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林良祐『世界一のトイレウォシュレット開発物語』(朝日新書)
林良祐『世界一のトイレウォシュレット開発物語』(朝日新書)を読む。
「おしりを洗って30年」という魅力的な帯が付いている。
肛門の位置はどこか?
おしりに当たって快適に感じる温度は何度か?
そのお湯をどの角度で当てるか?
著者達は自分自身の「おしり」を以て1日16時間交代で実験を繰り返し、ついに「黄金律」を導き出した。
お湯の温度38度、便座の温度36度、乾燥用温風50度、ノズルの角度は43度。
さらに、おしり洗浄の43度に対して、ビデ洗浄は53度。ノズルの噴出口は、おしり洗浄3穴、ビデ洗浄5穴。
その他にも多くのエピソードが語られている。苦労の中にも楽しさと充実感に溢れた本である。開発につきものの、他からのヒント、例えば信号機や車のアンテナにヒントを得て開発されたものについても言及されている。
本書で語られているのは、新しい「もの」づくりの開発物語であるが、この「もの」とは「文化」であると著者はいう。
実は、TOTOが目指すものに「文化をつくり出す」ということがある。
最新の技術によって、人々の暮らしを快適にする精進を開発してきたわけであるが、単に「困った」を解消するだけなら、それは「手段」でしかなく、文化の創造までには至らない。40頁
「私はTOTOに入社して、ものをつくり、文化をつくるとはどういうことなのかを徹底的に学んだように思う」という著者は、技術者に対し次のようなメッセージを送っている。
シャワーだけ作っても、「ライフ」が変わるまではいかない。シャワーを使ってどんな生活がしたいのか。それを支える技術とはいかなるものか。技術者はそこまで考えて新しい技術を生み出すべきだと私は考えている。49頁
ものづくりの現場はこの20年で大きく変化したという。
著者の駆け出しの頃は、予算不足で実験用の試作品を自分で作らなければならないときがあり、どうやって作るか考えていると、「作るなんて10年早い、まず掃除や」と言われた、という。それが、
遠回りはあるけれども、時間があるのなら、こうしたアプローチのほうが正しい、と思う。それが技術者にとっての財産になるからだ。54頁
それに比べて現代は、「スピード感はあるが、その「知識」は非常に薄いものと言わざるを得ない」という。
ハードな修行時代、心が折れそうになっても、くじけることがなかったのは、その技術を使って、それまで世の中になかった商品が生まれ、流通していくということの面白さを実感したからだろうと思う。55頁
アメリカでの苦労話も実に興味深い。
アメリカにやってきて、私はいかに、これまでの自分が驕っていたのかを知った。(略)これまでは技術者同士でしか話をしてこなかった(コミュニケーションをとってこなかった)ことにも気がついた。(略)「自己の力を高めない限り、ここではまったく通用しないんだ」
私は「成長」を目標に掲げた。74頁
また日本の強みである「現場の底時力」についてはこう語られている。アメリカで買い取った工場は、
足の踏み場もないほど荒れ、従業員はラジカセから大音量の音楽を流して作業をしていた。とても統率がとれているとはいえなかった。
ここに、(略)TOTOのものづくりの精神を注入し、工場の再生に取り組んだのである。そしてわずか1年で、ゴミひとつない工場へと変化した。(略)ひとえに、現場を変えることができたのは、現場を任された人間の推進力、本当の底力だった。83頁
さて、全く新しいものを作るためには、それまでの「常識」を壊さなければならない。
私たちが最初に取り組んだのは、デザイナーの意識を変えることだった。(略)デザイナー自身が「ウォシュレットとはこうあるべき」という、「常識」にとらわれ、ブレーキをかけていたのである。103頁
まさに「Stay foolish」である。
2005年9月、1泊2日の合宿会議、アイデア検討会議「夢会(夢を見る会)」が開催された。「夢を持って仕事をしよう」というその会議で、「さらなるグローバル展開を見据えて」、「日本らしさ、日本人らしさとは何か」が話し合われたという。「日本のメーカーとして世界に打ち出すトイレのデザインとはどういうものか」という訳である。
そこで出て来たのは、
自然とともに生きて生きた日本人は、美しさを瞬間的に心に富める繊細な感性を日常的に育んできた。真の「気持ちのよい空間」とは、五感すべてが気持ちよいと感じて成り立つ。129頁
