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授業 アーカイブ

日本文化論終了

日本文化論も終了した。
この授業は学生の価値観を相対化する内容なので、学生の抵抗もかなり大きい。今年度の受講生は約300人。この人数相手にアウェー戦である。

それでも、毎年、極端に反感をもつ学生も何人かいるものの、私の話を深く受け止めてくれる学生も何人かいるので、やりがいがある。「授業の説明は私の知っている武道と全く違う。先生には武道の授業は無理だ」とアンケートに書かれたこともあるし、パワーポイントのスライドの使い方に関して、「手抜きだ。自分たちは授業料を払っていて、先生は給料をもらっているのだから、手を抜かずに準備すべきだ」と書かれたこともある。どうもその学生が考えている「正しい」使い方をしていなかったことが逆鱗に触れたらしい。大事なポイントが箇条書きにされていない、文字が黒だけである、などと具体的なご教示も頂いたので。

こういう学生のためには、大学院の授業、特にこの授業は、みなさんの価値観を相対化する授業です、頭で理解しようとすると凄く難しいですよ、自分が正しいと信じていることがほんとうに正しいかをきちんと問い直すことも大切ですよ、などというお話をしている。ちなみに、この前同じような学生についての記事を読んだ(東京大学には入ったけれど・・・ああ無常 人生の失敗を始める頭の”良すぎる”学生たち) 

しかし、その一方で、この授業を受けてよかったとか、全ての学生に聞かせたい、とか、工学部の学生にとってとても意味がある、とかいろいろ書いてくれる学生もいる。

今年もいろいろ書いてくれるだろうけど、今の段階の感じでは、ちょっと苦戦したかも知れない。しかしそれはそれでよい。

ただ来年度からは、少し語り口を変えよう。挑発しても学生の理解が深まる訳ではないようになってきたからである。来年度は、よい空気感で、お互いの理解が深まるような語り口に変えようと思う。うまくいけばテキストも使えるはずだし。いや、きっと間に合うはず。そうすれば、来年度はテキストを使いながら、お互いが気持ちよく理解を深めていけるはずである。

それ以外の授業も全て終了した。
あとは期末テストを残すのみである。

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日本文化特論(博士後期課程)終了

26日。
前期の日本文化特論(博士後期課程)が終了。
旧カリの学生(つまり建築を専攻していない学生)が2人と、建築の学生が1人の3人。テキストは『木のいのち、木のこころ』。

8割以上が雑談だった。毎時間、時間超過をして熱く語り続けた。もちろん学生も語ってくれた。いつも授業が終わってから、「これでいいのかぁ???」と不安になっていたが、今日、20分オーバーして授業が終わった後、1人の学生が、「かなり面白い授業でした。先生の他の授業にも出たい」と言ってくれた。他の学生も静かに頷いてくれたように感じた。涙が出るほど嬉しかった。

雑談だけで授業を成立させたいというのがかねてからの私の夢であった。ドクターの学生で、しかも非常に感度のいい学生ばかりだったということ、西岡棟梁や小川師匠がそれだけで素晴らしい存在だということに助けられながらではあるが、今回、それがだいぶできたように思う。

国文学1では自分(教師)の存在をほとんど消せたし、日本文化特論では雑談で授業を成立させられた。わたしくし、ちょっとレベルアップしたかも…。

とうぬぼれてはいられない授業が明日ある。がそんなことは気にしないで、うまくいった方を喜んでおこう。幸せ、幸せ。

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国文学1終了

前期の国文学1が終了。

朝の挨拶で、建築の学生が、設計課題やら学生コンペやらいろいろ忙しいという話をしたので、それも大切だけど、そんなことより、学生は「建築とは何か」「設計とは何か」「自分はなぜ建築の仕事をしたいのか」「自分の仕事の本質とは何か」等々、先人の知恵(本や現物など)を借りながら、じっくりゆっくり考える時間が大切であると話した。学生はアウトプットばかりしてないでインプット、つまり勉強すべしと。
ペーター・ツムトアもこう述べている。

