ホーム > 研究 アーカイブ

研究 アーカイブ

全国高専教育フォーラム2011(3)

24日は教育研究活動発表会に参加。
岩崎君の発表を聞いた後、自分の本日一つめの発表。
人間力養成プロジェクトの紹介をした。
統一した達成目標をもたない「ゆる~い」プロジェクトであるがゆえに、個々で大きな成果を上げていること、自分の実践の意味を捉え直せるプロジェクトになっていることなどを話す。

私のプロジェクトは全てそうであるが、「この指とまれ」方式でメンバーを集めている。まず私の問題意識、興味を前面に出す。そしてそれに共感して下さる方は集まって下さい~という方式である。誰も私の指にとまってくれなければ、この遊びは「なし」である。仕方ない。

だから毎年、誰が応募して下さるか全く分からない。それでもこれまで、私が書いたA41枚の提案用紙を見て、お名前も顔も存じ上げない先生が応募して下さった。私もどういう方かも分からないままメンバーになっていただいた。私の問題意識に共鳴して下さっているという1点のみで十分だからである。そうして毎年、少しずつメンバーが増えてきた。今年もそうだった。だから昨日食事会で始めて会った先生がいたのである。実はまだ会ったことがない先生も何人かおられる。

午後からは本日二つめの発表。
こちらは日本語コミュニケーションの授業の紹介。コミュニケーションにおける身体性の重要性を動画を使ってお話した。「私たち教員は授業でどういう声を出したらいいんですか?」という質問を頂き、まずまず受け止められた感じであった。いくつかの遊びメソッドを紹介したが、多分どなたも自分の授業に取り入れることはなさらないだろう。失敗して収集がつかなくなるという不安があるからである。しかし、失敗して収集がつかなくなるという不安がある限り、コミュニケーションの授業はうまくいかない。だって、やってる方が、「自分」と「学生」と「コミュニケーションという力」を信じていないということだから。

発表終了後は、飛行機の時間に間に合うように、大急ぎで鹿児島中央駅に戻る。
かるかんときんつばを買って、空港へ。

今年は最後まで参加できず、メンバーの発表もほとんど聞けなかったのが残念だった。しかし3本も発表できたのでよしとしよう。今年は自分の発表内容通り、アウトプット尽くしの高専教育フォーラムだった。

  • コメント: 0
  • トラックバック: 0

全国高専教育フォーラム2011(2)

23日・24日は平成23年度全国高専教育フォーラム

CIMG1048 (320x240).jpg

まずは23日。
高専・技科大フォーラムに参加。
私も「「技術者教育」におけるゆるやかな連携の試み~「人間力」と「コミュニケーション能力」を軸として」題して発表。

優秀な技術者養成、高度な技術者養成、イノベーションを起こせる技術者養成というのが高専・技科大の使命なので、そのためには「人間力」が不可欠だというお話をする。ブルペンのエースの如く、研究室の中だけで優秀な人は優れた技術者とは言えない。現場で力を発揮する技術者としては、いかなる状況においても、自分の力を最大限に発揮する能力が必要である。つまり、人間力とは器であると同時にアウトプット力である。したがって、持っている能力を如何に発揮するかという、発揮の技術に関わる教育が技術者教育には必要であると話した。

そのような「発揮力」養成には、プレッシャーのかかった現場が必要である。プレッシャーがあるポイントを超えて豹変するようでは困る。豹変の多くは、パフォーマンスが著しく低下し、フリーズしてしまう。そうしてその後何事もなかったかのように振る舞うのである。
技術者がこれでは大変困ったことになってしまう。少なくともそういう問題意識だけでも共有したいというのが私の願いである。そして出来れば、その養成の実践を連携してできれば、と願っている。現在実施しているプロジェクトはその試みである。幸い高専には私の関心に共鳴して下さる先生方が大勢おられる。そしてその方々は、私よりはるかに有意義な取り組みを実践しておられるのである。