「禅寺の美しく掃き清められた庭」のような「静かな存在感」。いいですねぇ。グローバル展開するためには、日本の良さを徹底的に追究すべきだと私も考えているのであるが、TOTOのようなメーカーがそれを具現化して下さるととても有り難い。
それにしても、「サイボン式」「サイボンゼット式」「フラッシュバルブ式」「シーケンシャルバルブ式」等々、いろいろあることを知って驚いた。しかし一番驚いたのは1秒間に70回以上の脈動を与える「ワンダーウェーブ洗浄」である。まさしくワンダーだ。こんなことを知ってしまったからには、ノズルから噴射される水を見たくなるし、トイレでの水の流れ方をよくよく観察したくなってしまうというものである。これからは心してお尻を洗い、心して流さねばなるまい。
ノズルが清潔だと言い張るのなら、舐められますか?156頁
これまた厳しい言葉である。がこれは、一般使用者ではなく、女性開発担当者の言葉である。もちろんこの声に応えるべく、10年かけて新しい方式が開発された。
技術的問題などで、なかかな採用されなかったのだ。しかし研究者はあきらめることなく、これがノズル洗浄に使えると、ひそかに社内のウォシュレットにつけて検証を続けていた。そして10年がたち、きれいなノズルのデータを見せながら、「信用して下さい」と主張した。159頁
著者はこれを「開発者の「意地」」と言っている。
おしり洗浄の水で目を洗えますか?160頁
これはビデ洗浄に関しての、やはり女性開発者の言葉である。当然これにも答えるべく新しい技術が開発されたのである。
世界一のトイレを作る。その夢と誇りにあふれた本である。
補足)
50頁に、職人さんの試作品と量産化の問題が語られていて、これも興味深い。著者が考えているのはあくまで量産である。
人間の感性に対するリスペクト~クローズアップ現代「世界を変えた男 スティーブ・ジョブズの素顔」
NHKクローズアップ現代「世界を変えた男 スティーブ・ジョブズの素顔」を見た。
前刀禎明さんがジョブズのやり方をこう語っておられた。
この商品、この製品はこんな機能があってこんなことができますよ」ではなくて、あくまでも「人々がそれをやって嬉しいかどうか」ということが重要なんですね。
いい言葉である。
私は、今乗っている車を買うとき、二つのディーラーに行った。まず日本メーカーが立ち上げたばかりの高級ブランドのディーラーに行った。買う気はなかったのだが、新聞に「最高級のサービスを体感して下さい」と試乗会の宣伝が出ていたので、体験させてもらおうと思ったからだ。説明した下さった方は、この車は「何が出来るか」、いかに最先端技術が満載されているかを熱心に力説された。
これがそのブランドやその方の特殊な傾向ではないことは、後日その親会社の方が勤務先に講演に来られたときに分かった。その方が語られた未来の車は、まさしく最新技術が満載されていて、「こんなことも出来たら楽しいですね」、「あんなことも出来たら楽しいですね」、というお話だったからである。「快適さ」とは、最新技術の謂いだった。
さてその後、もう一つのディーラーへ。対応して下さった方は、車の機能の話は全くされず、いかに自分がこの車を愛しているか、この車を運転しているときにどのくらい幸せ感が得られるかだけを楽しそうに話された。
運転していて、すっごく楽しいんですよぉ~。 この空間が、とっても気持ちいいんですよぉ~
って。
私が分かったのは、この方がとてもこの車を愛しているということだけであった。そして買うことにしたのである。
パンフレットを見て驚いた。「キーをささなくてもリモコンでロックと解除ができます」と自慢げに書いてあったからだ。そんなの今時どの車でもできるんじゃないのぉ~??? さっきのディーラーの車は、キーをポケットに入れたままでいいと言ってましたけど……。しかもキーがめちゃくちゃデカい。さらに追い打ちをかけるように、
ドアミラーもあんまり開閉していると壊れるかも知れないので、私は閉じません。
って言われたし。
そして私は理解したのである。それぞれの方が「大切にしているもの」が違うのだということを。そしてどちらを買うかということが、自分が何を大切に生きるのかという選択であるということを。
クローズアップ現代に話を戻す。
福田尚久さんがこういうエピソードを披露された。
アップルストアを開くとき、本社近くの倉庫の中に実物大のお店を何度も何度も作った。そのとき、テーブルのウッドの素材など一つ一つにこだわった。ドアノブを作るだけでも何億円かかかっていると思う。それくらいの数の試作を延々と続けた。
