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2009-12
年末のご挨拶
- 2009-12-31 (木)
- 武道部
このブログも始めてから1年が過ぎた。今年の1月から始めたと思っていたら、実は昨年の12月21日からだった。続くかどうか分からないままとりあえず始めたが、現在のカウンタが13820。このブログを携帯で読んでくれている人もいるので、実際にはもう少し多いことになる(携帯ではカウンタが上がらないので)。たくさんの方に読んで貰えてとても嬉しい。
何を書いたかもうほとんど忘れてしまったが、その時、その時で、このブログを書くことによって、私自身の考えが整理され、進んで行くことが出来た。これからもできるだけ続けていきたいと思う。
みなさん、一年間ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。
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アイス交換して
- 2009-12-30 (水)
- 日記
信じられない光景を見た。
アイスクリーム屋さんでお金を払おうとしていたとき、後ろから別の店員さんに話し掛ける声が聞こえた。
(客)これ交換してくれん?
(店)あっ、落とされましたか?
(客)いや、こいつがこっっちの茶色いやつの方がええ言うもんで。
「こいつ」とは小学生1、2年生くらいの子ども。喋ってるのはお祖父さんか、お父さんか微妙なところである(一応お父さんということにしておく)。
(店)チョコですか?
(客)うん。
要するに、さっきアイスを買って行った(ちなみにシングル・コーン)のだが、席に戻ったところ、その男の子が
やっぱ茶色いのがいい
と言ったのだろう。そこで交換してくれと言ってきたのである。
まだ口をつけていないので大丈夫だと思ったのだろうか?
もちろん返されたものを元に戻せないし、別の客に出せる訳がない。案の定、店員さんは受け取るやいなやごみ箱に捨てた。その背中は、
あなたの理不尽な申し出によって、私はこれを捨てないといけないんですよ
と主張しているようでもあり、単にぶっきらぼうに、対応マニュアルに従っただけのようでもあった。いずれにせよこちらを振り返った店員さんは、元のにこやかな笑顔でチョコアイスを渡した。
このお父さんは、自分の行動によって、子どもに何を教えたのだろうか?もちろん教育的な意図はなかったのだろうが、良かれあしかれ、結果的に親の言動はいつでも子どもに何かを教えてしまうことを知らない訳ではあるまい。
それはそうと、一度誰かが買ってしまえば、返品しても別の客に出せないのが分かっているものを、どうして口を付けていないという理由で交換できると考えるのだろうか?
おそらくその子は、どちらにしようか決めかねていたのだろう。ぐにゅぐにゅ口ごもっている間に父親の勢いに押されたのかもしれない。あるいはそれが欲しくて注文した後で、急に、やっぱりチョコアイスが食べたくなったのかもしれない。
しかしよく考えた結果であろうが、迷っていて勢いに押されたのであろうが、急に気が変わったのであろうが、一度買ってしまった後ではそれは取り消せない。自分でその責任をとらなければならない。
もうそういう価値観はなくなってしまったのか?
今頃言ってももう遅い。それを食べなさい。
ほとんどの親は今でもそう子どもを叱っていると信じたい。
私は何も悪質商法に騙されて契約してしまった商品のクーリング・オフを認めるなと言っている訳ではない。あくまでアイスの味の話である。
だが子どもにとってアイスは人生上の大問題である。一つの味を選ぶということは、その他の全ての味を捨てるということである。しかも店員さんに聞かれるまでのタイムリミット内に「決め(断定し)」なければならない。そして一度決めたら、後で気が変わろうとも、その責任をとらねばならない。子どもはこの人生上の重要な事柄を、アイスで学ぶのである。
後で気が変わったからといって交換したり、迷ってるからといってダブルを買ってやる親は、その子が人生上の大切なことを学ぶ機会を奪っているのである。
アイスで大切なことを学ばなかった子どもは、大人になったとき、平気でドタキャンをするかもしれない。
あの時はそう思ったけど、気が変わったんだから仕方ないでしょ。
おそらくこの人には、これがいかに自分の信頼を損ねる行為であるかが理解出来ない。なぜならその人にとってはドタキャンこそ「自分に正直なこと」だからである。そしてそれを「いいこと」として育ってきた。別のアイス食べたいなら無理してそれを食べなくていいよ、と。
