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点と丸

昨日爪切りが到着したSUWADAさん
前からオープンファクトリーに行ってみたいと思っていたので、HPを拝見。

ロゴマークは、「日本語だけに存在する句読点」をあしらったものだそうです。「日本にしかない、諏訪田にしかない商品を提供します」とある。

こういうこだわりのものづくりを応援したい。

オープンファクトリーにもぜひ行きたい。

HPを見ていると、爪切り以外にも気になるものが…。

栗くり坊主。

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みんな集まっておいで

最近「シンクロニシティ(Synchronicity 共時性)」ということをよく聞くが、何かをやっていると必要な情報が向こうからやってくるということはよくあることである。

私がヴォーリズに興味を持ちだしたのはごく最近(1年ほど前)のことで、何年か前の巡回展などはその存在も知らなかったのであるが、それでもわずか1年の間でもいろいろな幸運に恵まれた。次から次に芋づる式に出て来てくれた。そして今もその状態は続いている。何をやるにも、遅すぎるということはないと教えてくれた。

俳諧の研究でも同様のことはしばしば起こる。どんなに探しても見つからなかった資料が、あるとき、いくつも続けて出てくるということがあるのである。しかしこれは、こちらが探していないと出てこない。

また、今、研究室の学生が学会発表の準備をしているが、それに関することも、どんどん集まって来てくれる。

私の経験では、彼(女?)らは、まんべんなくはやってこない。一気に押し寄せてくるのである。

オープンマインド状態であること、それについて強い関心を持ち続けていること。この二つが揃えば、彼(女?)らはあるとき一気に押し寄せてくる。

大歓迎、大歓迎。

みんなどんどん集まっておいで!

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時代が許さない…

日本文化論では、私の考える「武道」の思考法や価値観を語っているのであるが、批判的な反応の典型的なものの一つは、次のようなものである。

自分はある程度理解できるし、いいと思う点もあるが、効率を求められ、競争に晒され、結果を求められる現代社会では受け入れられないだろう。

自分は認めないこともないが、社会が認めないので無理だ、というのである。

私がこの授業で学生に説いているのは、まさしくこのようなマインドの相対化である。時代や社会のせいにしないで、自分自身が、自分の全責任においてどう考え、判断し、行動するか。そういう思考があることを説いているのである。

もちろんそれは理解してくれていると思う。しかしそれほど「時代が…、社会が…」思考は強力で根が深いのである。

技術者を目指している学生たちには、ぜひその時代と社会の価値観を変えるようなものづくりをしてほしい。そういう技術者になってほしいと願いながら、授業をしているのである。

採点が終了すればしばらくは夏休み。後期もまた熱く語りたい。

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思うて学ばざれば…

尚志館の今月の言葉は、

子曰わく、学びて思わざれば則ち罔し、思うて学ばざれば則ち殆し。

この前ブログに書いた、アウトプットばかりしていてはダメで、勉強による蓄積が必要だということと呼応しているようである。「自分の考え」や「自分の感性」は重要だが、それだけでは力を持たない。それどころか、危険でさえある。学問や勉強や実践によって、きちんとしたバックボーンが蓄積されていなければならないのである。

とここまで書いて、しかしまてよ、と思った。
尚志館の今月の言葉は、稽古に来ている大人に向けたメッセージを含んでいることが多い。おそらくこれも、館長からある人へのメッセージなのだろう。

それはさておき、さすが孔子さんの言葉である。肝に銘じたい。

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我骨髄より油をいだす

芭蕉は門人許六にこう言ったという。

いつとてもたれたれと俳諧するは、かやうの事と容易におもふ事なかれ。真ンに俳諧を伝える時は、我骨髄より油をいだす。かならずあだにも思ふ事なかれ。(『俳諧問答』「俳諧自讃之論」)

いつでも誰とでも同じように俳諧をする訳ではない。他の人とも、あなたと同じようにやっていると安易に考えてはいけない。特別な人にほんとうに俳諧を伝えようとしたときは、私は骨髄から油を絞りだすのだ、それを絶対にいいかげんに考えるなよ、というのである。

