがさ、ものすごくかわいい顔をしてるんだ。あれをつぶらな瞳って言うのかな、大きな目でじっとこっち見てるの。顔を見てしまったら、憎めないのな。私もバカだから、なんだか殺せなくなって葉っぱに戻してやりました。私にとっては憎っくき敵なのにな。(『奇跡』152)
木村さんは、りんごの木にも語りかける。
あのときは、リンゴの木にお願いして歩いていたの。……これじゃ、枯れてしまうと思ってな。リンゴの木を一本、一本回って、頭を下げて歩いた。「無理をさせてごめんなさい。花を咲かせなくても、実をならせなくてもいいから、どうか枯れないでちょうだい」と、リンゴの木に話しかけていました。(『奇跡』111頁)
確かにバカである。だがその意味はこういうことだ。
あの頃の私がいちばん純粋であったと思う(同)
そして、
バカになるって、やってみればわかると思うけど、そんなに簡単なことではないんだよ(『奇跡』23頁)。
そうに違いない。それまで正しいと信じてきた常識というものがある。それはそんな簡単に捨てられるものではない。
何より私の言うことの多くは、農業の教科書に書かれているような常識と逆。いくらよい方法だと力説されたところで、二の足を踏む人も多かったことでしょう。(『ひとすじ』149頁)
だが以前紹介した平井伯昌『見抜く力』も、「勇気をもって、ゆっくり行け」というアドバイスを次のように解説していた。
普通の人間と同じ価値観ではないことを、勇気をもってやるということを康介にはいつも要求していたのだ。(16頁)
普通の人間と同じ価値観では、最高の泳ぎができない。平井コーチがそれを捨てさせたのは、北島選手に、自分が持っている能力を最大限に発揮させるためだ。木村さんも同じ。
この栽培法は土の力を最大限に発揮させる農法です。(『ひとすじ』73頁)
だが、平井コーチがいうように、「普通の人間と同じ価値観」を捨てるにはとても勇気がいる。その勇気はどこからやってくるのか?
目の前の現実である。
この本に書いたことがただ一つの「答え」ではないのです。……もともと自然環境は、豊かな多様性のうえに成り立っているのですから、それを真似た私の自然栽培も「これさえやっておけばうまくいく」というような単純にパターン化できるものではないのです。……私にいわせれば自然の中に無数に「答え」があって、人間はそれを経験によって一つずつ見つけていくしかないということになります。(『ひとすじ』69頁)
常識や自分勝手な思い込みや、その他様々なごちゃごちゃを全部捨て、純粋に目の前のりんごの木を愛し、自然をよく感じ、りんごの木と対話し、自分がやるべき最低限のことをシンプルに実行する。ただそれだけだ。自分がすべきことは、りんごの木が、自然が、教えてくれる。
人は、どうでもいいものはいくらでも捨てられる。だが、一番大切なものを捨てることは容易ではない。だが、自分が一番大切だと信じていることを、勇気を持って捨てたとき、目の前の世界は、それまでとは違って見えてくるのだろう。
人間は技術と感覚を研ぎ澄ますことで、目に見えない世界でも認識できるようになる。(『ひとすじに』34)
これも以前書いたが、田尻悟郎氏が「教えない」を実践するのに20年かかったという。教師が教えることを捨てるのである。並大抵の勇気ではない。だが目の前の生徒を通して、新しい世界が見えていたのだろう。そしてそれは20年かけてより明確になったのだと思う。
木村さんも「栽培ではなく、リンゴの木が育ちやすいような環境をお手伝いするだけ」(番組)だという。
「なして(何で)農薬も無くて、りんごできるんだべ」
「よく聞かれるんだけど、私にも、よく分からないのな。きっとあまりも私バカだから、りんごの木が呆れて実らしてくれたのかもしれない。ハッハッハ」(『奇跡』4頁)
私も木村さんのような笑顔で笑いたい。そして年をとれば腐ってゆく人間にはなりたくない。
ただ枯れてゆきたいと思う。
年賀状
- 2009-01-04 (日)
- 日記
年賀状は楽しいですね。毎年郵便受けを開けるのがとても楽しみです。
一枚一枚読んでゆくのもとても幸せな時間です。僕は例年、最低3回は読みます。自分が書くときは時間に追われ、きちんと書ききれなくて出してしまいますが、頂いた年賀状を読むときは、ゆっくり味わいながら読みます。そして来年こそは自分ももっとゆっくりきちんと書こう、と思うのです。もちろん毎年同じことの繰り返しですけど。
ところで、武道部関係者で年賀状を下さった方、どうもありがとうございました。原則として武道部関係者には、頂いてから返事を書くことにしていますので、楽しみに待っていて下さいね。
頂いてから書くことにしているのは、「返事」を書くためです。
自分の現状、今後の目標などを「僕宛」に書いてくれている方には、それについての僕なりの考えを「その方宛」に書きますし、一般的なご挨拶だけを書いている方には、僕も一般的なご挨拶を申し上げることにしています。
その人がくれたメッセージ(こころ)にきちんと反応することを意識して「返事」を書いていますので、時間がかかる場合もあります。だから返事が届くまでちょっと待って下さいね。
普段口では言いにくいことも、改まった年賀状だと書けて、いいですね。葉書はスペースが限られているので、長々と書けないところも更にいい。よく練って、短い文章で大切な思いを伝えてくれている年賀状を頂くと、とても嬉しくなります。
頑張って返事書きますよ~
あけましておめでとうございます
- 2009-01-01 (木)
- 日記
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。
今日は、何年かぶりに薬師寺に初詣。ここ数年、西岡常一さんの本を学生と読み、高田好胤さんのCDを何十回と聞いているので、とても神妙な気持ちになる。
素人のくせに、西塔の屋根の反りに感動し、金堂の美しさにしばし見とれて、幸福なときを過ごす。
さらに幸運なことに、本日から特別公開の、国宝「吉祥天女画像」も拝むことができ、これまた幸運なことに、安田暎胤管主の御法話も拝聴することができた。
また、時々雨(みぞれ?)が降ったが、全て建物の中にいるときで、濡れずにすみ、これも幸運と喜んだ。
でもとても寒かったです。
改修中の唐招提寺にも参拝して、帰りました。
改めまして、今年もよろしくお願いします。
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