また、アイスで人生を学ぶことを奪われた子どもは、こんなこと言い出すかもしれない。
結婚式当日の朝になって、
ママ、僕やっぱ別の人がいいや。
あら、そう。よかったわ。まだ式あげてないから大丈夫よ。
ママ、僕二人とも好きだから、どっちか一人を選べないよ。
いいじゃない、両方と結婚すれば、ね。
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メールの返信
- 2009-12-24 (木)
- 武道部
一つ前のエントリーで、メールの返信について書いたが、第1回寺子屋でも「即レス」の話をした。これはメールの話ではない。日常のあらゆることにおいて「即反応できる身体」のことである。頭でごちゃごちゃ考えて、体が動かない。これでは武道は困る。
その時、やはりメールの話になった。稽古などに関する日程調整のメールを出しても返信が遅い(来ない)者がいるというのだ。社会人である。もちろん数時間以内という話ではない。しかし、何日たっても返信がなく、再び問い合わせたり、催促してようやく返答するというのである。これでは困る。
その時、ある卒業生が、会社では「返信お願いします」とか「回答お願いします」などと書いておかないと原則として返信がこない(出さない)ので、それと同じ感覚なんじゃないか、と言った。なるほどそういうことか。でも仕事じゃないし。問い合わせのメールであることは明らかだし。この人は彼女からのデートの誘いメールも、「返答して下さい」と書いてないと返信しないのかしらん。
私の勤務先でも、重要な書類をメールで出しても、受け取りの確認がこないことが多い。私はわざわざ電話したり、メールで「届きましたか?」と確認したりすることも多いが、そうしなことも多いのだろう。「出した」「届いていない」というやりとりを会議などでもたまに目にする。そんなことにエネルギーを使うなら、「落掌」というメール1本出す方がよほど時間の節約になると思うのだが、そうではないらしい。
私は仕事では、なるべくその流儀に合わせるように努力しているが(それも変だが仕方ない)、修行仲間(方寸塾生、武道部員など)との普段のメールは、よほどのことがない限り必ず返信するし、受け取りなどの確認のメールも出す。何度か私とメールのやりとりをしている人はそのことを知っているはずである。だから、「返答お願いします」と書いてあると、私はこの人に、「そう書かないと返答しないようないい加減な人間だ」と思われているんだ、と判断することにしている。もちろん知り合って間もない人は別であるが、今までそんなことを書いてきたのは学生だけである。
さて、前置きが長くなったが、昨夜武道部員と夕食会を開催したので、この前のメールの話をした。その時に、別の学生から来たメールについても言及した。それは非常に傲慢な心の出たメールだった。「こいつ、こんなメール出して来よってん。むかついたから返信せーへんかった」と言ってそのメールを見せた。その時に「僕は基本的にメールには返信している。帰宅報告メールにも全員に返信している。返信しないときは何か理由があるときや(見てないという理由も含む)」という話をした。また「返信するかしないかは僕の自由だから返信するのであって、「返信しろ」と押しつけがましいことを書いて来たら、返信したくなくなる」と。何度もいうが、修行仲間の間でのことであって、仕事は別である。
その後も食事会は長く続いた。
次の日、その学生からメールが来た。「あのメールのどこが悪かったのでしょうか?」。おまけにこう付け加えられていた。「ご返答いただけないでしょうか?」。
仕方ないので返答した。
その時に聞け。
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「今から行ってもいいですか?」メール
- 2009-12-22 (火)
- 日記
「今日の昼休みに伺ってもよろしいですか?」というメールが武道部員から携帯に届いた。今は12時44分。本学の昼休みは12時35分からだから、既に昼休みである。つまり、今からいってもいいか? ということをメールで出してきたのである。おまけにそのメールには、「ご回答のほど、宜しくお願いいたします」と付け加えてあった。昼休みは13時35分までだから、少なくとも45分以内に返答せよ、ということである。はっきりいって無理な場合が多い。私は携帯のメールを常時チェックしている訳ではないからである。
学生が私の研究室に来るのにアポがいる訳ではないのだから、直接来ればいいのにね。
