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2010-04

今日の語録

 今日のnikkansports.comの野球の記事に、中日の落合監督のコメントが載っていた。先発投手に対するものである。

 コントロールが悪かったんじゃないか。四球はつきものだけど、どこで出すかだ。1人相撲ってやつじゃないか。良ければ勝てる、悪けりゃ負けるじゃダメだ。この世界で何年野球やってるんだ。[2010年4月28日7時24分 紙面から]

 「良ければ勝てる、悪けりゃ負けるじゃダメだ」。なんて当たり前で、奥の深い言葉でしょう。さすがプロフェッショナルです。悪い時にこそなんとか負けないように出来るのが、プロのキャリアなのだろう。それは、身体能力の問題ではなく、心法の問題である。
 そういえばイチロー選手は、「悪い時も、その時なりの100%を出す努力をする」と言っていた。羽生善治さんも、「有利なときも、不利なときも、最善手を指すだけです」と言っていた。
 まさしく武道の心法である。

 もう一つ、保田与重郎の蝶夢に関する論文を読んでいたら、こんな文章があった。

 人が何ごとを思ひ決した時に、蝶夢のしたやうな仕事が出来るのだらうか。

 いいですねえ。「何ごとを思ひ決した時に」この人がやったようなことが出来るのだろうか?その「心の誠」は何なのか。確かにそう思える魅力的な人間が存在するのである。
 保田はこう続けている。

かういふ人の心の誠や、おもひのつみ重ねやくりかへしを明らかにしてゆくことが、歴史の学びであり、文学の仕事でもある。(「蕉門と蝶夢」)。

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トラックボール、デビュー!

 トラックボールを購入。同僚が使っていて、ちょっと気になっていたのだが、マウスの調子が悪いので新しいマウスを購入しようと、サトル君にオススメモデルを問い合わせたとき、トラックボールのことも話題にした。そしてマウスとトラックボールの良さそうなものを紹介してくれたのである。

 いい。とてもいい。凄く気に入った。新しいもの好きなせいもあるかもしれないが、でも、いい。しばらく楽しめそう。

トラックボールは左手で操作している。右手にはペンタブレット。ちなみに真ん中のキーボードはRealforce(長らく使っていたHappy Hacking Lite2はXPマシンで使用中)。最強である。もちろん私は、ゲームもしないし、画を描くわけでもない。ほんとうはマウス1個あれば十分なことしかしない。

でも、いいわー、これ。

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巡り合いと即レス

 カンブリア宮殿は「理想の人材SP第二弾」。番組中で、日本マクドナルドの原田泳幸氏が社員にこういう話をしておられた。

 若いときにキャリアディベロップメントなんてあんまり考える必要はない。私のアドバイスは、日々、皆様の今の仕事、今の課題を期待以上にやり遂げる。これを繰り返していくと、キャリアは皆さんが作っていくのではない。世の中から巡り合いで、皆さんのところにキャリアがやってくるんです。

 人生とは「巡り合い」である。武道において、心身を開いて、常に即レス状態になっていることを説くのは、そうでないと、この「巡り合い」がうまく巡ってこないからである。あるいは、巡ってきてもそれに気付かず、逃してしまうからである。なぜそれが問題なのかというと、「巡り合い」にうまく同調できない武道家は、最終的に敗れてしまうからである。
 「今、ここに意識を集中して、やるべきことをきちんとやる」。それは、「即レス」、つまり余計なことをごちゃごちゃ頭で考えないで、開かれた心身で「今、ここ」に反応するということでもある。もちろん場当たり主義ではない。
 このあたりの感覚が、なかなか難しい。しかしこの感覚が分かってくると、「皆さんのところにキャリアがやってくるんです」という感覚が分かる。ここでは社員に向けて話されているのでキャリアの話であるが、実は私たちの人生において、ほとんど全てのものは「向こう」からやってくるのである。
 人間は欲望存在であるというのが、我が竹田師匠の欲望論である。そして欲望は「告げ知らされる」という形で、必ず「彼岸」(向こう)からやってくる。深い欲望であればあるほど、それは私の意識を越えて、向こうからやってくるのである。
 人やものとの出会いも一緒である。心身が開かれてさえいれば、つまり「即レス」できてさえいれば、出会うべき人とは出会い、出会うべきものとは出会える。一見主体性がないように見えて、それが真の主体性であるという逆説を、武道の心法は教えているのである。

