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2010-03

ひみつ箱

 買って帰った12回ひみつ箱。開け方の説明書を見ながら開けてみた。開いた。閉じるときは逆に。えっ?閉じられない。なんで?順番通りにやってるのに……  てな具合で、いじくり回してるうちに、何とかマスターできた。しかしまあよくこんなものが作れるものだとただただ関心するばかりである。僕には絶対無理です。作るどころか、開け閉めができないのだから。
 さてさてこのひみつ箱。何を入れようかな?大切なものをいれよーっと。と考えているうちに、

 わーっ!! 開け方の説明書入れて閉じてもた。

 もちろんもうマスターしたから焦る必要など全くないのである。と思う。

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愛しあってるかい!

 『愛しあってるかい』といっても、清志郎ではなく、野島伸司脚本、陣内孝則、小泉今日子、和久井映見、柳葉敏郎ら豪華出演者によるあの伝説の学園ドラマである。
 その『愛しあってるかい』がDVDで発売されていると教えてもらい、即注文して、見た。もちろんリアルタイムで見ていたし、再放送も見たが、また見たいとずっと思っていた。前に随分探したのであるが、結局DVDは出ていないことが分かり、DVD化は難しいという情報もあったので、半ば諦めていた。それが見られて、本当に嬉ピー! って、出てから大分たっているではないか。全然知らなかった。
 このドラマ、野島さんはどう思っているのだろう。勝手な推測だけど、書いた直後からしばらくは嫌だったのではないかと思う。しかしもう大分時間がたったし、年齢も重ねられたので、今はむしろ微笑んで受け入れられているのではないかなあ。何度も言うが、全くの勝手な推測なので、間違ってたらすみません。

 それはともかく、久しぶりに見て、すっかり一平ちゃんモードになってしまった私は、この前尚志館の後みんなでご飯を食べに行ったとき、ついオーバーアクションで喋りまくっていたら、めずらしくクリハラさんが大笑いしてくれた。

 先生、それはやり過ぎですよ

 と笑いながら注意されてしまったくらいだ。心を開いて愛し合ってる人のパワーはものすごいのである。

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星の王子さまと大雪

 28日、星の王子さまミュージアムに行く。今年度の国文学で、複数の学生がサン=テグジュペリの『人間の大地』をお薦めしていた。そのうちの一人は、最後の授業で、

 『人間の大地』は本当に良い本だと思った。しかし自分のプレゼンは、その良さを十分に伝えられなかったのではないかと思う。どうすれば上手く伝えられるかが分からなかった。その後、別の本のプレゼンをして、他の人のも聞いて、今ならまた別のやり方でプレゼンすると思う。

 と語った。非常に嬉しい感想だった。そのサン=テグジュペリのミュージアムである。あの学生のプレゼンと感想がなかったら多分行かなかったと思う。感謝である。

 29日は、大雪。
寄木細工のお店で、実演しながら解説をして頂いた。作っている所を初めて見たのでとても面白かった。特にからくり箱をいろいろ見せて頂いたが、よく出来ていて、びっくりである。これらを作れる職人さんが減っていることがとても心配である。サイコロのも欲しかったが、今回は12回で開ける小さい箱を購入した。
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実行

 武道部の現部長は創部以来初の留学生である。非常にしっかりしている学生で、この前懇親会で会った学生課の課長も、非常に褒めてくれていた。
 先日、審査の打ち上げの時、部員に

を紹介した。
 徒弟制度を行っている会社の話であるが、挨拶やホウレンソウや心を開くこと、明るくすること、人の話をきちんと聞くことなど、普段武道部で大切にしていることが沢山出てくる。そしてそれを徹底して実行されている様子が描かれており、自分の甘さを反省させられた。ぜひ部員にも読んでほしい、そして頑張って修行しようという話をした。
 一週間ほどして部長に読んだかどうかを確認したら、読んでいないという。2、3日して研究室に来た彼女は、「聞かれた時にマズイと思ってすぐ注文して買った。今読んでいる途中です。会社だったら私はクビです」と言った。すぐ買わなかったのは、まだ読んでいない本がたまっていたからだという。そしてしばらく話をした後に、「先生、ここに『実行』と書いてくれませんか」と言って、表紙を開いた。「ここは普通著者がサインするところなんだけど」と言いながら、ご要望にお応えした。著者の秋山さんには大変失礼なことを致しました。
 私は人並み外れた悪筆である。それでも誠心誠意書いた。筆で。これから即レスで実行できる人間になって欲しいという思いを込めて。そして自戒を込めて。