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制引鎮特別講習会
- 2009-12-20 (日)
- 武道部
制引鎮特別講習会の最終回。
岩崎くんが特別参加した。
今年の制引鎮は、応用の形分解を中心にやってきた。一見制引鎮の分解には見えない技を、制引鎮の動きから順序立てて見せていて、みんなに稽古してもらうというパターンである。途中難し過ぎた回もあったが、全体として非常に面白かったのではないかと思う。私自身もかなり勉強になった。
空手をはじめとした武道の形(型)は、カタチに囚われたものであるとか、鋳型であるとか、パターン化されたものであるとか言われることがある。つまり現実の動きには対応できない、よく言われる「形は実践では使えない」というやつである。
もちろん、そのようなものとして形(型)を稽古している人もいるのだろうが、形ほど変幻自在なものはないし、形によって練られた動き以外にその武道(剛柔流空手なら剛柔流空手)の動きがあることが私にはよく理解できない。たぶん「形は使えない」のではなく、
「形はその人のレベルに応じてしか使えないもの」
なのであろう。
私が入門した頃、よく師匠(現宗家)が「次は制引鎮でやってみましょうか?」とか、「次は四向鎮で」などと言ってから自由組手(競技組手ではなくいわゆる地稽古)をやって見せてくれた。もちろん私には、師匠の動きのどこが制引鎮で、どこが四向鎮なのか、形のどの部分なのか、全く分からなかった。私の知っている形通りの動きなど一切出てこないのだ。
また初段の頃、ある支部道場の道場開きで、当時七段の師範が館長と記念組手を行った。その組手の前に、師匠がその七段の師範に、「四向鎮で受けたらええよ」とひとことアドバイスした。「オス」とだけ返事して、その組手は始まった。
そりゃもう凄かった。顔面であろうが、金的であろうが、自由自在に攻撃し、触れるか触れないかというところで見事に止めていた。館長は、道場開きの演武とはいえ、滅多にないチャンスなので、一発入れてやろうと必死で戦っていたように思う。だがその館長は、今自分が金的を潰されていたことすら気づいていなかった。私は目の前の光景に圧倒されたが、しかしどこが四向鎮なのか、やはり分からなかった。
ところがそれが終わってから、師匠が「やっぱり○○ちゃんはよう分かってるね。四向鎮というただけで、ちゃんと出来てる」と褒めていたのである。
私は白帯のときから、「形をきちんと練った人には絶対勝てない」と教えられ、その光景を見てきたので、「形は使えない」ということの意味がよく分からないのである。もちろん私より強い人は山ほどいるが、それは「形が使えない」のではなく、「私の形のレベルがその程度だ」というに過ぎない。
しかも形を練って、武道の意味が分かってくると、他人との勝ち負けなんてどうでもいいことだと分かってくる。
武道は自分の能力を最大限に発揮するための道であって、他人との優劣には何の意味もない。
だから私たちが稽古を続けるのは、少しずつでもレベルアップしたいからであって、他人に勝つためではない。
ではなぜレベルアップしたいのか?
それには「何のため」という答がない。レベルアップしたいから、レベルアップしたいのである。
高田好胤さんが、何のために「捨身の行」をするのかと聞かれて、「私たちはそれをただ捨身の行とだけ申して、何のためとは申しません」と答えた僧の話をされていたが、武道の修行にも、「何のため」はない。ただ自分は武道の修行中の身なので、修行しているだけである。これがまた何物にもかえがたい楽しさがあるからやめられない。
来年は四向鎮。幹事からは厳しい案内が送られたみたいだし、何人参加するか分からないが、またスペシャルな稽古になるように努力し、私自身もレベルアップしたいと思う。
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性と生、歴史とは何か、メタミステリー
- 2009-12-16 (水)
- 授業
2限の『ノルウェイの森』、ようやくプレゼンが始まった。今日は2人。『ノルウェイの森』を読んで「胸キュン」になる学生と、高専時代はそうだったが今回読み直したらそうはならなかった、という二人。聴衆を交えて白熱した議論が交わされた。
なぜ何度読んでも胸キュンなのか?
読み終わった後、自分はしばらくご飯も食べられないのはなぜか?
高専時代面白かった小説が、今なぜそうでなくなったのか?
一体何か変わってしまったのか?
「僕」と自分の現在の距離感は何か?
