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2009-04

全身全霊

 昨日の続きをちょっと。

 全身全霊は、気合いとは違う。一所懸命とも違う。全身全霊は、これまでどのような生き方をしてきたか、普段どのような生活をしているか、どのような価値観を持って生きているか、何を目指して生きているか等々、その人の存在全てを含んでいる。
 例えば前日夜中まで飲んでいて、演武会当日だけ必死にやる。それで、「自分は全身全霊で演武しました」と言われても、誰でも違和感を持つだろう。当日全身全霊の演武ができるかどうかは、むしろ、それまでどれだけ準備をしてきたかが、ほぼ全てである。何も演武会だけではない。日々の稽古も同じである。その日の稽古を全身全霊でやるには、それ以外の時間をどう過ごしているか、が大切になってくる。授業もあれば、研究もある。仕事もバイトもあるかも知れない。そのような事全てを含めて、自分の存在があるのである。

 全身全霊は、それまで自分が生きてきた人生をかけて、今の自分の全存在をかけて、はじめて結果として現れることもある、そういうものなのである。

 もちろん優れた武道家なら、いつでも出したいときに出せる。しかし私たち凡人は、ただ必死にやって、結果として出てくるのを待つしかないのである。最初は自分では出せない。自分のコントロールを越えて、出てくる、のである。しかしそれを繰り返すうち、自分で出せるようになってくる、はずである。

 比喩的に言えば、自分が今持っている殻を破らないと全身全霊は出てこない。自分の全存在をかけるためには、自分の殻を後生大事にもっていては、かなわない。それまでの自分をその都度捨てなければならないのである。
 ボクシングのチャンピオンであり続けたければ、一度チャンピオンベルトを返還して、挑戦者と同じ場所に立って、防衛戦に勝って、またそれを自分で奪うことを繰り返すしかない。手放しては獲得する、この繰り返しだけが、チャンピオンであり続ける条件である。この連続には、無数の断絶が含まれているのだ。もし試合前に一旦チャンピオンベルトを手放すことを拒否したら、その時点でその人はチャンピオンである資格を失うのである。

 自分が変わるためには、まず捨てなければならない。新しいものが得られることが保障されていない段階で、である。この順序を間違えると、役に立つことしかしない、つまり、この稽古が何の役に立つのかを納得しなければやらない修行者になる。何のために勉強するのか?というのと一緒である。少なくともそういう修行者が上達することはあり得ない。

 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ

 この逆説が信じられた人だけが、溺れなくてすむのである。

 稽古前にはそれまでの自分を一旦捨てる。必死に稽古して、稽古が終わったら、結果として、なんとか紙一重で新しい自分を獲得できていた。その繰り返しが出来たら最高である。
 もちろんこれは単なる精神主義ではない。武道は、武術という身体の技術を通してそれを行うのである。

 道場はそのための空間である。自分をさらけ出して、自分の存在をかけて稽古する場所は、特別な空間、敢えて言えば神聖でなければならない。だからみんなで掃除もするし、出入りの時には一礼もする。そこを特別な空間にするかどうかは、そこにいる人の心次第である。

 もう紙一重のところまで来ている部員が何人かいる。だがこの紙一重が難しい。風船を膨らまして破裂させる瞬間には、それまで以上の力が必要なのと同じである。だがここで一踏ん張りしなければ、風船はしぼんでしまう。
 勿体ない!
 多分次回には爆発させてくれるだろう、と信じている。
 逆に、とても心配な部員もいる。今一番心配しているのは、f、y、m。

演武会プログラム

 7月11日の武道部演武会のプログラム案がほぼできた。今回のテーマは「全身全霊」。今どきの若者の「全身全霊」を感じてもうらおうというものである。技科大吹奏楽団とのコラボもある。

 プログラム案は大枠がほぼ出来上がったので、あとは細かい詰めと、演武者の決定である。今までは、演武内容と演武者を同時に決めていたが、今回は、全て第一候補者があがっているだけで、まだ決定していない。それは、今回のテーマと関係がある。