自分が特別な存在であったと言いたい許六の気持ちはここではおいておいて、おそらく芭蕉にはこのようなことがあったのだろう。もっともほとんどの弟子は、その芭蕉の覚悟をきちんと受け止めることはできなかった。師の骨髄より油を出す覚悟の教えを真正面から受け止めるには、自分も骨髄より油を出す覚悟で相対するほかないからである。

結局ほとんどの弟子は、師の変化についていけず脱落していったのであった。

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日本文化論終了

日本文化論も終了した。
この授業は学生の価値観を相対化する内容なので、学生の抵抗もかなり大きい。今年度の受講生は約300人。この人数相手にアウェー戦である。

それでも、毎年、極端に反感をもつ学生も何人かいるものの、私の話を深く受け止めてくれる学生も何人かいるので、やりがいがある。「授業の説明は私の知っている武道と全く違う。先生には武道の授業は無理だ」とアンケートに書かれたこともあるし、パワーポイントのスライドの使い方に関して、「手抜きだ。自分たちは授業料を払っていて、先生は給料をもらっているのだから、手を抜かずに準備すべきだ」と書かれたこともある。どうもその学生が考えている「正しい」使い方をしていなかったことが逆鱗に触れたらしい。大事なポイントが箇条書きにされていない、文字が黒だけである、などと具体的なご教示も頂いたので。

こういう学生のためには、大学院の授業、特にこの授業は、みなさんの価値観を相対化する授業です、頭で理解しようとすると凄く難しいですよ、自分が正しいと信じていることがほんとうに正しいかをきちんと問い直すことも大切ですよ、などというお話をしている。ちなみに、この前同じような学生についての記事を読んだ(東京大学には入ったけれど・・・ああ無常 人生の失敗を始める頭の”良すぎる”学生たち) 

しかし、その一方で、この授業を受けてよかったとか、全ての学生に聞かせたい、とか、工学部の学生にとってとても意味がある、とかいろいろ書いてくれる学生もいる。

今年もいろいろ書いてくれるだろうけど、今の段階の感じでは、ちょっと苦戦したかも知れない。しかしそれはそれでよい。

ただ来年度からは、少し語り口を変えよう。挑発しても学生の理解が深まる訳ではないようになってきたからである。来年度は、よい空気感で、お互いの理解が深まるような語り口に変えようと思う。うまくいけばテキストも使えるはずだし。いや、きっと間に合うはず。そうすれば、来年度はテキストを使いながら、お互いが気持ちよく理解を深めていけるはずである。

それ以外の授業も全て終了した。
あとは期末テストを残すのみである。

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日本文化特論(博士後期課程)終了

26日。
前期の日本文化特論(博士後期課程)が終了。
旧カリの学生(つまり建築を専攻していない学生)が2人と、建築の学生が1人の3人。テキストは『木のいのち、木のこころ』。

8割以上が雑談だった。毎時間、時間超過をして熱く語り続けた。もちろん学生も語ってくれた。いつも授業が終わってから、「これでいいのかぁ???」と不安になっていたが、今日、20分オーバーして授業が終わった後、1人の学生が、「かなり面白い授業でした。先生の他の授業にも出たい」と言ってくれた。他の学生も静かに頷いてくれたように感じた。涙が出るほど嬉しかった。

雑談だけで授業を成立させたいというのがかねてからの私の夢であった。ドクターの学生で、しかも非常に感度のいい学生ばかりだったということ、西岡棟梁や小川師匠がそれだけで素晴らしい存在だということに助けられながらではあるが、今回、それがだいぶできたように思う。