やがて議論は、今の自分の生き方から、「村上春樹における生と性」、「現代若者の恋愛のあり方」へと展開していった。
非常に盛り上がった。これで年内は終了。年明けにまた『ノルウェイの森』で盛り上がりたい。
3現は、先週の応答プレゼン、
長嶋有『猛スピードで母は』
加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』
先週のプレゼンを受けたもので、先週のプレゼンとはまた違った、新しい視点で語られていた。
プレゼンは1人。
中井秀夫『虚無への供物』
前にも登場した『読書と社会科学』を「分布密度関数」で読み解いた彼である。今回は「メタミステリー論」。『虚無への供物』がなぜメタミステリーなのか。メタミステリーの魅力とは何か、この作品のどこが面白いのか、などなどについて。今回は何を言っているのか私にもよく理解できました。
ちなみに彼は、すでに『ドグラ・マグラ』についてもお勧めシートを提出している。
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第1回寺子屋
- 2009-12-14 (月)
- 日記
方寸塾の活動の一つ、寺子屋の記念すべき第1回が開催された。
方寸塾は武道を学ぶ塾であるが、その他の活動と違って寺子屋には実技稽古がない。講義、プレゼン、ディスカッションが中心である。私は武道を単なる格闘術ではなく、生き方であり、その人が生きる道であると考えているので、武道を修行する社会人としての生き方を学ぶ場所を作りたいと思っていたのである。
ようやく時を得て実現した。参加者は21名(社会人14名。学生7名)。社会人は、遠くは九州、四国、東京、大阪などから夜行バスを駆使するなどして参加してくれた。学生は、武道部員のうちの希望者である。今回残念ながら都合がつかず、レポートのみの参加になった者も6名。この都合27名の人たちが、本気になって参加してくれた。ほんとうに嬉しい。
そう、今回は事前にレポートを課したのである。
課題図書7冊を読んだ上で、レポートを提出し、全員、他の人の全レポートを読んだ上で参加した。
まずこのレポートの出来がとてもよかった。仕事でもないし、単位をもらえる訳でもないのに、非常に熱のこもったレポートが多く、読んでいてとても面白かった。中でも、バーゼルからレポートのみによる参加となった荒川夫妻のレポートは、大変深い内容だった。
さて、いよいよ当日。今回のテーマは二つである。
1)方寸塾の名前の意味
2)成長の条件~修行の心構え
「方寸塾」は芭蕉がよく使う「方寸」からとった。その意味を解説した。これについては近々ある雑誌に書く予定である。
「成長の条件」の方は、まず私が講義した。
最初に「こんな奴いらん」シリーズ。私たちが目指すものを説明し、逆に「こんな奴は方寸塾にはいらん」ということを、最近の例をもとに具体的に説明。これはかなりインパクトがあったようで、みんないつ自分が出てくるかドキドキしていたようだ。
もちろん、ほとんど全員出て来たのであった。
その後、「こん奴いらん」と言われた後に、がんばって成長した方寸塾生、3人について紹介。私からプレゼントを渡す。
後半は、課題図書について私が解説。その後、参加者一人一人が自分のレポートについて説明した上で、ディスカッション・・・。の予定だったが、予想以上にみんなが熱く語りだしたので、予定変更。途中からフリーディスカッションにした(自分のレポートについてもっと語りたかった人も多かったと思う。ほんとうごめんなさい)。
フリーディスカッションでも熱い議論が続く。予定時間が過ぎても全く終了する気配がない。仕方なく無理矢理終了させ、続きは懇親会で。
予定時間から30分遅れて懇親会場へ。ここでもさらに熱く語り合った。
いろいろ不手際もあったし、議論も途中で時間切れとなった。もやもやがまだつかみきれなかった人もいただろう。それでも第1回寺子屋は無事終了した。
大成功だったと思う。たぶん。みんな本気で自分のことを語っていたし、他人の話も聞いていた。特に社会人のそういう姿を生で見、同じ時間と空間を共有し、その場所でディスカッションできた学生には、非常に貴重な経験となったと思う。ほんとうに「いい場」が出来ていた。
最初に幹事から「何か一つ、必ずつかんで帰りましょう」という挨拶があったが、それぞれいろんなものをつかんでくれたと思う。感想文がとても楽しみである。
もちろん私も大切なことをつかんだ(参加したみなさん、私も感想文アップしますからね)。
上にも書いたが、社会人の仕事に直結する話でもなければ、学生の単位になるゼミでもない。ただ自分の成長を求めて、私を入れた23人が、一日中熱く語り合った。そしてある者は帰宅が夜中を過ぎ、ある者は翌朝に帰宅した。そしてほぼ全員が月曜日、仕事に行き、大学に行ったのである。
ほとんど奇跡的なことだと思う。ほんとうに嬉しかった。
第2回もぜひやりたい。
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100%の恋愛小説