ドアノブ。そういえばこの前、尚志館メンバー食事会で、「世界一気持ちいいドアノブ」の話をしたのを思い出した。私が建築の院生に、「「世界一気持ちいいドアノブの研究」って学会で発表できるの?」と聞いたのである。一日に何度も触れ、家に帰ってきた時に最初に触れるドアノブ。これがとても気持ちよくって「家に帰ってきた幸せ感」が感じられたら、そんな家はとてもいいのではないか。だったら、家を設計する人はそれを研究すべきではないか。そして学会で「世界一気持ちのいいドアノブ」の研究があってもいいじゃないか。
尚志館メンバーの食事会だったので、それを契機に話は盛り上がったのだが、授業でこういう話をしたら、ある学部生に、
先生はそういうの感じるかも知れないけど、普通の人は感じませんよ。今の世の中大切なのは、効率とコストですよ。
と言われた。高専でそういう「勉強」をしてきたのだろう。しかし福田さんはジョブズの哲学をこう説明されたのである。
絶対にお客さんは分かってしまう。分かるから最善をつくさなきゃいけないんだ。人間の感性に対しての、人間に対してのリスペクトなんですよね。
人間(の感性)に対するリスペクトを欠いたものづくりは空しい。先の学生も、ほんとうはそのリスペクトを失ってはいない。なぜなら私の授業を選択しているということは、そういうことにほんとうは関心があるということなのである(でなければ私の授業は苦痛でしかない)。彼が私に先のように言ったとき、彼の中で何かが動き出したに違いない。私はそれを信じて疑わないのである。
「表現」という行為はそういう力を持っているからである。
選択授業の選択
先週から後期の授業が始まって、履修登録はまだ締め切られていない。締め切りまで2回ほど授業がある。私が大学生の頃も同様のシステムになっていた。1回めに授業に出てみたものの、やっぱり別の授業がいいということがあるからである。当時はシラバスなどは形ばかりのもので、何年も前のまま、しかも2行程度のものが普通だった。シラバスなんて書かない先生もたくさんいた。だから1回目の授業に出ないと、その授業で何をやるのかさえ分からなかったのである。
しかし、私と私の周りの友達は、2回めから出る授業を変更することはほとんどなかった。だいたいなんとなくの情報はあったし、自分の直感で、なんとなく面白そうな授業をとったからである。もちろん失敗もしたが、それはそれで得るものも多かった。
それに比べれば、今は、毎回の授業内容や達成目標、評価基準などが明記されている。各段の情報量なのであるが、年々、2回目からの移動が増えているような印象である。私の授業からいなくなる学生もいれば、2回めからやって来る学生もいるのであるが、その数が多いのである。これは、
可能な限りの情報を集めて、比較検討した上で、間違いのない選択をしたい。
というマインドの現れだと思う。2、3年前に聞いた話では、友達で手分けして授業に出て、後で情報を持ち寄って検討するという強者もいるらしい。何をそれほど真剣に検討しているかというと、その授業が自分の将来にいかに役立つかということである場合もあるだろうし、どれが一番楽に単位をとれるかという場合もあるだろう。そのあたりは知らん。
今日の授業でも、先週はいなかった学生が朝の挨拶で、
今、履修登録期間中なので、どの授業をとるかをのんびり決めています(ので今日はこの授業に来ました)。
という学生がいた。今日はもう2回めの授業なんですけど……ね。みなさんにそこまで真剣に検討していただけるとは、教師名利に尽きるというものである。しかし私の経験からいうと、そうやって受講をお決めになった学生が、なんとなく面白そうだと思って(さしたる動機もなく)最初からいた学生より、より熱心に、より真剣に授業に打ち込んでくれる確率は極めて低いのである。
「なんとなくの直感」を信じましょうよ。少なくともそこには自分がこれまで生きてきた人生が詰まっているのだから。
それが信じられなくなると、情報を集めて比較検討したくなるのであるが、でも結局最後に決断するのは自分の「なんとなくの直感」によってでしかないんだから。
あくまで私の印象でしかないが、2回め以降移動する学生が増えているのだとすると、この「なんとなくの直感」を信じられない学生が増えてきているということなのだろう。