国文学1では自分(教師)の存在をほとんど消せたし、日本文化特論では雑談で授業を成立させられた。わたしくし、ちょっとレベルアップしたかも…。

とうぬぼれてはいられない授業が明日ある。がそんなことは気にしないで、うまくいった方を喜んでおこう。幸せ、幸せ。

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国文学1終了

前期の国文学1が終了。

朝の挨拶で、建築の学生が、設計課題やら学生コンペやらいろいろ忙しいという話をしたので、それも大切だけど、そんなことより、学生は「建築とは何か」「設計とは何か」「自分はなぜ建築の仕事をしたいのか」「自分の仕事の本質とは何か」等々、先人の知恵(本や現物など)を借りながら、じっくりゆっくり考える時間が大切であると話した。学生はアウトプットばかりしてないでインプット、つまり勉強すべしと。
ペーター・ツムトアもこう述べている。

私たちは、建築の歴史は自分の設計にはなんの影響もない、一般教養だと思っていた。そんなわけで、私たちはすでに創造されていたものを創造し、創造不可能なものを創造しようと躍起になっていたのだ。……しかし遅くとも建築家として実務に就く頃までには、建築の歴史に蓄えられた膨大な知識と経験を学んでおくほうがよいだろう。(『建築を考える』(鈴木仁子訳 みすず書房 2012年)23頁)

建築史は自分の設計の仕事には何の影響も与えない一般教養だと思っていた、しかし今はそうは考えない、「実務に就く頃までには」それをしっかり勉強しておいた方がいい、そう述べているのである。「実務に就く頃までに」、つまり学生時代に、である。

それをせずコンペやら何やらに忙殺されるのは、スポーツ選手が、じっくり実力を養う練習をせずに、試合ばかりをしているようなものである。もちろん試合は楽しいし、それによって学ぶものもある。それでしか学べないこともある。が、それだけでは長い目で見たとき、ほんとうに高いレベルにまで到達することが出来ないのではないだろうか。

「ほんとうに高いレベル」というのは、自分の全存在をかけることが出来るレベルである。自分の全存在をかけて生んでこそ、はじめて創造の域に達する。それが個性となるし、それまでの流れを変え、全く新しい価値観の提示ともなる。一所懸命というのとは全く違う。「ものをつくる」というのはそういうレベルでの話であるということが、初めから実践ばかりやっている人にはなかなか実感できないのである。

試合ばかりに出ていても、ある程度の才能があればそのリーグの中で一番になることはできるかも知れない。しかし、そのリーグ自体の意味、方向性の是非を問うことが難しい。そこで一番になることだけを目指していると、そこで通用している価値観自体を問うことが難しいのである。そういう仕事は空虚である。

誰かが指し示し、多くの人が目指している方向にむかって、一番前を走ることは出来ても、走る方向が変わればとたんに精彩を欠き、まして自分で新しい方向性を生み出すことができなくなってしまう。これでは「回転木馬のデッドヒート」である。「回転木馬のデッドヒート」は、充実感を生むが、真の意味での幸福感を生むことはできない。どこにも到達しないし、何も創造しないからである。

建築史が教えてくれるのは、建築の本質である。つまり、建築とは何か、建築は誰のためにあるのか等々であり、自分が建築に関わることの意味である。しかし、ツムトアが言うように、「実務」に就いてからではそれをゆっくり学んでいる余裕がなかなかない。だから、学生時代にそれをゆっくり、じっくり学ぶことがとても大切なのである。

これは何も建築に限ったことではない。他の専門の学生も同じである。自分がそれをやることの意味をよく考えることをはじめ、学生時代にしかできないことを学生時代にやるべきである。

こういう話をすると、大抵は鼻で笑われるか、「むかつく」と言われるのだが、この授業の受講生は、「まともな意見だ」と言ってくれた。そういう変な?(私から見ればまっとうな)学生が集まってくれた授業だった。とても楽しかった。学生に感謝、感謝である。

ちなみに最後の授業は、吉本ばななの『アルゼンチンババア』、小林秀雄と岡潔の『人間の建設』。国文学の授業で、学生とアインシュタインについて議論するとは、昔は思ってもみなかったが、これまた楽し。

最後は「人間にとって建設とは何か」(建築分野ではなく何かを作ること一般)についての議論。「ものづくり」というけれども、ものをつくるとは本質的にどういうことなのか。ものづくりに関わっているみなさんは、このことについてよく考えたことがあるのか?と問う。
発表者が、「この本には「人間は本質的に建設はできない」と書いてあったと述べたので、それを問うたのである。

学生のみなさん、もっともっと青臭い議論をしましょう!