 私は彼女を部長にして正解だったと思った。もちろんこれからも彼女の部長修行はまだまだ続く。しかしきっとやり遂げてくれるだろうと信じている。
 その部長のもと、いよいよ2010年度バージョンの武道部が始動する。2010年度バージョンの武道部は、今までとはちょっと違う武道部になるはずだ。

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チャリ

 卒業生がチャリを捨てるというからもらった。彼女の家は、私の家から歩いて5分ほどである。今日が引っ越しということで、昨晩取りに行った。
 早速今日はチャリ出勤。どの道から行っても、大学までは上り坂がある。しんどかった。彼女は毎日これで通学していたのか、と思うと、ちょっと尊敬した。帰りは下り坂であるが、それでも徹夜明けに大学から帰るのはしんどかったに違いない。よく頑張ったね。
 私も負けてられない。もう少し暑くなったら汗だくになってしまう。それでは授業に差し支える。今しかない。

 時を逃すな!

とは最近学生によく言っていることである。

 これを機に運動しよーっと。

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第13回黒帯の稽古会

3月20日から22日まで第13回黒帯の稽古会。
今回の稽古会は至福の時を過ごすことができた。いつも黒帯の稽古会はとても楽しいのであるが、今回はまた格別だった。稽古会自体がフロー状態に入っており、みんな楽しく、かつ技がばんばんきまり、流れている時間はゆったりしているのに、稽古会自体は、気がついたら終了時間になっていた。ほんとうにあっという間の3日間だった。もちろん一時は技ができなくて泣いていた人もいたが、終わってみればそれを含めてみんな至福の時を過ごすことができたのである。
自然の中で、川のせせらぎとウグイスの声を聞きながら、さまざまなパワーをもらった稽古会だった。みな感謝の気持ちで一杯になったに違いない。私もまた、傲慢になってはいけないと心から思った稽古会だった。

今回のテーマは、「肘の使い方」。前回のテーマ候補に挙がったが、1日では無理なので、お泊まり稽古会の時にやろうということになった。お泊まり稽古会は、毎年1回あるが、昨年はアラカワくんの結婚式でほぼ全員が北海道に行ったので、2年ぶりのお泊まり稽古会である。
1日目は、12時45分現地集合。なんと高速道路が大渋滞しており、何人かはぎりぎりでの到着となった。あれだけの渋滞でもみな間に合ったのはさすがである(一人だけ記念写真撮影中に到着。ギリギリセーフ)。
そんなこんなで、予定通り1時から無事稽古会が始まった。1日目は、受けの肘の使い方。いきなり試験をする。

中段横受けの肘の使い方を簡潔に述べよ。

全員正解。かつ不正解。今まで教えてきたことを全員きちんと書いていたので正解である。しかしそれは今までの話。今日からはそれは間違いです。

今まで教えてきたことはウソでした! がはははは!

ということで、中段横受けから順に解説し、皆で稽古した。もちろんほんとうにウソを教えてきた訳ではない。次のステージの受けをするためには、それまでのやり方を全て忘れて、違うやり方が必要なのである。しかしいきなりそのステージの受けはできないので、その段階に至るまでのプレステージで必要なことをこれまで指導してきたのだ。したがって、これまできちんとそれを稽古してきた人は、それまでと全く違う原理の動きであるにも拘わらず、スムーズに移行できる。身体とその感覚がきちんと出来ているからだ。それともうひとつ、基本が出来ている人は、心構えもできているからである。

えーっ?今まで習っていたのと全然違うやないですか!