そういう話をたまに学生にすると、「でも後悔したくない」と言う。少なくとも可能な限りの情報を集めて、しかるべき根拠をもって決めたら、失敗したときにショックが小さいのだそうだ。ほんとうかな? それって、失敗したとき、自分の外の何かのせいにできるということなのではないのかな。それによって自分を守ることができるということなのか? 変なの。
しかし残念ながら、後悔するかしないかの分かれ目は、どれを選択するかということ自体にはほとんどないのである。授業なら、その授業の半年間を自分がどう過ごしたかにかかっているからである。
先日NHKのETV特集で、「名物社長の採用面接~中国水ビジネスの風雲児」という番組をやっていた。面白いことがたくさんあったのだが、今回の話題でいうと、
うちに来てくれるなら内定を出したい。
という社長に対して、
御社が第一志望ではあるけれども、他にもまだうけているところがあるので、全部出揃ってから検討したい。
と答えた学生が何人もいたことである。それでも決断を迫る会社に対し、ある者は辞退し、ある者は入社を決断した。
これって、選択の授業を決めるときのマインドと全く同じである。もちろん気持ちは分かる。しかしその選択がよかったかどうかは、その時点では分からないし、ずっと先にも結局は分からない。ただ分かっているのは、なんとなくでも決めた以上、自分はその人生を歩む以外にないということである。
答えは選んだ道自身にはない。その道を自分がどう歩いたかということの中にある。
そのために学生諸君、選択授業の選択は、もっとシンプルに、「なんとなくの直感」ですぐに決めてくれたまえ。でないと本格的に授業に入るのが、ずいぶん遅くなってしまうのだよ。頼む。ね。
凡事の蓄積と非凡化
『日経ビジネス』の案内が送られてきた。
その中に、2011年5月9日号に掲載された、野中郁次郎さんの言葉が紹介されていた。
日々の仕事という凡事の連続が蓄積していく中で、ある時、非連続が生まれ、凡事が非凡化する。それがイノベーションにほかならない。その変化は、日々の凡事を積み重ねているから気づくことができる。
早速本文を読んだ。
短い談話だが、非常に面白かった。
野中さんは、「資本主義の本質をイノベーション(革新)による不断の発展過程ととらえた経済学者ジョセフ・シュンペーターは、その担い手を既存構造の破壊と創造(創造的破壊)を遂行する「アントプレナー」と位置づけた」が、日本の場合は少し違った展開をしたという。
それは「衆知経営」(松下幸之助)である。社員一人ひとりが「実践的な智恵」をもって動ける経営である。では、そのような社員の「実践知」を高めるには何が必要か。
第1に現場での「即興の判断力」だ。
そのためには、何が「善いこと」なのかという価値基準が共有されていなければならないという。
「善いこと」に対する価値基準を共有し、あとはそれに従って一人ひとりが現場で具体的な判断をして実践してゆくというのである。野中さんの談話のニュアンスからは、昔の日本企業はそれができていた、と受け取れる。
おそらくそうだろうと思う(もちろん今でもそういう企業はたくさんある)。
日本の教育は長らくそのような教育を行ってきた。「そのような」というのは、一部の優れた人材を養成するのではなく、基本的には同じことを徹底して繰り返し、全員それを修得することを前提としてきた、という意味である。いわゆる「底上げ」教育をしていたのであり、それがそのまま日本の「底力」となったのである。そして重要なのは、これまでも数多くいた日本の優れたリーダーたちも、まさしくそのような「底力」の基盤から生まれたということである。
小山田良治さん(五体治療院代表)が「結局はトップアスリートほど、こうした地味なトレーニングを大切にしているんです」(小山田良治監修 織田淳太郎著『左重心で運動能力は劇的に上がる! 』(宝島社新書)あとがき)というように、トップアスリートほど「底力」の大切さを理解している(こちら)。マエチンが同じことを何度も繰り返すことについては、このブログに何度も繰り返し書いている(同じことを繰り返す)。
だが、一般的にはそのような価値観が否定されてから、もう数十年がたつ。もっと生徒が主体的に、個性的に、自ら学び考える教育がよしとされた。「底力」ではなく、トップパフォーマンス?(「底力」の反対は何と言うのでしょうね?)を引き上げることが推奨されたのである。
では企業の、「現場での実践知を弱体化させ」たものは何か。
米国流の経営に強く影響を受けた分析至上主義と過剰なコンプライアンスだ。
と、野中さんは述べている。これが現場での「即興の判断力」の妨げになっていると。