 「全身全霊」というのは、口でいうのは簡単だが、実行はとても難しい。自分の限界にチャレンジし続けた者だけが、時に「全身全霊」の領域に入ることができる。テクニックの巧拙とは全く別のことなのである。
 頭ではチャレンジしようと思う。心でも思っている(と自分では思っている)。だが、実際に動くと、すぐ心が折れる。あるいは集中しきれない。それでは全身全霊の領域にはほど遠い。

 武道部の最近の課題は、この全身全霊であった。全身全霊で稽古できない部員が年々増えてきたのである。在学生だけではない。卒業生も私も同様である。つまり武道部全体が、全身全霊を忘れつつあるのである。それでは困る。そこて今回勝負に出て、これを演武会のテーマとしたのである。

 今回の演武会が全身全霊の演武会にならなければ、武道部に未来はない。もちろん部員にも私にも未来はない。

 だから今回は、自分の限界にチャレンジし続け、全身全霊の領域に足を踏み入れた者だけが舞台に立てる、そういう演武会にしたい。何度も言うが、巧い下手ではない。だから色帯も黒帯もない。それぞれが自分の全身全霊を出し、会場中を全身全霊の空間にできるかどうかである
 本気で、それこそ全身全霊でやろうと思えば、今すぐ誰にでもできる。今年入った新入部員にもできる。だからこれからの稽古の中で、その領域に届かない者は、演武会に出ることが出来ない。これまでは、全員参加でやってきた。でも今回は、惰性で出演する者は必要ない。

 全身全霊でないものは去れ

である。だから私を含め、どの席も、誰にも、約束されていない。全身全霊が出せなければ、出せる人と交代するか、その演目自体を削除するかしかない。

 幸い、先週の土曜日の尚志館の稽古中、幸美さんがその領域に一瞬足を踏み入れた。今のところ、在学生で足を踏み入れたところを私が見たのは彼女一人であるが、おそらく彼女は、これから何度も足を踏み入れることができるだろう。他の部員もそれにつられて、どんどん足を踏み入れることを期待している。次回の稽古の時に、第一候補を押しのけて割り込んできたり、まだ候補が挙がっていない演目の第一候補になる部員が多くいるようであってほしい、と思う。
 もう一つ期待しているのは、卒業生である。卒業生が限界にチャレンジしている姿を在学生に見せることほど刺激的なことはない。
 次回の稽古から、一人、また一人と、全身全霊の領域に足を踏み入れる者が出てくる。そういう稽古がしたい。
 
 武道部員以外でこのブログを見て下さっている方は、ぜひ楽しみにしていて下さいね。

コーヒー豆

 今日、コーヒー豆を400グラム買った。
200グラムずつの二袋に分けて入れてくれ、マスターはこう言った。

 こっちは、今、ちょうどいい豆です。
 もう一つの方は、まだ少し早いと思いますので、後に飲んで下さい

 豆が足りないから奥に取りに行ったのかと思ったら、そういう配慮だったのね。
 ちょこちょこ買いに行くのが面倒くさいから多めに買ってゆく程度の客に、プロとしての心遣いをしていただき、ちょっと嬉しくなった。
 コーヒーをとても愛しているマスターなのである。
 今日はカウンターに座って、マスターがコーヒーを入れる姿を眺めていたが、その姿からも、やはり愛情が溢れていた。
 

昨日の授業

 昨日は4コマ連続授業の水曜日。

 どの授業も明るくノリがいい。
 1時間めは、文学的感性をちょこっと磨いてもらう授業であるが、例年のごとく、慣れていない学生が多い。特に「静かに自分と対話する」ということが苦手な学生が多いようだ。今年はノリがいい分、その傾向が強いのかもしれない。ゆっくり、じっくり、微妙な自分の中のざわめきを捉える喜びを味わって欲しい。その説明をした後は、ちょっとそういう空気になったので、次回以降、慣れてくるだろう、と期待している。次回にうまく流れを作りたい。
 2、3時間めは、どちらもクラスコミュニケーション。次回からは学生によるプレゼンとディスカッションが始まる。こっちも期待大である。
 4時間めは武道のお話。イントロダクションとして、武道の本質説明をイチロー選手の言葉を使ってちょこっとだけやった。その後、今日のメインテーマである「武士道の歴史」と「武道OS論」。まあまあうまく話せたと思う。感想も面白いものが多かった。
 「武道OS論」は、昔、橋爪大三郎さんが宗教をOSに喩えて説明されていた(「春秋」1998年)のを読んで以来、「なるほど」と思い、武道に応用して展開しているものである。橋爪さんは「理工系の学生諸君には、これがわかりやすいらしい」と書いておられたが、「武道OS論」もやはり工学部の学生に分かりやすいようだ。もちろん、比喩を借りただけで、武道=宗教論ではない。
 次回も頑張ってパワポ作りま~す。