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なんと、ひみつ箱が開いた

 前に書いた箱根の寄木細工のひみつ箱。12回で開くやつである。
 クリハラさんが挑戦。なんと開けてしまった。
 「こんなん知らんかったら絶対開けられへんで-」と言いながら僕が珈琲を入れている間に。さすがです。僕なんか説明書を見ながらでも苦労したのに。やはり人それぞれにいろんな才能があるのですね。

追伸)
これで、中の説明書を取り出すことが出来ました。よかった(^^)

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三十六特別講習会

 今日で4回目。
 今日は、開始前に、持って行った木刀を使って、イチローのバッティングを武道的に分析して見せた。ここ数日、『逆説の武道』の、イチローのところを書いていたので、それを実際の動きで試してみたのである。「少年野球ではこう習いました」などと続々と昔話が出て、結構盛り上がってしまった。
 武蔵が『五輪書』で説明していることと非常によく合うし、それ以外の点でも、やはりイチローのバッティングは非常に武道的である。
 今度の身体開発研究会で、ちょこっとそんな話もしようと構想中である。

 三十六手の講習自体は、いつもながらとても楽しい稽古ができた。とくにイワサキくんが初めてオープンマインドの意味が分かったようだ。元に戻らないことを願っている。

 もう一つ、クリタさんの怒り爆発事件もあった。私は見ていなかったが、あるメンバーが、謙虚さと丁寧さと感謝の心を失した振る舞いをしたようである。人間というのは、初めは特別な思いがあっても、知らず知らずのうちに慣れてしまって、それが当たり前だと思ってしまう。それを見逃さなかったのはさすがである。

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テクノロジーの進化と身体感覚

 1年生のオリエンテーション。
 まずは浜松のスズキ歴史館。「ゆっくり見ないと時間が余るほど時間をとってます」と聞いていたが、なんのなんの全く足りないほど面白かった。もっとゆっくり全ての説明映像を見たかった。また行こう。
 最初に見たのは、鈴木式織機。そこにあった映像で、織機の歴史が紹介されていた。地機(じばた)→高機(たかはた)→ちゃんから→足踏織機(あしぶみしょっき)ときて、鈴木式織機が登場する。その歴史は発明の歴史であり、画期的なテクノロジーの進化である。簡単に言えば、複雑なものも織れるようにもなり、生産性も上がり、操作も楽になった。しかしその映像を見ていて印象深かったのは、それに比例して、高度な身体感覚が失われていったということである。地機は、腰、足、手の微妙な操作を同時にやらないといけなかったが、新しい機械によって、だんだんそれが楽になってゆく。それ自体はいいことだが、身体感覚という点でいうと、だんだん退化していっているのである。
 それに比べると、車の普及が足腰を弱くしたなどといった体力的なことなんて大した問題ではない。補えるからである。もちろんそれは、車を使って短縮した時間によって失われた体力を補うために、時間とお金を使ってジムに通うというおかしなことにはなるのだが。
 しかし、身体感覚や身体操作は、「ちょっとジムに行って体力作り」、というのと訳が違う。一度失われたそれを取り戻すのは容易なことではないのである。
 テクノロジーの進化はよいことである。しかし、それと同時に、この失われつつある身体感覚と身体操作を伝承することもまた同時に大切なことである。特に新しい技術を創造してゆくことを使命としている本学の卒業生には、自分たちの技術によって何が得られ、何が失われるかをよくよく考えてほしいと思う。
 大分前になるが、画期的な質問システムを開発したと聞いたことがある。最近の学生はなかなか自分から質問をしない。馬鹿にされないかとか、冷たくあしらわれたらどうしよう、とかいろいろな心理的プレシャーがあるのだろう。しかし、メールを使えばそのハードルがかなり低くなる。だから誰でも授業中にメールで質問でき、それが他の学生にも有効な質問だと教師が判断すれば、瞬時に教室のスクリーンに映すことができるシステムなのだ。これで「誰でも簡単に質問ができます。」まさに画期的である。
 しかしこのシステムによっては決して教えることができない大切なことがある。それは、「質問とは、諸々の心理的ハードルを乗り越えてするものである」ということである。質問は、質問者によって発する前に鍛えられなければならない。今それを聞いていいのかどうか、この人に聞いていいのかどうか、どういう聞き方をすればいいのか、その質問をして馬鹿にされないか、などなどの心理的プレッシャーを乗り越えて質問は発せられるものである。本当に自分に必要だと思い、知りたいと思ったら、自らそのハードルを越えてきなさい、そういうハードルが必要なのではないだろうか。そういうハードルを自ら越える力を養成することは、大切な教育である。
 もちろん私は、このシステムが画期的でないと言っている訳ではない。逆である。画期的であればあるほど、それを使う人の見識が試されてしまうと言っているだけである。
 最初のハードルを低く設定して、徐々に上げてゆくということは有効である場合が多い。小さい成功体験の蓄積が非常に重要であることは、私もしばしば説いている。その意味で、このシステムもうまく使えば非常に有効だと思う。しかしそれだけに、使う人の教育観が試されている、非常に恐ろしいシステムなのである。そんなことを思いだした。
 それはさておき、各所に設置された映像は、どれも、スズキの方々が、情熱と工夫と技術によって、次々に新しいチャレンジをし、新しいものを生み出してゆくドラマがコンパクトにまとめられていて、素晴らしかった。最初にも書いたが、もっと見たかった。