私たちは、建築の歴史は自分の設計にはなんの影響もない、一般教養だと思っていた。そんなわけで、私たちはすでに創造されていたものを創造し、創造不可能なものを創造しようと躍起になっていたのだ。……しかし遅くとも建築家として実務に就く頃までには、建築の歴史に蓄えられた膨大な知識と経験を学んでおくほうがよいだろう。(『建築を考える』(鈴木仁子訳 みすず書房 2012年)23頁)

建築史は自分の設計の仕事には何の影響も与えない一般教養だと思っていた、しかし今はそうは考えない、「実務に就く頃までには」それをしっかり勉強しておいた方がいい、そう述べているのである。「実務に就く頃までに」、つまり学生時代に、である。

それをせずコンペやら何やらに忙殺されるのは、スポーツ選手が、じっくり実力を養う練習をせずに、試合ばかりをしているようなものである。もちろん試合は楽しいし、それによって学ぶものもある。それでしか学べないこともある。が、それだけでは長い目で見たとき、ほんとうに高いレベルにまで到達することが出来ないのではないだろうか。

「ほんとうに高いレベル」というのは、自分の全存在をかけることが出来るレベルである。自分の全存在をかけて生んでこそ、はじめて創造の域に達する。それが個性となるし、それまでの流れを変え、全く新しい価値観の提示ともなる。一所懸命というのとは全く違う。「ものをつくる」というのはそういうレベルでの話であるということが、初めから実践ばかりやっている人にはなかなか実感できないのである。

試合ばかりに出ていても、ある程度の才能があればそのリーグの中で一番になることはできるかも知れない。しかし、そのリーグ自体の意味、方向性の是非を問うことが難しい。そこで一番になることだけを目指していると、そこで通用している価値観自体を問うことが難しいのである。そういう仕事は空虚である。

誰かが指し示し、多くの人が目指している方向にむかって、一番前を走ることは出来ても、走る方向が変わればとたんに精彩を欠き、まして自分で新しい方向性を生み出すことができなくなってしまう。これでは「回転木馬のデッドヒート」である。「回転木馬のデッドヒート」は、充実感を生むが、真の意味での幸福感を生むことはできない。どこにも到達しないし、何も創造しないからである。

建築史が教えてくれるのは、建築の本質である。つまり、建築とは何か、建築は誰のためにあるのか等々であり、自分が建築に関わることの意味である。しかし、ツムトアが言うように、「実務」に就いてからではそれをゆっくり学んでいる余裕がなかなかない。だから、学生時代にそれをゆっくり、じっくり学ぶことがとても大切なのである。

これは何も建築に限ったことではない。他の専門の学生も同じである。自分がそれをやることの意味をよく考えることをはじめ、学生時代にしかできないことを学生時代にやるべきである。

こういう話をすると、大抵は鼻で笑われるか、「むかつく」と言われるのだが、この授業の受講生は、「まともな意見だ」と言ってくれた。そういう変な?(私から見ればまっとうな)学生が集まってくれた授業だった。とても楽しかった。学生に感謝、感謝である。

ちなみに最後の授業は、吉本ばななの『アルゼンチンババア』、小林秀雄と岡潔の『人間の建設』。国文学の授業で、学生とアインシュタインについて議論するとは、昔は思ってもみなかったが、これまた楽し。

最後は「人間にとって建設とは何か」(建築分野ではなく何かを作ること一般)についての議論。「ものづくり」というけれども、ものをつくるとは本質的にどういうことなのか。ものづくりに関わっているみなさんは、このことについてよく考えたことがあるのか?と問う。
発表者が、「この本には「人間は本質的に建設はできない」と書いてあったと述べたので、それを問うたのである。

学生のみなさん、もっともっと青臭い議論をしましょう!

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私は消えた…

本日の国文学。

プレゼンのあと、学生が勝手に質疑応答をはじめ、勝手に盛り上がっていた。私はただの一員としてそれに加わった。
最後のプレゼンが終わったときも、来週の応答プレゼンを誰が何をやるかを学生が勝手に決めた。私はその結果を聞いてメモしただけである。

結局この授業で私が明示的に行った行為は、授業開始、プレゼン者の交替、授業終了の、三つの合図だけだった。それで授業が完全に成立しており、しかもとても盛り上がっていた。

つまり私はこの授業から、教員としてはほとんど消えることができたのである。

教師がその場にいて授業を成立させながら、その存在が明示的には消えている状態。これは理想的な状態である。すばらしい学生のお陰で、はからずもそうなった。学生に感謝したい。

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圧倒的な準備

国文学1。
お薦め本を発表するプレゼン。

何枚めかのスライドにお薦め本の目次があった。
彼は言った。

みなさん、どこの説明が聞きたいですか?

