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2009-06

メガネ屋さん

 先週と今週のカンブリア宮殿に、メガネ21の平本清さんが出演されていた。

http://www.tv-tokyo.co.jp/cambria/list/list20090622.html

 メガネ21に関しては、以前、今流行のアメリカ流マネジメントと全く異なる手法を用い、人情を理解した優れた経営者として紹介されているのを聞いたことがあり、非常に興味を持っていた。
 実際に番組を見たが、非常に面白かった。
 「ノルマなし」「(会社に)内部留保なし」「銀行借り入れなし」「管理職なし」といったことが次々紹介された。社員の給料やボーナスも高額で、しかも全て公開されているとのことである。それを語っている平本さんも、実に興味深い人間であった。
 内部留保というと、樹研工業が豊富な内部留保で不況に対応している話をこのブログでも書いたが、今度のメガネ21は、会社に全く内部留保を持たないそうだ(社員に内部留保しているとのことであるが)。しかしどちらの会社も、不況をものともせず、かつ社員の方がいきいきしているように見うけられた。その方法は違うように見えるが、前に書いた「身の程を知る」、「無理をしない」という点が、共通しているのだと思う。
 会社全体の経営もそうだが、社員一人一人も、無駄な無理をさせないという。例えば「ギブアップ宣言」。今の上司と合わない場合、「ギブアップ宣言」をネットに書き込めば、即配属変えをしてくれるらしい。しかも努力して合わせようとする必要はなく、即ギブアップしていいのだそうだ。もちろん普通の人は、多かれ少なかれ努力はすると思うが、ダメだったらいつでも代えてもらえるというのがあるのとないのとでは、全然違うだろう。

 会社でも、研究室でも、課外活動でも、授業でも、全員がいきいきと自分の能力を最大限に発揮できるのがいいに決まっている。もしそれが出来ないとしたら、大抵の場合、それを奪っているのは「上の人間」である。武道部でもそれを目指しているが、現実にはうまくいかないことも多い。仕方ないので、名前だけでも変えようと、少し前から武道部は改称した。新しい名前は、
 HAPPY! LUCKY! 武道部
である。だが恥ずかしいので、対外的にはこれまで通り、武道部と名乗っている次第である。

 ところで、とても魅力的な会社ではあるが、では私がここでメガネを買いたいと思うかどうかは、実際に店に行って、店員さんと会ってみないと分からない。なんせ私は、この上なくメガネを愛しているメガネ屋さんを知っているからである。値段もデザインも二の次である。私はこの人からメガネを買いたいのである。そしてこの人にメガネをかけてほしい。フレームの調整をするときに何度かメガネをかけてくれるのだが、これがこの上なく気持ちいい~のである。

フッサール『経験と判断』

経験と判断

発売元: 河出書房新社
訳:長谷川宏
発売日: 1999/05

 フッサール『経験と判断』の、緒論と第一篇第二章まで読んだ。大体全体の3分の1くらいである。現象学研究会のテキストだったからだが、俳論研究会終了後、現研に合流した。
 いやー、面白いですね~。細かいところはよく分からないことろも多いですが、論理学を現象学的に基礎付けるというモチーフとフッサールの構えは、読んでいてワクワクします。それとフッサールの根性と粘り強さには、ごちゃごちゃ感を越えて、勇気を与えられます。
 ただ大分前に『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を読んだ時ほどの衝撃は今回ありませんでした。まだ残り3分の2あるので、この後に期待です。残りも頑張って読んで、「『経験と判断』山」を登り切りたいと思います。