終了後は、そのプロジェクトのメンバーたちとの懇親会。幹事の連絡がいい加減で、時間も場所もお店の名前もよく分からなかったにも関わらず、みなさん自力でお店に到着された。さすが「人間力」のある先生方である。
今年度から参加の先生は初対面。二つのプロジェクトの混合懇親会だったが、大いに盛り上がった。それにしてもどうしてこういうメンバーが集まってくるかなあ、という方たちばかり集まって下さる。「類は友を呼ぶ」という他ない。

  • コメント: 0
  • トラックバック: 0

全国高専教育フォーラム2011(1)

22日は移動日。

佐賀から鹿児島へ。新鳥栖で九州新幹線に乗り換え。
CIMG0988 (320x240).jpg
つばめです。

CIMG0994 (320x240).jpg
桜材のロールブラインド

夕食までプチ観光。
旧鹿児島紡績所技師館から島津家別邸仙厳園へ。

CIMG1002 (320x240).jpg
せごどん号で。

CIMG1036 (320x240).jpg
桜島を築山に見立てた借景庭園。

CIMG1043 (320x240).jpg
帰りはあっちゃん号で。

ホテルに戻って、明日の発表用PPT作りです。

  • コメント: 0
  • トラックバック: 0

日々より月々年々の修行ならでは

芭蕉が元禄7年1月29日、怒誰に宛てた書簡に次のような文章がある。

御修行相進候と珍重、唯小道小枝に分別動候て世上の是非やむ時なく、自智物をくらます処、日々より月々年々の修行ならでは物我一智之場所へ至間敷存候。誠御修行御芳志、頼母敷貴意事に令感候。仏頂和尚も世上愚人に日々声をからされ候。(引用は今栄蔵『芭蕉書簡大成』(角川書店)

今、田中善信『全釈芭蕉書簡集』(新典社)によって現代語訳を示すと次のようになる。

禅の修行が進んでいるとのこと、結構なことです。ただ、枝葉末節に分別が働いて、世俗的な利害に心が安まるひまがなく、自分の小賢しい智恵で物が正しく見えない状況、これが我々の日常ですが、日々、月々、年々修行を積んでゆかなければ、物と我と一致する境地に至ることはあるまいと思います。真剣に仏道修行に専念しているお志がたのもしく、とりわけあなたのお気持ちに感銘を受けております。仏頂和尚も世間の愚かな人々を導こうと、日々声をからして教えを説いております。

怒誰(どすい)は近江国膳所の藩士で芭蕉の門人。同じく蕉門の曲翠(曲水)の弟。『荘子』の思想に傾倒しており、芭蕉の思想に共感していた。この書簡の前半では、芭蕉の禅の師である仏頂和尚が芭蕉庵にやってきた折のことが報告されている。

さて、ここで芭蕉は、私たちの日常は、枝葉末節に自分の理性や欲望が働いて、あれがいい、これがダメだ、などと騒ぐばかりで、心休まる暇がなく、物が正しく見えない、と述べている。
「自智物をくらます」。智(知)は、もののほんとうの姿を見えなくする。普通私たちは、知識や智恵が物の本質を明らかにすると考える。だからそれらを身に付けるべく勉強をする。しかしそれは逆だというのである。

また、ここでは「自智」を「自分の小賢しい智恵」と訳しているが、ここでいう智には「自分の小賢しい智」と「そうでない正しい智」があるのではない。芭蕉がここで言っているのは、全ての智は、我欲にとらわれた浅はかなものである、ということである(田中氏もその意味で訳しておられるはず)。

だからその対極が「物我一智」(物我一致)の境地なのである。我も物もない境地。ここでは主体はとろけている。だから知識も知恵も分別もない。ただただ全ての流れと一体化しているので、「自分」というものがない。これを芭蕉は別の言い方で、「四時を友にす」とか、「造化へ帰れ」とも言った。

我欲をすて、自我を捨て、主体をとろけさせて、宇宙・自然と一体となる。全ての流れになる。そこに「私」はない。

同じことは芭蕉に限らず、思想家であろうが文学者であろうが宗教家であろうが武道家であろうが、たくさんの人が説いているし、その解説も備わっている。だからいまさらこここで大げさに解説するほどのことでもない。
ただ私は、自分に言い聞かせるために同じことを何度も繰り返し言う他ないだけである。しかしほんとうに自分に言い聞かせたいのはこちらである。