宇津木妙子『宇津木魂 女子ソフトはなぜ金メダルが獲れたのか』

宇津木魂 女子ソフトはなぜ金メダルが獲れたのか (文春新書)

発売元: 文藝春秋
価格: ¥ 777
発売日: 2008/10/16

 読んでいてとても嬉しくなった。宇津木さんのような指導者がいる限り、そしてそれを信頼する若者がいる限り、未来は明るい。
一本筋の通った人間の、強さと温かさがよく伝わってくる本である。指導者としても、修行者としても、とても参考になる。
上野選手争奪戦における行動、選手の叱り方、代表監督を引き受ける時の条件など、全てにおいて筋の通し方が見事である。

 「私は妥協しないよ。監督に服従できない者は去ってもらう」と「監督宣言」しました。(61)
 「おい、伊藤。ふざけるなッ。私がどういう監督か知っているよね」(47)
 容赦なくやりました(62)
 私は、こういう態度は絶対に許しません。(79)

 厳し。

 私は毎日選手にいろいろな話をしますが、ときには私の話が前日とは正反対に聞こえることもあると思います。(略)
 また、ある時は練習前のストレッチをしながら、選手同士でおしゃべりをしていました。
「これから練習を始めようという時に、何をやってるんだっ、一日中、準備運動してろ!」
ろ本当に準備運動をさせました。
 後になって聞くと、彼女たちにも言い分はあります。その選手たちは練習内容について話をしていたのだと言うのです。彼女らにしてみたら、まったく理不尽に怒る監督です。
 しかし、そんな話には聞く耳を持ちません。私は「練習が始まったら一瞬たりとも気を抜くな」と言っているのです。勝つためには、「練習は試合と同じように、試合は練習と同じように」やらなければなりません。そのために全体で行う練習時間を短くしているのです。私に言わせれば監督に疑われるような態度を取った、それだけで自覚が足りません。
 監督は選手に、「昨日はこう言ったけどね」とか、「君たちの言い分もよくわかるけど」などといちいち説明する必要はありません。物事はすべて、一言でいい表せるほど単純ではないのですから、監督が日々矛盾に満ちたことを言うのはむしろ当然です。(170)

 しかし、この厳しさは、非常に繊細な神経に裏打ちされている。「人間」というものをほんとうによく知っておられる。そしてチーム作りや目標達成指導の技術もプロフェッショナルだ。そのことが本書を読むとよく分かる。
監督として、自分の人間としての限界にまでチャレンジし、人間として真正面から選手と向き合う。繊細、かつ温かく、そして厳しく。そしてプロフェッショナルな指導技術。どこにも妥協はない。
そんな宇津木さんのような指導者に出会った選手は本当に幸せだろう、と思う。

履修ガイダンス

 今日は1年と3年の履修ガイダンス。3年生もほとんど(300余人)は編入生、つまりは新入生である。私は人文系科目についての説明担当である。
 この前の披露宴のスピーチで、聴衆の意識をこっちに向ける極意を会得したので、今回もそれを使用。「おはようございます!」のひとことで、みんなの気を集めることに成功した。その後は、持ち時間の5分間、ただただ熱く語ってきた。
 聴衆とは一体になれたが、説明担当の先生の中では確実に浮いていた……、かもしれない。

 ともかく、新入生のみなさん、夢のあるすばらしい技術者になって下さいね!