そして、
実践知を高める第2の条件は、「凡事の非凡化」である。
「凡事」とは、「底力」のことである。「非凡」とはイノベーションである。「非凡」は「凡事の蓄積」から生まれる。その逆ではない。そう野中さんは言っているのだと思う。
企業が直面する多くの混乱や困難を乗り越えるには、イノベーティブな試みが必要になる。ただ、イノベーションは、「やろう」と思い立って起こせるものではない。日々の仕事という凡事の連続が蓄積していく中で、ある時、非連続が生まれ、凡事が非凡化する。それがイノベーションにほかならない。その変化は、日々の凡事を積み重ねているから気づくことができる。
イノベーションは、「日々の凡事」の連続からしか生まれない。「日々の凡事」がなければ、それがイノベーションであることにも気づくことができない。一時期よく言われたセレンディピティも、「凡事の連続」の蓄積なしにはあり得ないはずである。
そうだとすると、「創造性」を養う教育、イノベーションを起こせる人材育成にほんとうに必要なのは、「凡事の連続」なのではないのか。個性を発揮し、主体的に動け、現場で高い実践知を発揮できる人間を育成するために、「共通善」の価値観の共有と「凡事の連続の蓄積」が必要なのではないのか。
私には、「イノベーション、イノベーション」と叫び、「非凡」を評価し「凡事」を低く見る価値観が、そこ(イノベーション)からどんどん離れていっているような気がしてならない。求めるものは足下にある、というのは昔から教えられてきたことではなかったのだろうか。「脚下照顧」とは履き物を揃えよ、ということだけではないのである。
自分に嘘をついては……
ある方とマスターのところへ。
教育、建築、感性と工学の話をする。
とても共感できることが多かった。
彼は自分のめざすもの、自分の方法に対して、常に自問自答しながら、迷い悩みながら研究を進めていることがよく分かった。
嬉しかった。その感度が私にはとても大切なのである。
彼は感性や感覚をとても大切にしている。しかしそれを工学の中で展開するのはとても難しい。しかしそこが自分が立っている場所である以上、そこで実現するしかない。それを諦めずにやろうとしている。
彼は数年前、日本との関係を絶ち、海外に一人で出かけた。そこで暮らすうちに、初めて自分に突きつけられたことがある。
所属や立場を捨てて裸になたっとき、自分に何ができるのか。
彼はそれを必死に考え、求めた。そして、こう思ったという。
自分に嘘をついて生きてゆけない。
彼には大きい仕事をしてほしい。
白川静「文字講話」DVD完全収録版
白川静「文字講話」DVD完全収録版全24回の第一話「文字以前」を見る。
恥ずかしながら白川静さんが話しておられるお姿を初めて拝見した。もちろん。お声も初めて聞いた。
第一話は88歳(89歳の直前)。非常に力強い講義である。聴衆に媚びず、凛とした態度で講義されている。切れもテンポもいい。話のレベルも極めて高い。
余計な装飾が一切無く、学問の話だけに集中した講義。すばらしい。「学者」の講義とはこういうものだと思わせる。それが、ご本人の「声」で聞けるのが有り難い。本から聞こえてくる声と生の声は全く違うからである。ちなみに私が今まででその違いに一番驚いたのは小林秀雄だった。
学者の中の学者のご講義。これから順番に、心を引き締めて聴講致します。
魯山人『個性』を読む
北大路魯山人の『個性』を読んだ。
字でいえば、習った「山」という字と、自分で研究し、努力した「山」という字が別に違うわけではない。やはり、どちらが書いても、山の字に変わりはなく「山」は「山」である。違いは、型にはまった「山」には個性がなく、みずから修めた「山」という字には個性があるということである。みずから修めた字には力があり、心があり、美しさがあるということだ。
魯山人ほどの人が型の重要性を理解していないはずはない。この文章も型に対する陳腐な理解ではなく、型の恐ろしさを十分知り尽くしている人間の言葉と解すべきだろう。
型から入り、それに徹することによって自ずから型から抜け出し、個性は出てくるのであるが、その際重要なのは、自ら修得しようという「精進」である。
習うな、とわたしがいうことは、型にはまって満足するな、精進を怠るなということだ。
この「精進」への執念がなくては、型から抜けられない。
型を抜けねばならぬ。型を越えねばならぬ。型を卒業したら、すぐ自分の足で歩き始めねばならぬ。