日々より月々年々の修行ならでは物我一智之場所へ至間敷存候(日々、月々、年々、長い長い修行を積んでゆかなければ、その境地に至ることはあるまいと思います)。

「日々より月々年々の修行ならでは」。いい言葉ですねえ。

最近twitterの方で報告しているが、毎日阿波研造師範の Itの境地による珈琲淹れ修行を楽しんでいる。私のような不器用な凡夫には、「日々より月々年々の修行ならでは」一杯の珈琲さえ満足に淹れられないのである。

  • コメント: 0
  • トラックバック: 0

PV

カヤの平井さんが、私のPV作ってくれました~
HNK(ヒューマンネットワーク高専)での講演DVDプロモーション用です~

DVDについてはこちら

  • コメント: 0
  • トラックバック: 0

HNK講演DVD

 先日のHNK講演DVDが届いた。
レーベル.JPG

 自分が話している姿を見るのはとても恥ずかしいし、自分の声もこんなんじゃないのに~って思う。でも普段他の人が見ている私の姿はこれであって、声もこれなのである。しゃあない。

 映像チェックのために前に一度見た。その時に気づいたのだが、私の話は、自分の気持ちとしてはポジティブなのだが、話自体がそこまで展開されていない。時間の都合もあるけれども、そうではなく私の心性のためである。これではいかん、と思い直した。もっと夢を語らねば。

でもまあ、これはこれで結構面白いぞ、と早速ポジティブに語っておくこととする。
いや、めっちゃ面白いぞ、と超ポジティブに語っておこう。

それはともかく、このDVDには多くの講演が収められいる。全部見ると、これまでの高専卒生の活躍、そして高専の今とこれからが分かるお得な一枚である。
ということでご興味のある向きは下記までどうぞ。

★★★講演DVDお申し込み★★★
http://www.sogogakushu.gr.jp/kosen/HNK/dvd_15.htm

お名前、住所、電話番号、メールアドレス、勤務先、勤務先電話番号
をKaya 平井までお送りください。

● 手順 <お申込み → 受付・お振込み案内 → 入金確認 → DVD発送 >

有限会社 カヤ 平井 良信
〒540-0013 大阪市中央区内久宝寺町3-4-8-902
kaya@sogogakushu.gr.jp TEL&FAX:06-6940-1314

定価3000円(消費税込)
——————————
ヒューマンネットワーク高専
第15回定時総会奈良大会 講演集 (3時間12分)
2001年6月18日 於:春日野荘

(1)記念講演(40分)
原子力産業と高専の役割 舞鶴工業高等専門学校 校長 太田泰雄

(2)招待講演(26分)
50周年に向けての高専教育への期待~高専人へのエール~
都立航空高専元校長 (財)日本無線協会 専務理事
HNK/高専カンファレンス顧問 島田一雄

(3)一般講演(23分)
高専・高専機構の現状と課題 ACT135について
明石工業高等専門学校 校長 京兼 純

(4)一般講演(27分)
心づくりの人間力教育~身体の危機と危機の身体
豊橋技術科学大学 准教授 中森康之

(5)一般講演(25分)
奈良高専同窓会・新芽交流会 活動報告
奈良高専卒OB 株式会社 シーエス・ワキタ
取締役 事業開発部  脇田良夫

(6)発表(32分)・・・・・
全国OBOG40万人の高専パワーを事業に活かす
株式会社PJTの出帆」
株式会社PJT 代表取締役 HNK「赤とんぼ」編集委員長
尾上良明(都城高専OB)

(7)発表(19分)
日本高専学会について(第17回年会・講演会へのお誘い)
鈴鹿高専教授(日本高専学会副会長)井上哲雄

  • コメント: 0
  • トラックバック: 0

宝塚へ

20日。
宝塚の堀信夫師匠のお宅へお邪魔する。しばらくご無沙汰していた。
師匠から最近考えておられることをお聞きする。
次から次へと芋づる式に話が展開してゆく。

そうするとね、……
ふむふむ
そうするとね、……

という具合に。
それとともに師匠は元気になってゆく。
師匠はいつでも常に自分の考えをアップデートし続けておられるのである。
最新バージョンをお聞きして夕方にお暇した。