バーゼルからの便り

 スイスのバーゼル大学に赴任した荒川夫妻から、インターネットができる環境になったとのことで、メールがきた。2人とも元気で奮闘しているようです。
 なれない言葉、土地、文化でいろいろ苦労も多いようですが、2人とも武道の心で、それに余裕をもって対応できているように見うけられました。この調子で頑張ってほしいと思います。
 武道の心は、こだわらない心です。苦即楽。楽即苦。同じものでも、見方によっても、見る人の心によっても、見え方は変わります。こっちが変わらなくても、向こうが変わる。臨機応変というのは、その時その場の状況を、よりよい方向にもってゆくための心法だと思います。
 あの2人なら何の心配もないでしょう。武道部が自信をもって送り出した武道修行者ですから。
  

田坂英俊編著『備後俳諧資料集』第十二集

 田坂英俊編著『備後俳諧資料集』第十二集をご恵与頂いた。
第十二集は、『木海発句集』の翻刻、小森可卜の新資料の翻刻を主眼としたものであるが(まえがき)、それ以外にも、尾道の俳人茂兮の俗称等が明らかにされたり、田能村竹田との交流を伝える新資料が掲載されているなど、とても興味深い。
 私個人の興味から言えば、さらに、亀台写「俳諧三病之事」、麦二の「梅室入門証」などがとても興味深かった。

 田坂さんや、福井の齋藤耕子さんなど、長年に亘って地方俳諧の資料を丹念に発掘、紹介して下さる研究者は、俳諧研究においてとても貴重な存在であると思う。私などは、ただただその御学恩を蒙るのみである。

 残念なのは、こういう貴重な資料集は、そのほとんどが、私家版かそれに近い形で出版されることである。仕方ないとはいえ、勿体ないなあ、と思う。

熊野古道と国道

 授業をとっていた学生(院生)が、春休み旅行の報告に研究室にやってきた(ちなみに武道部員ではない)。彼は春休みの前に、

 歩いて旅したい。期間は2週間、テーマは「日本を知る」です。どこかいいところはありませんか?

と相談に来たので、伊勢神宮から熊野古道、花窟神社、熊野速玉大社、神倉大社、熊野本宮神社、潮岬の灯台などを紹介した。

 その報告である。
 「ご飯食べて行き」と声をかけて食べさせてくれた方、テントを張る場所がなくて困っていると、「今日はうちに泊まっていき」といって泊めてくれた方、その他毎日のように、いろいろな人と出会った。たまたまレストランから出てきた新聞記者に取材もされた。その他多くの人と出会った。それがとてもよかったと、写真を見せながら楽しそうに語ってくれた。
 その他、いろいろ話してくれたが、その中で面白かったのが、

 熊野古道は予想外に歩きやすかった。むしろ国道の方がずっと歩きにくかった。

ということである。精神的なストレス、疲れ方、足の疲労など、全てが熊野古道と国道では全く違った、というのである。彼の分析によると、熊野古道は歩くための道であり、歩くための工夫が随所に凝らされている。それに対し国道は、車のための道である。そのことがとてもよく実感できた、ということである。

 実際に歩く前は、平らな国道の方が、熊野古道よりもずっと歩きやすいと思っていた。実際は逆だった。大きい市も同じで、やはり大きい街は車のために作られているのだ。これは実際に歩いてみないと分からなかった。とてもいい経験だった。

 なるほど。彼は、ほんとうにいい経験をしてきた、と思う。技術者としても、人間としても、この経験は彼の大きな財産になるに違いない。そして何より、彼は自分では気づいていないが、今回の旅で大きな力を貰ってきたことが私にはよく分かった(ぴりぴり感じましたよ)。自然(森林)についての私の考えも少し話し、楽しく時間を過ごした。

 ここ2年ほど熊野に行ってないので、行きたいと思っていたが、ますます行きたくなった。

初出勤

 今日から大学は新学期。といっても、新入生もまだいないし、当然授業もまだ始まっていないので、閑散としている。

 武道部の卒業生から、初出勤の報告メールが来た。研究室の指導教官でもない、課外活動の顧問が、初出勤の報告メールを貰えるのは、とても嬉しいことである。
 メールには、武道部でやってきたことの価値を再認識しながら一日会社で過ごした、というような感想なども添えられていて、これまたとても嬉しく思った。
 これからどんどん活躍してほしい、と心から願う。

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