ではこのためにどうすればいいか。最初にまず徹底的に「型にはまる」ことである。型に徹するためには、それまでの自分を一端全部捨てねばならない。これは極めて困難である。武道の修行を初めれば、誰でも「型通りに動く」ことがいかに困難かがすぐに分かる。
だが「型にはまって満足する」人とは、実はこの「はまり」が中途半端な人なのである。徹底して「型にはまった」人は、その徹底によって自ずと型を越え出て行く。なぜなら「自分の足で歩」くことができる人でなければ、型にはまりきることができないからである。
それまでの自分の「自然」と、型の要求する「自然」は最初は矛盾する。型通りに動いたり、考えたりすることは、普通の人間には最初、とても「不自然」なのである。自分の動きと型の要求する動きが齟齬したとき、中途半端な人は、自分の動きを大切にする。そういう人こそが、いつまでも型から抜けられないのである。
もちろんうまく型にはまれたとしても、途中で「精進」を忘れてしまっては、やはり型から抜け出せない。そういう人は、一応、「正しい」ことができるから逆に始末が悪い。
型にはまって習ったものは、仮に正しいかも知れないが、正しいもの、必ずしも楽しく美しいとはかぎらない。個性のあるものには、楽しさや尊さや美しさがある。
大切なのは「楽しさや尊さや美しさ」であって、「正しさ」ではない。「正しさ」なんて、誰でも辿り着ける。
しかも、自分で失敗を何度も重ねてたどりつくところは、型にはまって習ったと同じ場所にたどりつくものだ。そのたどりつくところのものはなにか。正しさだ。
魯山人は、自分で試行錯誤を重ね、精進を重ねれば、「楽しさや尊さや美しさ」が生まれ、さらには、型など習わずとも「正しさ」に辿り着けると考えていたようである。やはり天才だったのかも知れない。
さて、個性については、魯山人はこう述べている。
それでは、個性とはどんなものか。
うりのつるになすびはならぬ――ということだ。
自分自身のよさを知らないで、ひとをうらやましがることも困る。誰にも、よさはあるということ。しかも、それぞれのよさはそれぞれにみな大切だということだ。
それぞれにそれぞれのよさがあり、無い物ねだりをしてはいけないということである。
こうも言っている。
牛肉が上等で、だいこんは安ものだと思ってはいけない。だいこんが、牛肉になりたいと思ってはいけないように、わたしたちは、料理の上に常に値段の高いものがいいのだと思い違いをしないことだ。
だいこんがだいこんであることのよさを忘れず、型に囚われず、自ら修めようとする志をもって試行錯誤に励んだとき、楽しさも美しさも個性も自ずと生まれる。そう魯山人は言っているのである。あるいは逆に、それが生まれるまで「精進」せよ、ということか。
第4回愛知県観光交流サミットin奥三河(2)今井彰氏講演
23日。
第4回愛知県観光交流サミットin奥三河 午後。
午後は特別記念講演。
〔特別記念講演〕
今井彰氏「日本人の底力~夢を叶えた仕事人達」
作家・元NHKエグゼクティブプロデューサー
『プロジェクトX~挑戦者たち』チーフプロデューサー
準備中
涙が出そうになった。そして勇気と元気がでた。このような講演をきけて幸せだ。そう思った。
一緒に行った武道部員と卒業生もみなそう感じたようだ。彼(女)らは全員、技術者とその卵である。講演が終わったときの彼(女)らの顔はとても明るかった。ほんとうに来てよかった、という表情をしていた。そしてこれから自分も頑張ろうというやる気に満ちた顔だった。
その予感は講演前からあった。始まる前に購入した本を、講演前にみな一心不乱に読み始めたのである。今勉強中の学生。来年就職が決まっていて期待と不安の中にある学生。今会社で技術者として働いている卒業生。いろいろな思いを抱えてここにやってきた若い技術者(とその卵)たちの心に、今井さんの言葉が、そっと、そして確かに触れた。もちろん私の心も鷲掴みにされた。
今井さんの話から私が受け取ったのは、日本を支えてきた日本の技術者たちの、「夢」と「誇り」と「技術力」の素晴らしさである。そしてそこに現れたリーダーたちの「人間」としての魅力である。
「日本人の底力」とは、「人間力」溢れるリーダーのもと、「夢」と「誇り」と「技術力」をもった技術者たちが渾身の力を発揮したところにある。そう感じた。
リーダーについては『ゆれるあなたに贈る言葉』(小学館)にもこう書かれている。
プロジェクトXを通じて本物のリーダーたちの生き様を見てきた。個性や人生経験に裏打ちされたもので、表現は様々であったが、根底に流れる人間観、目標の見据え方、仕事へのこだわりなど、不思議に相似しているのである。