『俳諧十論』の講義録

 俳論研究会で、支考『俳諧十論』の注釈書を読んでいる。注釈書というより、支考自身の講義(十論講)をもとにした講義録である(ただし講義録そのままではない)。『俳諧十論』の講義録といえば支考自身が出版した『十論為弁抄』があるが、それと全く同じ体裁で書かれている。『為弁抄』の別本と言ってもいいだろう。ただし本文中で「先師」と言われているのが、おそらくは支考のことであると思われるので、内容的には支考の教え(十論講)を基にしているが、書いたのはその門人ということになる。何本か写本があり、そのうちの一本は、美濃派道統三世、盧元坊の伝書として伝わっている。ちなみに、本文中に『為弁抄』の名が出てくるので、『為弁抄』出版以後に書かれたものである。
 これが実に面白い。『俳諧十論』は同時代の俳人にとっても超難解で、江戸時代に書かれた解説本と批判書のほとんどが、『俳諧十論』を理解できていないと言っても過言ではないのであるが、そんな中でこの本は、群を抜いて理解が深く正確なのである(支考の講義が基になっているので当たり前であるが)。例えば十論講の講義録であると明言されている『俳諧十論発蒙』などよりはるかに分かりやすいし、『為弁抄』よりも分かりやすい箇所さえある程なのである。もちろん支考の教え(文章?)がもとになっているので、難解で意味不明の箇所も少なくない。しかし『俳諧十論』を理解する上で、非常に重要な本であることは間違いない。
 この本を初めて知ったのは、もう20年ほど前のことである。私の初めての学会発表は、支考俳論には「先後」なる概念があり、それが支考の認識表現方法として重要であることを指摘するものであったが、江戸時代から発表当時に至るまで、支考俳論において「先後」などという概念があることを指摘した本は、一つもなかったのである。だが発表の準備をするうちに、一本だけ、その「先後」を解説項目として取り上げている本を見つけた。それが今回読んでいる本である。
 結局、院生の私は生意気にも、「この本は支考のことを分かっているじゃないか」と思っただけで、学会発表には使わなかったのであった。
 またその後の支考俳論解読にも使わなかった。使わないどころか、読みもしなかった。それは自分自身で『俳諧十論』を解読し、それを論じることで精一杯だったからである。しかし、ほぼ『俳諧十論』が理解できた今、この本を読んでみると、自分の『俳諧十論』理解が的外れではないことが分かって、率直に嬉しいし、『俳諧十論』の理解がさらに深まった。
 この順序でよかったのだと思う。もしこの本を先に熟読していたら、そしてそれを使って『俳諧十論』を論じていたら、私はおそらく『俳諧十論』や支考俳論の核心を掴めなかったかもしれない。『為弁抄』とこの本を適当に引用すれば、もっともらしい論文が書けてしまうからである。
 私が『俳諧十論』解読に使ったのは、フッサールであり、ハイデガーであり、ウィトゲンシュタインであり、竹田現象学だった。そして井筒俊彦であり、西谷啓治であり、禅や『荘子』(の解説本)だった。国文学研究として邪道だと言われるそのような方法が、支考を理解するのには適していたのではないか、と思う。なぜなら支考は、「国文学研究」の正道では捉えきれない俳諧師だったからである。そのあたりの事情については、「連歌俳諧研究」で論じたので、興味のある方はそちらをご覧下さい。
 さて、今回の本、今年度中の紹介を目指している。どうぞ楽しみにしていて下さいね。

祝!『ゼロ哲』増刷

知識ゼロからの哲学入門(幻冬舎)
が増刷されるという連絡がありました。(^ ^)v

蝶夢『蕉門俳諧語録』

 蝶夢の『蕉門俳諧語録』を読んでいる。これまでは必要なところだけをつまみ読みしていただけなので、恥ずかしながら、最初から通してゆっくり読むのはこれが初めてである。これからじっくりいろいろ考える予定だが、それにしても、よくまあこれだけ集めたものである。支考も去来も其角も許六も野坡も、その他いろいろ引用されているが、これが蝶夢の考える「蕉門」の範囲なのである。もちろん現在の私たちも彼らを蕉門と呼んでいるが、それ以上に、美濃派だの江戸座だの誰の系統だのと、細分化している。言うまでもなくそれには十分な理由があるのだが、必要以上に「派」や「系統」を強固に考えすぎではないかと思う。
 今ほど情報が多くない時代にあって、芭蕉の直弟子やその系統の書が目の前にあり、そこに書かれていることが芭蕉の教えとして不都合でなければ、それは「芭蕉(蕉門)の教え」なのである。もちろん選別はしているが、教えの内容によってそれを行っているように思う。
 佐藤勝明さんは、『芭蕉と京都俳壇-蕉風胎動の延宝・天和期を考える』(八木書店)において、門派活動とは別に「俳諧圏」とでもいうべき交流関係があったと指摘し、「季吟俳諧圏」なる概念を提出しておられる。佐藤さんが問題にしておられるのは延宝・天和期であるが、書評にも書いたように(日本文学640号)、私は、時代が下っても、少なくとも、交流関係や影響関係においては、「門派」はそれほど強固なものではなかったと考えている。
 そのことについては今年度科研費に採択されたテーマとも関係するので、そのうち詳しく論じることになると思うが、少なくとも『蕉門俳諧語録』においては、「おおらかな蕉門」が感じられるのである。