第5章!

分かりました。第5章ですね。

と言って、瞬時に第5章の説明スライドが出て来た。何でその章がリクエストされるのが事前に分かったのか?「手品みたい!」と盛り上がった。

何のことはない。彼は全ての章の説明スライドを用意していたのである。そして、リクエストされた章のスライドに一発でジャンプしたのである(一発ジャンプの方法も教えてくれた。知らなかったので勉強になった)。

発表時間が7~8分のプレゼンに、彼は18枚のスライドを用意してきた。そこには使わないはずのスライドが何枚もそこに用意されていた。

単位を取るために最低限の努力しかしない学生もいるが、彼のように、楽しみながら、圧倒的な準備をしてくる学生もいる。そして前者が、余った時間と労力を有効に使って、何か大きな仕事をしたという話は、寡聞にして知らない。彼のような学生が、とてもいい仕事をしたという話は枚挙に暇がない。

そして、こういうプレゼンがあると、授業がとても楽しくなるのである。

来週発表予定の学生は、ハードルが上がって大変だが、さらにいいものを期待したい。
がんばってね~

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懇親会

6日。これで終わりです。
懇親会。


乾杯~!


北京ダックです


太極スープ???


gahahaとyamahaに囲まれて


最後に集合写真

しかし、熱い議論はまだまだ続きます。

私たちはいつまででも喋ります。
理想を追い求めて。

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徹底討論!! 「理想のコミュニケーション教育とは何か」

まだ6日の続き。

午後からは 徹底討論!! 「理想のコミュニケーション教育とは何か」。

午後の仕切り(ファシリテーターというのだそうです)は、沼津高専の大石加奈子先生

真面目な議論あり。

その中に笑いあり。

コミュニケーションについての討論でこの笑顔!!


さすがファシリテーター

2時間の徹底討論、あっと言う間に終了。

この後は懇親会へ。

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シンポジウム「技術者の話はなぜ通じないのか」第二部

6日。続き。

シンポジウム「技術者の話はなぜ通じないのか」第二部。
第二部は学生ぬきでディスカッション。

第二部も約90分間、濃いディスカッションが繰り広げられました。

その後は、学生を交えての昼食会。

それぞれのテーブルで、いろいろな話で盛り上がっていました。

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シンポジウム「技術者の話はなぜ通じないのか」第一部

6日。
今日は日本語コミュニケーションデー。

「技術者のための日本語コミュニケーション教育研究会」キックオフシンポジウム・ 高専連携教育研究プロジェクト「日本語コミュニケーション能力」養成プロジェクト事業

(1)-1シンポジウム 「技術者の話はなぜ通じないのか?」第一部
(1)-2シンポジウム 「技術者の話はなぜ通じないのか?」第二部(2) 昼食会(12:10~13:00 ひばりラウンジ)
(3) 徹底討論!! 「理想のコミュニケーション教育とは何か」

パネラーとしてヤマハ株式会社から堀池彰夫氏、Z会(国語力研究所)から堀池香苗氏をお迎えし、高専からも日本語コミュニケーション養成プロジェクトメンバーが集結した。また、武道部卒業生も数名、在学生120名程が参加した。


たくさん集まって下さいました


みなさん熱心に聞いて下さっています


こちらの方々も


パネラーの堀池彰夫氏


パネラーの堀池香苗氏


司会の井上次夫氏


パネラーのわたくし


はげしい議論の応酬


盛り上がってきました


会場が笑顔に包まれて


会場が一体となって


思わず立ち上がるパネラーたち

なんだかんだいって、私が一番楽しそう!

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日本文化論

今日の日本文化論はかなり熱く語った。

武道の心法について。
武道を学ぶ現代的意義について。
技科大で武道を講じる意義について。

ほぼ90分、熱く、熱く、語り続けた……はず。

さて、どのくらい分かってくれたか。

来週もまた熱く語ります。

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