- 2009-12-09 (水)
- 授業
2限は村上春樹『ノルウェイの森』。なんと新型インフルエンザの影響で、プレゼン予定者が授業に出席できない。今日の予定は一人なので、仕方なく全員ディスカッション。人数が少ないので盛り上がる。
私も、『ノルウェイの森』のキャッチコピーである、「100%の恋愛」について、竹田師匠の『恋愛論』や、井上陽水の歌もからめて、熱く語った。あんまり熱く語ったので、学生がニコニコして聞いてくれた。
学生同士のディスカッションも盛り上がった。来週からのプレゼンが楽しみである。
3限はいつも通り。お勧めシート閲覧会のときに、「先生、これ読んだことがありますか?」と聞かれて、「読んでない」と答えたら、「一度読まれた方がいいですよ」と言われた。「分かりました。読んでみます」。
実は私も読んだことがなくて、面白そうな本がこの授業では、たくさん紹介される。私自身がとても勉強にる、贅沢な授業なのである。
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身体儀礼文化フォーラム
- 2009-12-07 (月)
- 研究
12月5日、鹿屋体育大学で開催された身体儀礼文化フォーラムに参加した。「体育大学における〈修養的教養〉の未来-武道礼法を中心に-」というサブタイトルがついている。
早朝、鴨池港から桜島を見ながらフェリーで垂水港へ。垂水港で
熊本高専の岩崎くんが待っていてくれた。岩崎くんの車でいざ鹿屋体育大学へ。
正門に幟が立っている。礼儀正しい学生さんの案内で会場へ入る。前から3列目の真ん中に陣取る。
まずは小笠原流弓馬術礼法三十一世宗家、小笠原清忠氏の基調講演、「日本の伝統的な身体儀礼文化 -武術礼法から日常の礼儀作法まで-」。大変刺激的で面白かった。途中見せていただいた映像も衝撃的で、その夜早速岩崎くんと特訓をしたが、かなり難しい。
フォーラムⅠは、「鹿屋体育大学における武道礼法指導とマナー教育」、フォーラムⅡは「現代の高等教育における修養的教養教育の可能性と課題」。興味深い報告が目白押しだった。予定時間を30分以上オーバーして修了。いろいろ得るところがあり、実に充実した一日を過ごした。
私があまりに目立っていたのか、鹿屋の先生に「今日は一日中熱心に聞いて下さってありがとうございました」とわざわざ声をかけていただいた。
その後は、岩崎くんんとフォーラムについていろいろ話をする。
夜も旅館で小笠原流の鍛錬を行った。
翌日も引き続き話し合い。技科大武道部や熊本高専空手道部への応用について意見交換をする。
話は尽きないが飛行機の時間があるので、出発。途中で霧島神宮に寄る。屋久杉資料館を堪能した後、遅い昼食。せっかくだからガイド誌に載っているお店に行く。
道に迷う。あるはずの所にない。
地図上はどうみてもあそこや。あの細い坂あがったところや。
でも先生、どう見てもあれ民家ですけど。
ええ? おお、「民家を開放した店」と書いてある。あそこや、あそこ。よかった。
細い坂道を上ってゆく。
ただの民家だった。
いくらなんでもいきなり突っ込んで行って庭でUターンする訳にもいかないので、車とほぼ同じ幅の坂道を、そのままバックで下る岩崎くん。
ごめんなさい。
そんなこんなでようやく見つけた。やっぱりガイドの地図が間違っていた。
お店を見てびっくり。やっぱり普通の民家である。でも今度は看板が出ているので間違いない。
「こんにちは」といって戸をあける。子どもの靴やらが脱ぎ散らかしてある。奥から話し声が聞こえる。とそのとき、
先生、こっちでした。
と後ろから岩崎くんの声。右手に別の入り口が。そこをあけるとその家の一室に直接入れるようになっていた。入ってから、「こんにちは」というと、奥から女性が出て来てくれた。
ということで、ようやく昼ご飯を食べることができた。とても美味しかった。
食後、空港まで送ってもらって、ちょっとお茶して、無事飛行機に乗って帰った。
岩崎くん、お疲れ様でした。
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こっちも異変が
- 2009-12-04 (金)
- 授業
1限の授業。村上春樹と同様、かなり減った。
ここ数年、同じテキスト、同じ方法でやっていて、このようなことは初めてである。3学期に増えることもあった。
私のテンションはむしろ上がっていたと思うのだが、授業の魅力がなくなったのだろうか。学生はやはり「単位がそろったからだ」だという。3学期の金曜1限(8時半~)がつらいということもあるだろう。
だがそんなことはどうでもいい。それより、この授業は1冊の本を1年かけて読んでいるのである。3学期とらなかった学生は、3分の2まで読んで、やめたことになる。
気持ち悪くないのか?
授業後は気を取り直して、バスに飛び乗って、いざ鹿児島へ。
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