 以上はただの思いつきと感想である。これからいろいろ考えてみたい(もちろん間違っていたら訂正します)。

不覚(ちょっと修正版)

 今日の稽古で、部員が振っていたヌンチャクが、自分の顔に当たって切ってしまうということがあった。私がもう少し気合いを入れて空気作りをしていれば防げたかもしれない。
 何度も書いているが、今、みんなギリギリのチャレンジをしている。もっと、もっと、とレベルを上げてゆくということは、それだけ危険度が増すということである。今回もほんのちょっと触れた程度なのである。もう少し前だったら「痛!」ですんだだろう。それゆえ稽古中の集中力、気合いは、よほど高いレベルが要求される。
 もちろんそんなことは知っていたが、私の中に油断があったのである。本人も試験勉強とレポートで疲れていたのか、今日はいつもの「いい感じ」がなかった。それだけに私の不覚である。深く反省している。
 だが、本人は、これを契機にもっと厳しく、もっと切れのあるヌンチャクが出来るようになるだろう。ヌンチャクだけではなく、どの稽古にも今までと違った厳しさが出てくるはずである。
 私ももっと厳しくならなければならない、と思う。でなければ、いずれこの甘さが武道部の命取りになるだろう。

第11回黒帯の稽古会

 昨日、第11回黒帯の稽古会が豊橋であった。今回のテーマは「形における気の流れ」。午前中初級編、午後上級編である。いつもは説明して、全員で稽古して、全員が「できた!」と思って帰れるようにしているのだが、今回はすぐにできないことは分かっていたので、達成感を少し犠牲にして、説明と見取りの時間を多くした。そういう意味でいつもとは少し違った稽古会だった。
 午後は、演武会で演武する者を教材にして解説指導を行った。先週の制引鎮特別講習会から始めた新しいOSでの形である。混乱しながらも全員、新しいOSで動きつつある。このままうまく稽古を続けると新しいOSがうまく機能するようになるだろう。
 とりわけ絵実子館長の制引鎮と裕子さんの十三手はかなりよい。絵実子館長は少し前から既に変化していたし、裕子さんは今回、劇的に変化した。
 大懸館長のサイもだいぶ掴みかけており、今までとは全く違うものになりつつある。豊川君が言っていた「瑞々しい躍動感(ぴちぴち感)」がでてくれば更によくなるだろう。いろいろなことを吹っ切って、今、この場で、この体がサイを振っていることの喜びが体の奥から湧きだしてくるといいと思う。
 鶴岡君は今回、初の独演でとても張り切っている。OSの入れ替えで一番混乱しているが、ここ2,3年伸び悩んでいたので、今回を契機に飛躍してくれることを期待している。大懸館長同様、少し掴みかけてきているので、楽しみだ。
 もう一人、一番苦労しているのが央さんだった。制引鎮は全国大会でも優勝した彼女の得意形だが、何しろ今回は、彼女が武道部に入った頃、その全国大会で何度も優勝を分け合っていた絵実子館長と裕子さんという、憧れの二人との共演なのである。
 しかも先週は絵実子館長のキツーイ教育的プレッシャーの洗礼を受けた。みんなで制引鎮をやったあと感想を求められて、絵実子館長が「この中では知里さんが一番うまい」と言ったのである。その場にいたほとんどの者は、その感想を額面通りに受け取ったが、本当は央さんに、「このままでは一緒に制引鎮できないよ。もっと上達しなさい」というメッセージを送ったのである。さすがに央さんは、そのメッセージをきちんと受け取った。だがエライのはその後である。落ち込んだり卑屈になったりしないで、その後すぐに絵美子館長に教えてもらいに行ったのである。絵実子館長も熱心に指導していた。たぶん嬉しかったと思う。
 私はそういう絵実子館長の厳しい優しさと、央さんの素直な心構えをとても尊敬している。どちらも私にはとても真似できない。
 さて、その央さんは、今回の稽古会で、大切なことを思い出し、新しく掴み直して帰ってくれた。もう大丈夫である。