などと誰も文句を言わない。そんなことに拘る人は、ここにはいない。「こうですよ」というと「こうですか」とやってみる。基本が出来ている人ほど素直なのである。だからすぐに出来るようになる。さらに5段くらいになると、「そこでもうちょっと三戦の締めを使って」などと一言いうと、「ああこういうことですね」とすぐに出来るから面白い。剛柔流空手は、そのような稽古システムを持っているのである。
2日めの午前中は、子どもたちのバスケと体育館を半分こ。空手衣を着ているにも拘わらず、エイ!とかヤー!とか一切やらず、触れるか触れないかで投げたり、繋がって歩いたりして、とても幸せそうにしていた私たちを、彼らはどう思っただろう。きっと変な団体だと思ったに違いない。まあいいか。
午後は、突きにおける肘の使い方。合わせて膝の使い方も稽古する。これまた驚くほどみんな上手くなった。一番驚いたのは、スズキくんを、クリハラさんが一本背負で投げたことである。ふとみたら、スズキくん、既に宙に浮いていて一回転してました。いやー、びっくりしたあ。って、なんで空手の稽古で一本背負をしているのか?もちろん空手の肘の使い方をマスターするためである(だから柔道でいう正式な一本背負ではない)。
やはり心構えが出来ていて、基本をきちんと稽古していて、志が同じ人と一緒に稽古するのは、とても楽しいし、私自身も成長することができる。今回も、「技を受けた感覚が、今までと全く違っていた」と褒めてもらいました。

そんな訳で、全員が、稽古中に自分の技が変化してゆくのを体感した。そして自分の身体自身とその動きの原理が変化するのを感じながら稽古ができた。だから凄く幸福感が漂った稽古会となったのである。
3日めは、恒例の観光。これまた楽しかったです。昼食を食べて、お茶を飲んで解散。
稽古場所といい、宿泊施設といい、ご飯といい、全て最高でした。幹事さんの尽力に感謝です。
食事で唯一失敗したのは、3日めの昼食。これは幹事ではなく私がここにしようと言った店である。うどんを食べるつもりだったのだが、席に着いたら、

 先生、うどんは、300メートル先の系列店みたいですよ。ここにはないそうです。
 ええーっ?

ということで鰻を食べました。でも美味しかったのでよかったです。だから失敗ではありません。その後の喫茶店も私が行きたいと言った店でしたが、雰囲気も味もとてもいいお店でした。

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恐るべし、小林秀雄

 小林秀雄の「私の人生観」を思い出してさっと読み直した。びっくりである。第2回寺子屋で話したことがたくさん出てくる。若い頃大好きで、講演のCDも時々車で聞いている(実はもうほとんど全て覚えている)小林秀雄であるが、「私の人生観」は長らく読み返していなかった。
 第2回寺子屋でカトウさんが、「先生方の形や技をよく見ようと思って頑張って見るけれども、いくら見てもよく分からないんですけど」と質問した。

 よく見ようとするから見えないんですよ。武道は「ぼーっと見る」んです。

 そう言って、武蔵の「観の目」「見の目」の話をした。それについて小林秀雄はこう書いている。

 武蔵は、見るということについて、観見二つの見ようがあるということを言っている。(略)観の目強く、見の目弱くみるべし、と言っております。見の目とは、彼に言わせれば常の目、普通の目の働きかたである。敵の動きがああだとかこうだとか分析的に知的に合点する目であるが、もう一つ相手の存在を全体的に直覚する目がある。「目の玉を動かさず、うらやかに見る」目がある、そういう目は、「敵合近づくとも、いか程も遠く見る目」だと言うのです。「意は目に付き、心は付かざるもの也」、常の目は見ようとするが、見ようとしない心にも目はあるのである。言わば心眼です。(角川文庫P113)

 そしてこう続ける。

 見ようとする意が目を曇らせる。だから見の目を弱く観の目を強くせよという。

 よく見ようとすればするほど、その「意」(意識、欲望)が目を曇らせる、だから、「ぼーっと見る」のである。空手には形があるが、形の目付は、「敵合近づくとも、いか程も遠く見る目」である。敵が近くにいるのに、なぜ「いか程も遠く見る目」なのか。ここに人間の心身の秘密がある。
 この「ぼーっと見る」ことは、何も武道に限ったことではない。超一流の野球選手も、ボールを凝視することなどないはずだ。私の少年時代は、「ボールをよく見ろ」と教えられた。これはウソである。ウソと言って悪ければ、「よく見る」方法と一緒に教えなければ、返って害となる。
 それはさておき、その武蔵の観法が、

