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2013-03

命をつなぐバイオリン

2013年3月21日

昨日、映画「命をつなぐバイオリン」に行く。
正確にいうと、連れていってもらった。

前の日の夜に娘と嫁はんが何やら相談していた。

なになに??あんたらどこか行くの???
映画行くねん。
一緒に行って欲しい???
はぁ〜?

ということで、連れていってもらったのである。

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「美濃路展」(二川宿本陣資料館)

二川宿本陣資料館の「美濃路展」にゆく。

二川宿本陣資料館では、これまでも東海道を中心に、交通をテーマとした企画展が多く開催されてきた。
今回は美濃路。

いい展示だった。
ぜひ多くの人に見てほしい。

驚いたのは無料配布されていた、オールカラー22頁の充実した図録。

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教育の質

ちーやんの先輩(高校2年生)の話。

その先輩、イギリスの高校の授業を見学し、一瞬でその質の高さに驚いたという。「この授業の質は高い」と感じたのだそうだ。教育の質って、そういうものだと思う。

その先輩が私の授業を受けたら、その質について、どのように感じるだろうか。我が身を省みて反省。

しかし今の私に反省などしている暇はない。「教育の質」保証のための書類を作成せねばならないからだ。

シラバス通り進行した。

報告書のその項目を書くために、シラバスを睨みながら、記憶を辿る。

再編によって3学期制から2学期制になって、授業科目数が減った。だから少しだけ書類が減った。少しだけ嬉しい。

あと少しで報告書が出来上がる。
がんばろう。

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お風呂に浮かべて……

ちーやんが無事帰ってきました。

かわいいアヒルかってきたよ、とお土産をくれました。

もう、かわいくて、かわいくて。

ところでこれ何するもの??

お風呂に浮かべて遊ぶんやん。

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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』

中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』を読む。
この中に東京の電話や水道に関する記事が出てくる。

まずは水道。

東京市が埋設鉄管による上水道の工事に着手したのは明治二四年だという。神田駿河台の正教会構内全体にそれが引かれたのは、明治三七年頃と考えられる。同年二月四日のニコライ日記にこうある。「きょう都市水道から女学校へ水道を引いた。(略)。」東京市全体に上水道網がゆきわたったのは明治四一年である。138頁

次に電話。

正教会に電話がついたのは日露戦争開戦直後の、明治三七年二月二三日である。139頁

次は電燈。

明治四三年三月二六日の日記に、「今晩から神学校に灯油(ケロシン)ランプに代わって電燈がついた。生徒たちの勉強部屋とその他の部屋すべて、そして廊下にも。……見込みでは灯油より安くあがるはずなのだが」とある。139頁

現代でも「新しい機種に変えた方が電気代が安いですよ」と言われるが、この時代もやはり、「電燈にした方が安くなりますよ」と言っていたのだろうか。ほんとうに安くなったのだろうか。

ちなみに、この前岸田吟香の展示のときもらってきた「新修 豊田市史だより」第11号(平成25年1月)によると、「矢作川筋で最初の発電所は、明治30年(1897)7月に巴川支流の群界川で発電を開始した岡崎電灯ぼ岩津発電所(五二キロワット)」だそうだ。これが中部地方で最初に成功した水力発電所だそうだ。「電気は、二〇〇〇ボルトの電線路で岡崎の町まで送られ、豊田地域への供給はありませんでした」。「松平村に豊田地区最初の電気」がついたのは三年後の明治33年。「それから十年余り過ぎた明治四十四年三月に、岡崎電灯は足助の山奥、巴川支流の東大見発電所を建設します。(略)まず電気が点いたのが、東大見発電所に近い足助町でした」。これが明治44年10月。「二か月半遅れて挙母町に電気が点ります」。以下、続く。

私はこういう細かい話が好きだ。
昔は全然興味がなかったけど……。

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代車はいい車を

3月15日は愛車Poloくんの点検。
代わりに彼女が来てくれました。

ちょっと乗りましたが、いいですねぇ〜

赤がまたいい。
車内もいい。

私は代車にへんな車をもってくるディーラーを信用しない。なぜなら代車って、そのメーカーの車を持ってくるんだから、
ちょっとガタがきているような車をもってきてどうすんねん。一度乗ったらその車が欲しくなるような車を持ってきてほしいのである。といってもほんとうにほしくなったら困るけど。

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ディベート教育を疑う

日本の学校教育の中にディベートが取り入れられて久しい。かなり前から流行っているといっていいだろう。しかし正直に言うと、私はディベート教育というものに非常に懐疑的である。特に小・中・高校生にコミュニケーション教育の一つとしてディベートをやらせることに、素直に賛同できない。確かにそれによって生徒が身に付ける能力があることは否定しない。しかし、ディベート教育が本質的に持つ弊害がとても気になるのだ。

私はディベートは、他者と語り合うということ、表現するということの本質を損ねていると思う。

小林秀雄は講演「本居宣長」の中で、『パイドロス』を引き合いに出して、「対話」(ディアレティック)ということについて、延々と熱っぽく語っている。「心を開いて人と語り合う、その語り合う両方の心が通じるところに生きた知恵というものが飛び交う」のだと。それは日常会話における談笑の楽しさのことであるという。つまり小林は、お互いに心を開いて語り合うことの楽しさが対話の底には必ずあると考えているのである。