最後に問われているのは人間力である。人を包み込む情であり、自分を受け止めてくれる器の大きさである。鬼や仏にはなれないが、人間力を磨き上げることは可能だ。(88頁)
そして、そのリーダーについていった多くの無名の技術者たちは、高い技術力を持ち、高い志と夢を持ち、誇りを持っていた。それを可能にしたのが、「目の前のやるべきことをきちんとやりきる」という日本の多くの人が持っていた価値観ではなかったか。講演で紹介された「全島1万人 史上最大の脱出作戦~三原山噴火・13時間のドラマ~」における大島町役場助役秋田壽さんの言葉がそれを象徴している。
これまで30数年間、一生懸命コツコツやってきた。その積み重ねが、あの一晩で出た。
秋田さんは、「あの一晩」のために仕事をしてこられたのではない。それは目的でもなんでもなかった。見事な脱出は、たまたま出た、それまでの30数年間の「積み重ね」の結果に過ぎなかったのである。もしあの脱出作戦がなかったら、秋田さんは注目されることもなく真面目な助役さんとして定年を迎え、勤めを終えられたであろう。たまたま脱出作戦があったから、その一晩でそれまで積み重ねてきたものを発揮されたのである。
これが「日本人の底力」なのだと思う。その意味は、他にも秋田さんと同じような力をもっていながら、それを発揮する「あの一晩」には巡り合わずに退職された方が多勢おられたはずだということである。
「底力」は普段は底に潜んでいる。そして「いざ」というときに出てくる「力」である。「いざ」がなければ潜んだままである。この多くの潜んだ力を持っていたことが、日本の底力であり、「日本人の底力」なのだと思う。
私は日本文化論の授業で武道論を話しているが、それは日本の高度なもの作りを支えてきた価値観と、武道の価値観に同じ「思想」を見ているからである。先の秋田さんの言葉は、日本の武道修行の本質的な価値観と同じだと言ってよい。というのも、これがいきなり襲ってきた敵から我が身を守った武道家の談だったとしても何ら不自然ではないからである。
これまで30数年間、一生懸命コツコツやってきた。その積み重ねが、あの一晩で出た。
武道の修行においては、日常の日々の生活こそもっとも大切な稽古だと考える。それがいざというときに出る「底力」だからである。武道においては、いついかなる時でもその場で発揮できる「底力」しか意味を持たない。戦いはいつどこで始まるか分からないからである。派手で楽しい稽古は、(自己)満足感とピーク時のある程度のハイパフォーマンスを生むかも知れないが、「底力」を養成しないゆえに、武道では役に立たないと否定される。
武道における「底力」とは、同じことを毎日毎日一所懸命繰り返しやり抜く力の蓄積のことである。本物の武道家は、ひとたび「あの一晩」に巡り合ったなら、「出た」と言える「底力」を持つために、日々の生活を送っている。しかし何度も言うけれども、ほとんどの武道家は、「あの一晩」に巡り合わない。だからそれを発揮することもない。この、おそらく決して使わない「力」を養成するために何十年も修行を続けるのが武道の修行である。決して人を斬らないために剣を極めるという逆説が武道の価値観なのである。
私は毎年、日本文化論の授業の最後に、西岡常一棟梁の次の言葉を学生に贈ることにしている。
与えられた今の仕事を一生懸命やりなはれ。手を抜かずにちゃんとやってみなはれ。そうすれば見えてくるものがありまっせ。
彼(女)らは、個性を重視し、主体を大切にし、やりたいことを求め、「楽しみ」が強調される価値観の中で育ってきた。技術者教育においては、「これからの技術者はマネジメント能力が必要である」「これからの技術者は経営センスが必要である」「これからはイノベーションを起こせる技術者が求められている」「これからはグローバルな技術者が求められている」と繰り返し言われ続けている。もちろん私は、その全てを否定する訳ではない。ただ残念ながらそのような価値観からは、秋田さんの言葉は生まれないのではないかと危惧しているだけである。それはつまり、「日本人の底力」の「底」が割れるのではないかという危惧である。
そういう価値観の中で育ったにも関わらず(本当は「育った故に」と言うべきである)、それが叶わず、自信をなくし、不安を抱える者も多い。それを隠すために、虚勢を張り、心を閉ざしている者もいる。しかしほとんどの者は、まさしく今井さんが渾身の力で制作された、『プロジェクトX』に出てくるような、名もなき技術者に憧れと誇りをもって技術者になろうとしたのである。そして今もなおその熱い「心」を持っていることを、私は信じて疑わない。