 さて、その後は再びバスにのって中田島砂丘へ。各クラスで昼食をとり、自己紹介などをして、砂丘散策。砂丘を疾走するスズキの車。
って、これ歴史館でもらったミニカーです。
そんなことをして遊んで、3時半頃、無事大学到着。
CIMG6224.JPG


 その後尚志館へ。新しい技の感覚を試してみる。かなりいいみたいなので、さらに磨くことにしよう。

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カーリル

 カーリルというサイトが各所で話題になっているそうな。全然しらなかった。公共図書館の蔵書が横断検索できるという実に有り難いサイトである。
http://calil.jp/

 それ以外にもいろいろなサービスがついている。遊び心もあって、楽しい。
 検索結果が気になって、ついつい持ってる本まで検索してしまった。

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技術者が武道を修行することの意味

 以前も書いたが、

を武道部員と方寸塾・寺子屋メンバーに紹介した。高度な技術者を目指す技科大生と、会社でさらに能力を高め発揮しようとしているメンバーである。
 武道家と技術者は必要とされるものが非常に似ている。どちらも芸事であるから当然だろう。
 一つは、愛があること。本書で、職人に愛が必要であることが繰り返し説かれているが、その通りだと思う。愛がない技術者が、超一流であるはずがないと私も思う。そしてまた、一般にはそう思われていないかもしれないが、武道も愛がなければ上達しないのである。
「技術よりも人間性が大事」と秋山さんは書いておられるが、武道の技術も全く同じである。「人間性」がなければ、ある程度のところまでは行っても、所詮はある程度までであり、しかも決して長続きしない。超一流の技術を身につけようとすれば、そしてそれを維持・発展させようとすれば、「人間性」が不可欠である。例えば、謙虚さ、感謝の心が、技術が高まるにつれて育ってくるのも、優れた人間性あってのことである。
 とりあえず必要なのは、愛、謙虚さ、感謝の心、開いた心、感じる心(感性)、素直な心、気遣いといったところか。これを私は、「コミュニケーション能力」とか、「人間力」とか呼んでいるのである。
 一流になりたければ人間的に成長せよ、と秋山さんは書いておられるが、同様のことを、これも前に紹介した北島康介選手のコーチ、平井伯昌さんも書いておられたし、痛くない注射ばりの岡野雅行さんも書いておられる。というより、おそらく超一流の職人さんは、みんなそう考えておられるはずだ。岡野さんも、直接はお会いしたことはないけれども、非常に明るくパワフルであり、開かれた心を持っておられると思う。

