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最近よくあること
最近よくあること。
あの人に用事があるので連絡しなければ、と思っていると、ばったり合う。
これは、もうだいぶ前からよくあることである。今日も学内のある先生に用事があって、メールしようか、電話しようか、直接お部屋にお伺いしようかと考えていた。大学に行く途中、ふと思いついて寄り道をして東駐車場についたら、その先生も丁度車から降りられるところであった。よかった。
新しい知り合いと出会ったとき、共通の知り合いがいる。
興味や関心、生き方に従って他者と出会ってゆくと、同じような人との繋がりができてくるのだろう。それほど行動範囲が広い訳でもないし。
ある人と出会わせてくれるために、媒介役が現れる。
ある人を紹介してもらう。その後その方と懇意になり、濃厚な関係になる。紹介して下さった方とは、それほどでもなくなる。こういうこともままあることである。
人生は不思議なことが多いが、あるがままである。そしてこのような感度を上げるのが武道の修行であると思う。合掌~(^人^)
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懇親会
6日。これで終わりです。
懇親会。
乾杯~!
北京ダックです
太極スープ???
gahahaとyamahaに囲まれて
最後に集合写真
しかし、熱い議論はまだまだ続きます。
私たちはいつまででも喋ります。
理想を追い求めて。
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徹底討論!! 「理想のコミュニケーション教育とは何か」
まだ6日の続き。
午後からは 徹底討論!! 「理想のコミュニケーション教育とは何か」。
午後の仕切り(ファシリテーターというのだそうです)は、沼津高専の大石加奈子先生。
真面目な議論あり。
その中に笑いあり。
コミュニケーションについての討論でこの笑顔!!
さすがファシリテーター
2時間の徹底討論、あっと言う間に終了。
この後は懇親会へ。
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シンポジウム「技術者の話はなぜ通じないのか」第二部
6日。続き。
シンポジウム「技術者の話はなぜ通じないのか」第二部。
第二部は学生ぬきでディスカッション。
第二部も約90分間、濃いディスカッションが繰り広げられました。
その後は、学生を交えての昼食会。
それぞれのテーブルで、いろいろな話で盛り上がっていました。
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シンポジウム「技術者の話はなぜ通じないのか」第一部
6日。
今日は日本語コミュニケーションデー。
「技術者のための日本語コミュニケーション教育研究会」キックオフシンポジウム・ 高専連携教育研究プロジェクト「日本語コミュニケーション能力」養成プロジェクト事業
(1)-1シンポジウム 「技術者の話はなぜ通じないのか?」第一部
(1)-2シンポジウム 「技術者の話はなぜ通じないのか?」第二部(2) 昼食会(12:10~13:00 ひばりラウンジ)
(3) 徹底討論!! 「理想のコミュニケーション教育とは何か」
パネラーとしてヤマハ株式会社から堀池彰夫氏、Z会(国語力研究所)から堀池香苗氏をお迎えし、高専からも日本語コミュニケーション養成プロジェクトメンバーが集結した。また、武道部卒業生も数名、在学生120名程が参加した。
たくさん集まって下さいました
みなさん熱心に聞いて下さっています
こちらの方々も
パネラーの堀池彰夫氏
パネラーの堀池香苗氏
司会の井上次夫氏
パネラーのわたくし
はげしい議論の応酬
盛り上がってきました
会場が笑顔に包まれて
会場が一体となって
思わず立ち上がるパネラーたち
なんだかんだいって、私が一番楽しそう!
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Z会へ
そびえ立つビル。
こっ、この存在感は…。
Z会!