 我事(わがこと)において後悔せず(112)

であると小林はいう。その解説はこうである。

 自己批判だとか自己精算だとかいうものは、皆嘘の皮であると、武蔵は言っているのだ。(略)そういう小賢しい方法は、むしろ自己欺瞞に導かれる道だと言えよう、そういう意味合いがあると私は思う。昨日のことを後悔したければ、後悔するがよい、いずれ今日のことを後悔しなければならなぬ明日がやって来るだろう。その日その日が自己批判に暮れるような道をどこまで歩いても、批判する主体の姿に出会うことはない。別な道がきっとあるのだ、自分という本体に出会う道があるのだ、後悔などというおめでたい手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、そういう確信を武蔵は語っているのである。
 ごちゃごちゃ頭で考えたり、反省したり、後悔したり、ああ自分は駄目だ駄目だと思ったり。そういう「小賢しい方法」では決して出来るようにはならない。また、そういう人の目は曇っている。

 本当に知るとは、行なうことだ(101)

 「阿含経」にこういう話があると小林は紹介している。

 ある人が釈迦に、この世は無常であるか、常住であるか、有限であるか、無限であるか、生命とは何か、肉体とは何か、そういう形而上学的問題をいろいろ持ち出して解答を迫ったところが、釈迦は、そういう質問には自分は答えない、お前は毒矢に当たっているのに、医者に毒矢の本質について解答を求める負傷者のようなものだ。どんな解答が与えられるにせよ、それはお前の苦しみと死とには何の関係もないことだ。自分は毒矢を抜くことを教えるだけである、そう答えた。(101)

 ところで小林は、「私の人生観」を「観」の考察から始めている。「観」は仏教思想であるとして、次のように述べる。

 観というのは見るという意味であるが、そこいらのものが、電車だとか、犬ころだとか、そんなものがやたらに見えたところで仕方がない、極楽浄土が見えて来なければいけない。(88)

 仏教でいう観法とは単なる認識論ではないのでありまして、人間の深い認識では、考えることと見ることが同じにならねばならぬ、そういう身心(ママ)相応した認識に達するためには、また身心相応した工夫を要する。そういう工夫を観法というと解してよかろうかと思われます。(89)

 そしてその観法は、画家にも詩人にも通じるとし、次のように述べる。

 西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、その貫道するものは一なり、と芭蕉は言っているが、彼の言う風雅とは、空観だと考えてもよろしいでしょう。(104)

 空観とは、真理に関する方法ではなく、真如を得る道なのである。現実をさまざまに限定するさまざまな理解を空しくして、はじめて、現実そのものと共感共鳴することができるとする修練なのである(105)。

 やっぱり小林秀雄はいいですね。私が、「囚われず、偏らず、心身を開いて「空」にし、即レスする」と言っているのは、まさしくこの事なのであり、その日々の営みが「観の目」であり、「我事において後悔せず」なのである。さらに驚くのは、「脇道」として語られている話である。

 先日、ロンドンのオリンピックを撮った映画を見ていたが、そのなかに、競技する選手たちの顔が大きく映し出される場面がたくさん出て来たが、私は非常に強い印象を受けた。カメラを意識して愛嬌笑いをしている女流選手の顔が、砲丸を肩に乗せて構えると、突如として聖者のような顔に変わります。どの選手の顔も行動を起こすや、一種異様な美しい表情を現わす。むろん人によりいろいろな表情だが、闘志というようなものは、どの顔にも少しも現われておらぬことを、私は確かめた。闘志などという低級なものでは、とうてい遂行し得ない仕事を遂行する顔である。相手に向かうのではない。そんなものはすでに消えている。緊迫した自己の世界にどこまでもはいって行こうとする顔である。この映画の初めに、私たちは戦う、しかし制服はしない、という文句が出て来たが、その真意を理解したのは選手たちだけでしょう。選手は、自分の砲丸と戦う、自分の肉体と戦う、自分の邪念と戦う、そしてついに制服する、自己を。かようなことを選手に教えたものは言葉ではない。およそ組織化を許されぬ砲丸を投げるという手仕事である。芸であります。(122)