そして小林は、この対極にあるのが「レトリック」(=雄弁)だという。レトリックの中には、知恵の知の字もない、人を説得する術であって、それは真理とは何の関係もない、哲学にはレトリックというものは何の関係もないのだと述べる。哲学に必要なのは「対話」であり、お互い心を開いて真理を求めて語り合っているときには、相手を説得しようというような心は働いていない、というのである。さらに小林は、「対話」の最も純粋な形は「自問自答」であるとも言っている。

つまり、「対話」は双方が同じ方向を向いて、共通のあるもの(真理、共通了解)を求めてなされているのであって、決して相手と対峙しているのではない。そこにあるのは他者に心開かれた「自問自答」である。自問自答することによって自分の奥底に潜り込んだところから出てくる言葉が、お互いに心開いた場に出て来たときに、喜びも真理も共通了解も生まれる。そう小林は言っているのだ。

逆に言えば、自分の中に潜らず、自分がほんとうに信じていないことについては、本気で人と語り合いたいという動機は生まれない。それでも相手と議論したいという動機があるとすれば、そこにあるのは議論すること自体の快楽か、相手を説得できたときに得られる快楽である。そのとき「レトリック」は大きな武器となるだろう。

私がディベート教育に懐疑的なのは、人が他者に向かって表現することの動機、相手と心を開いて語り合うことの喜びを損ねているのではないかと思うからである。

思い切り息を止めて、自分の中の奥深くにダイブしてゆく。そこからかろうじて出て来た言葉、それはお互い心開いているという場でないと出せないような繊細な言葉であるが、ディベートの場ではそのような言葉は出てくることができないのではないだろうか。ディベートという場には、自問自答によって出て来た自分が本気で信じていることについて語り合うという「対話」の本質的な喜びが生まれる場がないように思うのである。

それはそれで別の場で練習すればいい。ディベートはあくまで論理的思考を鍛える場であり、人前できちんとディスカションできる能力を養成するものであると言われるかも知れない。あるいは私の知らないもっと崇高な教育効果があるのかも知れない。私も何度かディベートの実践を見学したことがあるが、そこで活躍した「優秀な生徒(学生)」と、その話題について後でもっとゆっくり語り合いたいとは思わなかった。

しかし、である。
実は最近というか少し前から、とにかく相手の論理の隙を突くことを最優先にし、突っ込みどころがなくなったら私はそれを信じますというマインドをもった学生に遭遇することがしばしばある。論文などの検証にはそれも必要だが、私は「対話」をしたいのである。授業でも、「対話」をしたくて学生に心開いて語りかけても、その学生はディベートマインドでこちらに対峙する。そうしなければならないと思い込んでいるのだと思う。私に説得されたら負けだと思っているのかも知れない。

前提つきの限定された練習であっても、よほど注意しなければそれは一般化されてしまう。ましてそこで上手く行った方法ならば、それをつい別のところでも汎用してしまうのである。「科学的思考」がそうである。これも小林が再三注意しているが、「科学的思考」はある限定された範囲では非常に有効である。しかしそれは「万能」ではない。しかし今、科学的思考、科学的エビデンスがなければ信じないという風潮が蔓延している。少し話がそれた。この問題はまた改めて。

表現することのほんとうの喜びの喪失、心を開いて他者と対話するのでなければ感じられない喜びの喪失、これらの原因にディベート教育が何らかの影響を与えているのではないことを願うばかりである。

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鬼・オニ・ONI展

豊橋市美術博物館特別展「鬼・オニ・ONI展」に行く。

たくさんの「おに」が集められていて見応えがあった。それにしても日本の「おに」は不思議な存在である。

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「日本人は石頭の形式主義者・・・」

中村健之介『宣教師ニコライとその時代』(講談社現代新書)を読む。

次のようなニコライの日記が引用されていた。

日本人は石頭の形式主義者だ。しかし、それが日本人のよいところでもある。かれらは法律を一点もないがしろにせずに守る。江戸時代の厳格な体制が日本人をこのようにしつけたのだ。(1904.2.4/17)259頁

翌年の日記にもこうある。

疑いもなく、この点では、ロシアは日本を模範としなければならない。とはいうものの、もしロシアの〈裁量〉を取り入れることによって、日本の形骸化したやりかたをいくらかでも活性化するならば、日本はおおいに得をすることになるだろう、ということも言っておくべきだ。ーその〈裁量〉は、いまロシアに蔓延しているような、限度を知らない、めちゃくちゃな、勝手極まる裁量ではなく、良識のある、事情をよく勘案する裁量ではあるが。(1905.7.19/8.1)261頁

さてさて、現代の日本をニコライが見たら何と評しただろうか。

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童子之輩にも読なんことを欲すれハ

図録解説によると一昨日展示を見てきた岸田吟香が関わった『海外新聞』の第二号にこうある。

童子之輩にも読なんことを欲すれハ文章之雅俗は問わずして

子どもにも読んで欲しいと思っていたのである。また『もしほ草』でも、新聞が普及しないのは「これを編集する人のみづから学者ぶりて、むづかしき志那文字まじりのわからぬ文を用ゐる」からだと述べている。

本当の力がない者に限って、難しく言いたがるものなのだろう。

吟香の苦労とは比ぶべくもないが、私も少しばかり抵抗したことがある。院生の頃から、学術論文も平易な文章で書くべきだと主張し、そうしてきたのである。もちろん最初の頃は、お前の書く論文は「論文の文章」ではないと大バッシングを受けた。
今となっては懐かしい思い出である。

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