最近はZ-KAI。
Z会といえば、私が学生時代の憧れの存在。難易度も超高い上、ぐーたらな私にはとてもあのペースにはついていけなかった、スーパー通信添削である。その私がまさかZ会のビルに足を踏み入れるとは。
何しにきた。
と言われず、入れて頂いた。
実は、今日はここにお招き頂いて、お話をしに来たのである。題して「理系学生のコミュニケーション能力の問題点」。
話を聞いて下さったのは、国語担当の方を中心とした方々だったそうだ。普段学生たちには、「理解できない」「言っていることがおかしい」「むかつく」などと反発されているような内容が、ここではごく当たり前のこととして受け入れられる。むしろ当たり前過ぎて新鮮味がなかったかも知れない。一体これから私は、誰に向かって、どう話せばいいの?とちょっと考えてしまった。まあ、ここはホーム、普段はアウェーといったところだろう。
それはそれとして、その後の食事会も含めて、いろいろとお話ができた。ほとんど私の感覚と共通していてとても楽しかった。裏方の苦労話も聞かせて頂いたし、担当の方がとてもよく考えを練っておられることもよく分かった。
さて、明日からまたアウェー戦である。
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男女交際が日本を救う
5月10日に開催された、東京工業大学リベラルアーツセンター設置記念講演「現代における“教養”とは」の記事が日経ビジネスONLINE紹介されている。桑子敏雄氏、上田紀行氏、池上彰氏によるものである。
これは面白い。
2012年6月11日「日本の大学に、『教養』を取り戻そう」
2012年6月19日「頭がいいけど『世間』に弱い」理系の大学生
2012年6月25日「教養を学ぶにはどうすればいい? 3教授が答えます」
無料とはいえ、会員登録しないと全文は読めないサイトなので、ここであまり内容について述べられないけれども、教養の意味と必要性が、非常に端的にわかりやすく述べられている。特に工学系の学生は必読である。
一つだけ紹介。
この中で、男子理系学生に、男女交際のススメが説かれている。全く同感である。人間の気持ちが分からない者に、いいものづくりができるはずがないからである。
もっとも私の持論は、男にとって女は永遠の謎である。決して分かることなどあり得ない。
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いのちがいちばん輝く日
今年4回めの近江八幡市へ。
ドキュメンタリー映画「いのちがいちばん輝く日」が、近江兄弟社学園のヴォーリズ平和礼拝堂で上映されたからである。
普段は入れない?ヴォーリズ平和礼拝堂に入れることだけでも嬉しいが、そこでヴォーリズ記念病院のホスピスのドキュメンタリーを見られるというのだから、行かねばならない。
人生について、いのちについて、家族について、そして医療について考えさせられるいい「ドキュメンタリー」だったと思う。患者さんの表情がどんどん変化してゆく…。一緒に行った豊川くんは、看護婦さんのドアをノックする音がとても温かい心のこもった音だった、と言っていた。
「看取る」というのは、単にいのちを見送るというだけでなく、その人の魂を受け取るということなのかもしれない、そう感じた。
秋から一般公開だそうだ。
開場まで記念撮影。
ご夫婦
こちらはお一人
さて、今回も当然昼食はあそこ。
もう常連なので、リクエストしてみた。
私はパンダ
絵実子さんはカエル
おまかせ、独り身の豊川くんにはラブラブペア
おまかせ、俊泰くんには花
庭をバックに
店内をバックに
何やら語っている私…。
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息子を遠く故郷から思うことしかできない無力で深い母の愛
- 2012-06-20 (水)
- essay
子どものころ、「ただゆき、野菜をちゃんと食べないかんぞな」(名前、方言適当)と、畑の中からお母さんが遠く離れた息子に呼びかけるTVCMがあった。この息子は都会の大学に通うために親元を離れたのだろうか。その息子の健康を心配する母親。しかし母親は、我が子を「思う」こと以外にはほとんど何も出来ない。たまに電話か手紙で、あるいは息子が帰省したとき、「野菜をちゃんと食べなさい」と言い、野菜を持たせることくらいである。後は、遠く離れた故郷で、ただただ息子の無事を祈るのみである。
もちろん大学生くらいの息子なら、そんな母親の気持ちは、わかってはいても、まだまだ余計なお節介に聞こえるだろう。「うるせぇなぁ」と言うかも知れない。しかし都会で1人暮らしをしてみて、母親の有難みは痛いほど感じてもいるのである。
そして、それから何年もたってはじめて、ただただ我が子を「思う」ことしかできなかった母親のその「思い」の有難みが骨身に沁みてくる。自分が子どもを持ってみて、また同じ立場になってみて……。
ところが、そんな我が子を「思う」母親に「朗報」である。我が子が大学の学食で何を食べているのかがインターネットで把握できるサービスが開始されたという(朝日新聞2012年6月12日)。記事にはこうある。