 「闘志などという低級なもの」はなく、相手も「すでに消えている」。ここで語られているのは、最高のパフォーマンスを発揮する超一流のアスリートの境地であるが、実はこれは武道の極意というべきものでもある。というより、諸芸の極意であり、日常生活(人生)の極意であるといっていいだろう。私の言っている、「囚われず、偏らず、心身を開いて「空」にし、即レスする」というのもこれに他ならない。

 ところで、メンバーの1人から「先生、最近だいぶ変わられましたね」と言われた。自分ではあまり気づいていなかったのだけれど、たぶんそうなのだと思う。「囚われず、偏らず、心身を開いて「空」にし、即レス」できていると思われる具体的な出来事がたくさん起こるようになったからである。
 志の通じる人と一緒に修行することの意味は、師と弟子が一方通行ではないということである。弟子がその時師を求めるように、師もまた弟子を求める。お互いに刺激を受け、新しい境地が開拓される。芭蕉と蕉門の弟子たちを見ているとそのことがとてもよく分かる。芭蕉も、それぞれの時を得て、必要なお弟子を求め、出会うことによって、芭蕉になり得たのである。
 芭蕉と一緒にするのは烏滸がましいが、私もまた寺子屋で学んでいる1人なのである。

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寺子屋について

 このブログでも何度も書いているが、昨年から寺子屋という活動を始めた。既に2回開催し、第1回は21名、第2回は24名が出席してくれた。社会人も学生も、当日やむを得ず欠席した人も含めて、皆が真剣に取り組んでくれて、大変すばらしい活動になっている。ほんとうに嬉しいことである。
 寺子屋は基本的に武道の話が中心であるが、それを通して仕事や研究、勉強、日常生活の基盤となる心身を学ぼうというものである。課題図書を読んだり、私が講義したりした上で、ディスカッションをする。
 寺子屋で私が語っているのは、客観的に実証されている「事実」ではない。いわば私の「主観的な真実」である。名物コーナーとなりつつある「こんな奴いらん」では、メンバーの具体的な行動を取り上げ、「こんな奴いらん」と断定する。当然、自分はそうは思わないという反論がありえる。しかし、私は、自分が修行している武道と、そこで目指している価値観から、「こんな奴いらん」と断定するのである。そこからディスカッションは始まる。お互いが他者にさらされることによって、自分の志や価値観を鍛えてゆくのである。もちろんその中で、最低限の価値観を共有できなければ、一緒に修行はできない。

 先師一代、志の通ぜぬ人と俳諧せず。

 李由・許六『宇陀法師』にあり、蝶夢の『蕉門俳諧語録』にも引かれている言葉である。「先師」とはもちろん芭蕉のこと。
 芭蕉の俳諧同様、私の武道も、志の通ぜぬ人とは一緒に修行できない。だから、私は、私の志と価値観を、メンバーに問う(メンバーも私や他のメンバーに問う)。それが受け入れられれば寺子屋は続くし、誰にも受け入れられなくなれば、閉じるまでである。だからこそ、多くのメンバーが熱心に取り組んでくれることがとても嬉しい。
 また、寺子屋は「お勉強」の場ではない。ここには「事実」や「正解」を誰も与えてはくれないからである。私や他のメンバーが提示したそれぞれの価値観を、自分の身を以て吟味し、それがよいと思えば「決断」、「即その場で」実践する。
 後日の感想を読んでいると、「早速仕事で試している」とか、「日常生活でチャレンジしている」というものが多い。非常に嬉しいことである。しかしその一方で、「頭では分かっているのだが」とか、「今まで長年これで生きてきたので」という「我」を見せる者もいる。しかしそんなことをいっているうちは、断定も決断もできないのである。30年かかって蓄積されたものを壊すのに、何も30年必要な訳ではない。ごちゃごちゃ自分に言い訳する暇があったら、「即レス」するに如くはなし、である。