これまで私が誤解していた点などもあり、とても勉強になった。
そして今回強く思ったのは、私も、もっと自分の考えを粘り強く深めるべきだったということである。これからでも遅くないので頑張ろう、と私も元気になって豊橋に戻った。

  • コメント: 0
  • トラックバック: 0

天理へ

19日。
強行日程だが、今日は天理図書館へ。何年も前に書いたある事典の初稿が先日突然送られてきたからである。出典を原典で確認していった。しかしさすがに天理図書館。私の担当句の出典のほとんどが所蔵されていた。夕方に仕事が終了。
今日は豊橋に戻らず大阪に泊まる。クリタさんと夕食。

  • コメント: 0
  • トラックバック: 0

HNK総会講演

HNKというところに講演に呼んで頂いた。NHKではなくHNK。ヒューマンネットワーク高専の略称だそうである。会員は高専の卒業生の方々。

高専賛美の講演が3本続いた後、高専~技科大生の身体は危機に瀕しているというお話をする。もちろん高専~技科大に限ったことではないが、とりあえず私の身の回りで起こっていることから話を始める。ということで、予期せぬ事態が起こったとき、心身のパフォーマンスが著しく低下するという例をいくつか紹介した。危機的状況において固まる心身しか持っていないのは、心身の危機である。それは、平時においては、「察する感性」の感度の問題、つまりはコミュニケーション能力の問題として顕在化する。

もちろん私も、高専・技科大の卒業生が大変優秀であり、産業界で活躍しておられることを認めるにやぶさかではないし、心から応援している。しかし学生の持つ、自分の専門以外の人と積極的にコラボレーションしようという意志、他者や外界とコミュニケーションしようという意欲、危機対応的心身という点において、心から心配していることもまた事実である。

私が「人間力」という概念で考えているのはそのようなことである。「人間力」は、「人間が豊かで幸せな人生を送ることができる能力」であるが、具体的に言えば、「高度な技術を習得するための器として必要な力」、「専門以外の人と協働(コラボレーション)し、専門能力(技術)を生かす力」、「いかなる状況においても、自分の持つ能力(技術)を最大限に発揮(output)する力」であり、「危機察知」と「危機対応」の力、「危機的状況において心身のパフォーマンスを最大化させる力」である。

これはまさしく武道修行が目指すところである。だから武道部ではみなさんこの能力向上にむけて日々修行をしているのである。しかしそれでも、例えば福島第一原発の現場にいる人が全員武道部卒業生だったら、今回の事故に際し、批判されることのない迅速かつ正確、適切な対応ができただろうか、と心配になる。だから武道部員は卒業後も修行を続けているのである。

現場で極めて高い専門能力を発揮(output)する人材を輩出することを使命とする高専~技科大では、それが可能な心身の養成を真剣に考える必要がある。もちろん多くの関係者はそれを真剣に考えていることを私は信じて疑わない。講演でも、高専機構の理事の先生から、「機構もそれはちゃんと分かっていて、いろいろやってるよ」とお叱りをうけたほどである。

ところでこのような心身の危機は何によってもたらされるのか。一つは、「子どもを危険から遠ざける」大人の配慮によってである。私が住む団地の滑り台は最近使用禁止となった。砂場と直結している、子どもの指が入る隙間がある、手すりが○㎝以下である、滑り台のアーチが○度以上である、等々多数の項目において専門業者から「危険」という判定を頂いたからである。

朝夕は通学路の横断歩道に旗を持った大人が立っている。しかし、子どもたち自身に安全を確認させて、本当に危険な時だけ手を出す光景を残念ながら見たことがない。私が見たことがないだけでたぶんそういう方はたくさんおられるだろうと思うけれども、そうでない方もたくさんおられるのである。危険から子どもを守ることは大切だが、危険を察知する感度もまた、大人が必死で守らねばならない子どもの大切な能力であるはずだ。