 心が一流なら、必ず技術も一流になります。84

 二つめは、「継続は力なり」である。職人も武道家も、続けた者勝ちである。そして、器用な人より、不器用な人の方が長続きする。「地道な反復練習ができる人間なら、はじめは腕が悪くても、あとで必ず伸びる」と秋山さんは書いておられる。鵤工舎の小川三夫さんに教えて頂いた上達曲線も同じであるし、その小川さんから頂いた私の座右の銘は「不器用の一心」である。武道における私の経験でも全く同じである。

 謙虚に、ひたむきにやり続ける才能。84

 三つめは、「成長したければ、馬鹿になる」。木村秋則さんも、「馬鹿になればいいんだよ」と書いておられる。しかしこれはなかなか難しい。ここでいう馬鹿とは、自分の理屈で判断しない、自分の固定観念に囚われないということである。職人の世界もそうだと思うが、武道の世界は、それまでの普通の価値観や理屈は通用しない世界である。心も体も、一からその原理を根本的に変更しなければならない。そのとき、それまで自分が持っていた固定観念や価値観が一番邪魔になるのである。それを入門の段階、すなわち修行すると覚悟した段階で、きっぱりと捨てられるかどうかが肝要である。今までの自分はここでは通用しない、という自覚からしか修行は始まらないからである。秋山さんのところでは、入社したら男も女も全員丸ぼうずというのも、その覚悟を求めてのことなのである。

 四つめは、細かいことを大切に心を込めてやること。武道では、道場の稽古だけではなく、日常生活そのものが修行であると考えるが、職人さんも同じであるようだ。細かいことこそ大きなことであると心の底から思えるようになれば、武道はかなり上達するのである。
 
 どうしたら失礼がないか、何をしたら喜ばれるかーをいつも考えるようにすることで、自然に「人を感動させる心」が養われます。201

 もちろん仕事で、細かいこと(と自分が勝手に思い込んでいること)を、いい加減にしたら大変である。見本より2㎜太くして作るように指示されたにも関わらず、見本のままのサイズで作ってしまった丁稚を秋山さんは烈火の如く叱ったそうだ。

  なんでちゃんとサイズを確認しないんだ!そんな凡ミスをするというのは、心のなかで『たった2ミリの差だ』と思っているからだ!そんな考えは許さない!たった2ミリのことにこだわるのが職人なんだ!
 そして、注文品の材料代の半分を給料から差し引くことにして、「親に手紙を書いて、この事態を説明しろ!」と言いました。72

五つめは、人に感動を与えること。

 職人というのは、人に感動を与える仕事だと思いっています。
人を恨んでいるままでは、職人にはさせられません。179

 これが武道と何の関係があるか。実は大いにある。極められた武道の技は、見る人を感動させるのである。とても美しい。他人に見せるための、大げさな動きではない。他人に勝つための技術でもない。武道はもと武術であり、敵を殺す技術であるという人も多い。それはそれでかまわないけれども、武道の究極の境地は、それを突き抜けた境地である。つまり、自分も敵もない境地である。「無」とか「無我」とか言われる。これは哲学的な意味でもそうであり、技術的な意味でもそうである。決して抽象的なものではない。一個の技をかける技術としても必要であり、生きる技術としても必要な、具体的な技術である。
 小我に囚われている人は決して真に強くなれない。真に強くなった人は、他者に勝つなどということはどうでもいいことである。そういう境地に至った人の技こそが、非常に効くという逆説が武道にはある。そしてその動きは、とてつもなく美しく、人を感動させるのである。人を恨んだままの武道家は、決してその境地にたどり着くことは出来ない。

 もちろん私はまだ辿り着いていないが、武道の達人と言われる人は、皆共通していると思う。

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新年度

 4月1日になると、学内の空気が前日とは一変する。1日は特に何も行事はないのであるが、それでもなぜか年度初めの空気になり、何となく慌ただしくなる。忙しさは昨日と一緒であるのに、ね。
 明日5日は、入学式。明日から本格的にガイダンス、そして授業が始まる。今度は、慌ただしさというよりは、賑やかになる。しかも雑多な賑やかさである。そして僕たちは、本当に時間に追われる。きちんと準備はしてあるのに、ね。

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