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講演:宮内寿和氏「技と心」セミナー「これからの大工の仕事 ~木の家と職人の現状~

竹中大工道具館の「技と心」セミナー
宮内寿和氏(宮内建築・大工棟梁)「これからの大工の仕事~木の家と職人の現状~」
に行く。

Webサイトによる案内は下記のとおり。
ーーーーーー
あと40 年後には、日本の山から木がなくなってしまい、職人は絶滅危惧種に、日本では伝統的な住宅が建てられなくなるとも言われています。このような危機的な状況の中で、私達はさまざまな問題を抱えながらも、四寸角挟み梁工法の開発や木材の水中乾燥の実践など、常に日本の木造住宅の進化に取り組んできました。そのような日々の活動や仕事の話、住まい手とのやり取りをお話させていただきたいと思います。
------

宮内さんのお人柄がよく窺える、かなり面白いお話だった。
話は多岐に亘ったが、前半は「心」に重点をおいたお話をして頂いた。
「絶対電動工具を使わなかった」修行時代のお話。
大工の仕事とは何か、技術は何のためにあるのか、親方の覚悟とは何か、独立にあたって立てた誓い、大工職人として求められる能力とは何か等々。そして日本の森の話、若い職人さんの話。

宮内さんはよく「あなた(という人間)に建てて欲しい」と言われるらしいが、その意味がよく分かるお話だった。

親方と書いて何と読む?
理不尽と読む。

なるほど。
お話を聞いていて、私の理不尽さは全然足りていないと反省した。
もっと理不尽にならなければ、教え子に申し訳ない。

自分が関わる仕事で、人が幸せにならないならその仕事は絶対にやらない。

簡単そうでなかなか出来ることではない。それを実行された覚悟は素晴らしいとしか言えない。

セミナー修了後、「職人育て」と「人育て」、最近のお弟子さんの特徴、技術者の人間力などについて、お話をして頂いた。お弟子さんにも少しお話を伺った。そして、やはりここ(職人さんの世界)に、現在の日本の社会と教育が忘れてしまった大切な人育ての本質があるという思いを強くした。宮大工と町屋大工は全く違うということであったが、人育てという点においては、その本質は同じである。

これほどの「心」をもった大工さんに建ててもらった家は、さぞ居心地がいいに違いない。

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講座:橋爪大三郎氏「石田梅岩と勤勉な日本人」

今日の授業は、日本語コミュニケーションと日本文化論。
日本文化論が終わってすぐ、東京工業大学世界文明センターの講座、橋爪大三郎さんの「石田梅岩と勤勉な日本人」に向かう。
何とか間に合う。

橋爪さんが、石田梅岩をどう解説されるのか。日本思想にどういう展望をもっておられるのか。日本人はいつから、なぜ勤勉になったと橋爪さんは見ておられるのか等々にとても興味があった。

タイトルとは少し違って、お話は、鈴木正三、石田梅岩、上杉鷹山、松下幸之助の4人のひとと思想の解説だった。橋爪さんらしい切り口で、コンパクトにまとまっており、見通しのいいお話だった。いつも思うことだが、キーワードの言い換えが絶妙である。まったく違う次元から言い換えてくれるので実に分かりやすい。竹田師匠とは質が全く違う分かりやすさである。そして個々の解説が必ず本質と結びつくように解説される。話の進め方や間の取り方も勉強になった。

個々のお話はとても面白く勉強になったが、一番聞きたかったことは今回はお預けとなった。そのうち本格的に切り込んでくれるのを楽しみに待ちたい。

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