1人暮らしを始めた子どもの食生活は今も昔も、親の心配のタネだ。「うちの子、しっかり食べているかしら」。そんな親心に応えようと、学食で食べたメニューを保護者がインターネットなどで確認できるサービスが広がっている。
信じられない。
このサービスは、親が我が子を思う心を壊し、子どもから、深くて、無力であるからこそ愛おしい親から自分へ向けられた愛情が身に染みる契機を奪ってしまう。このサービスを考えた方は、そのことをほんとうに真剣にお考えになったのだろうか。
親は我が子が何を食べているか分からない。毎日毎日聞くわけにいかない。だからこそ、数少ないチャンスに「野菜を食べなさい」といい、普段はただただ「思う」ことしかできないのである。それがネットで毎日チェックできるとなれば、これはもう監視していることと変わらない。自分が何を食べているかを親が監視してると思いながら1人暮らしを続け、後年、そのときの親の愛情を身に染みて感じる子どもがいるのだろうか。
もちろん昔の母親だって、こんなサービスがあったら喜んで利用したかも知れない。昔の母親だって知りたかっただろうから。しかし、知りたいけれども知ることができないから、「思った」のである。「祈った」のである。
願いというものは、叶えられればいいというものではない。叶えられないことの中に、ある種の尊さが、深さが、慈しみがあることもあるのである。
チップの入った食器で食事をする息子。それをインターネットでチェックする母親。このサービスが、息子から、「ただただ思うことしかできなかった無力で深い母の愛」が骨身に染み、愛おしくて仕方がなくなる日を奪うことのないように願うのみである。
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工学的配偶者の選び方
工学的方法は、ある限られた領域、対象については有効であるが、現実にはそうではない領域もたくさんあるのであり、すべて工学的発想と工学的手法で考えることはできない。これは、工学を否定しているのではなく、どのような場合にそれが有効で、どのような場合に有効ではないかをきちんと知っておくことが大切である。例えば「工学的に恋愛する人なんていないでしょ?」と言ったら、学生さんから、「こんなサイトがありました」という感想が寄せられた。
新井民夫先生のサイトに掲載されている「配偶者の選び方」と一緒に掲載されている。
実は最初に「工学的に結婚相手選ぶ人いないでしょ?」と言ったのであるが、いるかも…、と不安になり、「工学的に人を好きになる人いないでしょ?」と修正したのであった。このサイトも「配偶者の選び方」であるが、なかなか洒落の効いた発想で、面白く読ませて頂いた。
もちろんちゃんと最後に、
この方法で配偶者を選べるなら、こんな簡単な事はない。実際には人間の関係はずっと複雑なことはいうまでもない。
と断っておられるが、こうも付け加えられている。
しかし、工学部に在籍する諸君にとって、一度は考えても良いテーマではないのだろうか。工学とは「与えられた条件の中で、最適な方法を求める体系」であるのだから。
工学的に配偶者を選ぶかどうかは別にして、工学は数値化、定量評価できるものを対象にしている。例えば「快適」ということを考えるときも、人間を「快適」にするパラメーターを考え、それぞれの最適値を考える。「快適な部屋」とは、「快適な温度」「快適な湿度」「快適な広さ」「快適な空気の流れ」などといった諸々の条件を満たす部屋である、というように。しかしそれぞれのパラメーターの最適値の総和が、必ずしも「快適な部屋」になるとは限らないというのが現実である。しかしそんなことを言い出すとどうしようもないので、それぞれのパラメーターのKING値の総和がKING of KINGS であると考える事にしているに過ぎないのである。
だが実際に、優れた工学者は、ほんとうはこんなことは誰もやっていないと私は信じている。逆なはずだ。先にものができて、それを一応納得させるために定量評価しているに過ぎないはずだ。
「快適な部屋」を定量評価し、いくつかのパラメーターとそのKING値は分析できるかも知れない。しかし逆にそれを寄せ集めても、決してもとのような「快適な部屋」を作り出すことは出来ないのである。なぜなら、すべてをパラメーター化することはできないからである。
しかしほんとうは、快適かどうかなんて、分析せずとも誰でも分かる。感覚的に分かるのである。分析はあくまで、事後的に行われる結果であり、原因にはなりえない。そのことを否定して、ものづくりはあり得ないと思う。
つまり、自分の恋人や配偶者が誰であるかは、誰でも直観的に分かるのである。もちろん錯覚もあるし、失敗もある。つまり別れることもいくらでもある。しかしそのときは、自分の感覚の未熟さを嘆いて、自分の直観と感覚を磨く努力をせよ。つまり人間に成長する努力をすべし。自分の人間としての全存在をかけて直観と感覚で配偶者を選ぶ。これが「文学的配偶者の選び方」である。
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