 囚われず、偏らず、心身を開いて「空」にし、即レスする。

 これが寺子屋で大切にしていることである。たったこれだけであるが、非常に難しい。でも私は難しいと思わないし、もちろん悩まない。いつでもその時その場でチャレンジし続けるだけだからだ。失敗してもうまくいっても、ただただ実践し続けるだけなのである。
 ここまで書いて、小林秀雄の「私の人生観」を思い出した。ちょっと長くなりそうなので、続きはまた明日。

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学生との飲み会

 日本語学の受講生の飲み会があった。一般科目の選択科目の受講生主催で飲み会があるのは、私の授業では初めてである。どうしても都合がつかなかった1名を除いて、全員参加である。とても嬉しい。しかも武道部の飲み会ではないので、私もキャラがまったく違う。非常に楽しませてもらった。
 話していてよく分かったのは、みなとても純粋であるということだ。その純粋さを失わないように、頑張ってこれからも生きてほしいと思う。
 またこのメンバーで集まるときは、誘ってね。

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日本語コミュニケーション連携P

 8日、9日と高専連携教育研究プロジェクト「技術者教育における日本語コミュニケーション能力向上メソッドの開発とデータベース化」の第2回全体会議を行った。今回は豊橋駅前サテライト・オフィス。なんとまたまた元武道部部長ウノさんのバイト日だった。こういうことってあるのね。まあ5分の1の確率ですが、それが2回続くとは(ということは25分の1?)。
 今回は、特別参加の岩崎先生(熊本高専)が、現代GPにおけるコミュニケーション教育の取り組みを紹介してくれた。非常に面白く、ディスカッションも盛り上がった。その後は、各メンバーの報告とディスカッション。新メンバー3人の取り組みを詳しく聞くのは今回が初めてである。率直な感想は、「スゲー!」である。こういう教育が高専全体で行われたら理想的だと思える実践ばかりであった。
 その上で、今回の一番の収穫は、各メンバーが自分の取り組みの位置づけと意義が再確認できたことではないだろうか。それぞれが個々に取り組んでいるので、ややもすると、それが技術者教育全体の中でどのように位置づけられ、意義があるのかがよく分からなくなってしまいかねない。そして日々試行錯誤を重ね、時間に追われて実践しているので、自分で自分の実践を振り返り、その意義を考えることが少なくなってしまう。それが再確認できたのはとてもよかった。
 自分の取り組みを他のメンバーに意義づけてもらったり、的確なアドバイスをもらったり、また他のメンバーの発表から有益なヒントやすぐ使える技をもらったりと、ディスカッションは本当に楽しい。だからみんな時間がたつにつれて元気になって、嬉々として帰って行かれたように思う。御礼メールを読んでも、全員ますます意欲が湧いてきたようだ。
 私のこのプロジェクトの目的は、個々で様々な実践をされておられる先生方が、お互いにそれを共有することである。岩崎先生のように専門教育において実施されている取り組みと、私たちが一般科目(教養教育)で行っている取り組みが連携できれば、お互いによい効果が得られるはずである。それぞれの高専間や、高専と技科大、また企業の方、あるいは一般高校の先生など、コミュニケーション教育に携わっている方との連携(といっても要は情報交換とディスカッション)ができれば、とても素晴らしいと思う。私がやっている二つの連携プロジェクトはその点でも共通している。
 基本は個々の取り組みである。それを各自が実践し、年に二回集まって報告会をする。。そこでかなり突っ込んだ熱いディスカッションを行い、自分のやっていることの意義を再確認し、新しいヒントと元気をもらって帰るのである。それだけだ。このプロジェクトのためだけの新たな負担は全くといっていいほどない。だから続くのだと思う。

 高専の先生は、近々、来年度の連携プロジェクトが公募されます。現在行っているプロジェクトは、二つとも提案課題として出しますので、ぜひご応募下さい。
 また、高専以外の先生や企業などでコミュニケーション教育、人間力養成の取り組みをされておられる方は、プロジェクトのHPに掲載されている連絡先まで、ぜひご一報下さい。熱く語りましょう!

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