私は技術者教育に関わる者として、彼(女)らが、その「心」を生かし、夢と誇りと志をもって、自分の技術を発揮できることを心から願っている。そしてそれがまさしく「底力」となって、ほんとうにいいものを作ってくれることを願っているのである。そして、そこから「人間力」溢れるリーダーも生まれ、真にイノベーティブな技術者も生まれると信じているのである。
さて、講演終了後は、全員今井さんの御著書にサインをして頂き、しっかりと握手をしていただいた。その時のお言葉もそれぞれの心に響いたようである。
恒例の感想会。いつもの場所でいつも以上に盛り上がりました。
寺子屋番外編in加賀(1)(2)(3)(4)、愛知県観光交流サミットin奥三河、と立て続けにとびきりの経験ができた。
ほんとうに感謝である。特に小野くんは、これが人生の転機となったはずである。そうでなければ彼の人生は嘘だ。ここ数日、そのくらいもうれつに変化している。他の人も同じである。武道部、方寸塾は確実に今、地盤が動いている。もうちょっとでブレークスルーするはずだ。
それにしても、in加賀といい、in奥三河といい、参加できなかった人はとても残念である。事情があってやむなく参加できなかったのではあるが、ぜひ経験してもらいたかったと思う。特にくり坊には講演を聞かせたかった。
『プロジェクトX』をまた見たくなって、講演会の翌日DVDを2本見た。
移動中の車の中では、中島みゆきさんの「地上の星」が延々とリピートされている。
学生の車内、iPhoneも同じだと聞いた。
1ピンがストライク?
- 2011-09-14 (水)
- essay
知り合いがボーリング教室に行ったそうだ。初心者ばかりのクラスである。
ある人が、1ピンだけを狙った練習で、ストライクを出してしまった。この時、喜ぶ人と、悲しむ人が世の中にいる、とその知り合いは言った。
そして、後者は、しばしば「ひねくれ者」とか「変人」と言われる、と。
なるほど。その知り合いはもちろん後者である。私はどうかなあ???
学問の私物化
大学院生の頃の話。
私は院生になり学会に入って、研究発表をするようになった。私の研究は、芭蕉の高弟、蕉門随一の論客と言われる各務支考の俳論である。しかし当時(いまでも)学会において支考の評価は極めて低く、研究する者もほとんどいなかった。そんな中、堀切実先生(現早稲田大学名誉教授)が、長年支考研究を続けてこられ、いわゆる第一人者であった。
「それまでの研究が何を明らかにし、何を明らかに出来ていないか。自分の研究はそれまでの研究に何を加えられるか」を明確にするのが研究(学問)のルールだと私は思っていた。だから必然的に私の研究発表は、堀切説を引用し、その達成と限界を指摘した上で、自分の説を提示し論証するという方法をとることになった。
私は論文や学会発表で堀切説を批判し、堀切先生も私の発表の質疑応答で自説を述べられた。もちろん私たちは、感情的に対立していた訳ではない。むしろ、研究に対するお互いの態度を信頼し合っていたと信じている。だから懇親会などでも親しく、かつ楽しくお話をして頂いた。
ところが、である。ある日、ある先生にこう言われた。
なぜ君は、堀切さんをそんなに目の敵にするんだ。彼の研究は優れているんだよ。
若かった私は、驚く他なく、この方が何をおっしゃっているのか理解できなかった。ただこの方と私は、信じているものが違うんだ、ということだけは分かった。堀切先生と私は学問というものを信頼し、この方は別のものを大切にしておられたのだろう。
それから数年して、全く別の話であるが、私のとても尊敬する先生が、学会でのちょっとした事件について話して下さった。
学問を私物化するからああいうことが起きるんです。学問を私物化してはいけない。学問はみんなのものだ。何かを「自分が発見した」などと傲慢になるからおかしなことになるんです。それまでの研究の積み重ねがあったから、自分の研究を進めることが出来たのだということを忘れてはいけません。
私はとても嬉しかった。学問は、みんなで少しずつ進めていくものである。学問の前では、人は謙虚にならざるをえない。またそうであるからこそ、従来の説を批判することができるのである。それを曖昧にすることは、学問の冒涜に他ならない。
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