危機感度の高い心身を疎外するもう一つの原因は、均質化して、定量化して、効率を考える論理的思考である。これを俗に「科学的」思考という人もいる。これが危機感度の高い心身の獲得を妨げるのは、リスクと責任をとらないからである。
俗流「科学的」思考はリスクも責任もとらない。なぜか。誰がいつどこで考えても正しい答えになる思考だからである。そのようなものにリスクもなければ、責任も生じない。失敗もないし、誰からも責められない。だから安心であるが、ただそのような場所では、人は危機感度の高い心身を獲得することはできないのである。
1+1=2という答えにリスクも責任もない。
アンケートで100人中90人が「気持ちがいい」と答えた椅子を、「90%の人が気持ちがいいと答えた椅子です」とセールスすることにリスクも責任もない。

しかしそんなアンケートも何の定量評価もない椅子を、「これはとても気持ちがいい椅子です」と断定することにはリスクも責任も伴う。しかしそこからしかほんとうに気持ちのいい椅子は生まれないのではないだろうか。定量評価が目指す「万人が気持ちいい椅子」とは、誰1人それをほんとうには気持ちいいと感じることのない不幸な椅子のことである。だから「人間工学で作ると座り心地が悪い」(宮本茂紀VSビートたけし「達人対談」『新潮45』2011年2月)と言われてしまうのである。
 
高専や技科大の学生たちは、イノベーションを起こせる高度な技術者を目指している。論理的には、論理的に正しい思考からはイノベーションは起こらない。真にイノベーティブな技術者をめざすなら、リスクと責任をとって、自分の感度を頼りに断定することから始めなければならない。そこからしかコミュニケーションは始まらないし、危機感度の高い心身の獲得もないのである。高専や技科大は、学生がそれを獲得できる環境を用意しなければならない。

というようなことを講演では話す予定だったが、後半は時間切れとなった。
最後に小川師匠の師匠のことば、

自分だけで勝手に生きていると思っていると、ろくなことになりませんな。こんなこと仕事をしていたら自然と感じることでっせ。本を読んだり、知識を詰め込みすぎるから、肝心の自然や自分の命がわからなくなるんですな。(西岡常一『木のいのち、木のこころ』)

自然や自分のいのちの分かる人間に私もなりたい。

  • コメント: 0
  • トラックバック: 0

それは左に入れなければならない

歴史探検隊著『50年目の「日本陸軍」入門』(文春文庫)という本の「それは左に入れなければならない」(134頁)という節に、軍袴(ズボン)のはき方が書かれている。

 しかし、キチンと位置を確定しなければならなかったものがある。「腰ヒモは上り下りなきよう……」の前に次の一文が入っているのだ。
「睾丸は左方に容るるを可とす」
なぜこんなことまで決めなければならないのだろうか。右にあってはなにか不都合があるのだろうか。
 女性の場合は銃をかまえるときに片方の乳房が邪魔になるとは聞く。ギリシャ神話の勇婦アマゾネスなどは弓を射るために右の乳房を切除したというが、男性が戦闘する場合、左におさめなければならない身体上の問題があるのだろうか。
 こんなことを真顔で指示した軍隊というものは本当にわからない。何を根拠に、どんな価値基準によって判断したことなのか。
 「現在」の感覚では愚にもつかぬ呆れたこととしかいえないのだが、50年前は、古びた軍衣と旧式な装具を身につけ、一挺の銃さえ渡されずに、ただただフンドシをキリリとしめて睾丸を左におさめ、日本の男たちは戦場へと狩り出されていったのである。

睾丸を左に容れる。おお、左重心ではないか。
小山田さんがいつも言っている、前へ進むには左重心。
戦では前へ、前へと進め。そのためには睾丸を左に容れて左重心にせよ。
日本陸軍はそのことを身体で知っていたのだろうか。
でも左加重にはなるけど、左重心になるのかな?
たぶんなるんだろうね。

そのあたりはもうすぐ発売される

織田 淳太郎 (著), 小山田 良治 (監修)
『左重心で運動能力は劇的に上がる!』 (宝島社新書)

を読めば分かるだろう
って、宣伝???

  • コメント: 0
  • トラックバック: 0

ホーム > 研究 アーカイブ

カレンダー
« 2025 年 7月 »
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
最近の投稿
最近のコメント
カテゴリー
アーカイブ
リンク
中森康之研究室
武道部
俳文学会
現象学研究会

ページトップに戻る