 始めに書いたように、今回は、充実感を少し犠牲にしたのであるが、それでも懇親会での感想会(黒帯の稽古会では、懇親会も稽古である)や、帰宅報告メールなどによると、全員楽しく稽古をして、元気になって帰ってくれたみたいなので、安心した。今回初参加の豊川君も、とても喜んで帰ってくれたようだ。黒帯の稽古会は、来て良かった、稽古できて幸せだ、生きててよかった、と感じられるものにしたいと思っている。それを今回、感じ取ってくれたようである。それにしても豊川君が書いたスケッチにはびっくり仰天した(それについては内緒です)。

 今回は、試験勉強中にもかかわらず四国から西野君が来てくれた。それ以外にも、九州、大阪、三重、名古屋、愛知県各所から参加してくれた。みんな武道が好きで、黒帯の稽古会が好きで、とても生き生きと稽古できた。そして稽古後は、またそれぞれの日常に戻っていった。
 そんな素晴らしい仲間と稽古できて、とても幸せな一日だった。

びっくりの質問

稲沢市成人大学(教養講座)で講演してきた。
演題は「芭蕉文学の本質~破壊と創造」である。最後5分残して話を終える。その後質疑応答。
 
二つ質問があります。一つは、「不易流行」について教えて下さい。もう一つは、奥の細道における曽良の役割について説明して下さい。

何れも今回の話には出てこなかった話題なので、ちょっと驚いた。しかしまあそういうことはよくあることなので、とりあえず簡単に説明する。説明があまりに簡単過ぎたかなあと思い、「それでよろしいですか?」と聞いてしまった。

はい、いいです。

ちょっとホッとした。ところがそこで質問は終わらなかった。

もう一つ、少し本題からずれますが、准教授と助教授はどう違うんですか?助教授がなぜ准教授に変わったのか、そのいきさつを詳しく説明していただきたい。

さすがに会場から笑いが起こったが、簡単に説明させて頂きました。はい。
そういうびっくりがあったが、受講されていた方はその方を含め、皆熱心に聞いて下さった。
とてもよい雰囲気の講座であった。

身の程を知る

 16日のNHKクローズアップ現代に、樹研工業の松浦社長が出ておられた。樹研工業といえども今回の不況は深刻で、昨年の売り上げはピーク時の2割まで一時落ち込み、今も半分程度にしか回復していない。それにも関わらず、リストラどころか、定期昇給も例年通り行ったという。松浦社長は、

 売り上げ半分でも10年はいいね。さすがに7割減ると3年くらいだな。それでも3年くらい平気だよ。

といって笑っておられた。番組の解説によると、それは逆転の発想によって蓄えた潤沢な自己資金(内部留保)だという。
 好景気でも融資による規模拡大を行わない。逆に不景気になるとそれまで蓄えた自己資金で設備投資を行うなど、攻めの経営に転じる。ライバル企業が借金で商品開発を控える間に差をつけるのだという。

 昨年武道部員と参加した講演会でも、「日本のような成熟市場で、規模拡大を考えるのはみっともない」「日本のような市場では、新技術を開発しなければ生き残れない」「自分たちは技術の質で勝負するのであって、価格競争はしない」というようなことをおっしゃっていた。
 さて、番組ではさらに次のようにおっしゃった。

 身の丈でやりなさい。自分のお金の範囲でやりなさい。

 われわれはアリの生活をしているんだ。
 お金の話に限定しなければ、身の丈でやる、かつアリのようにやる、の両立は、学問においても武道においてもとても重要であり、これほど難しいことはない、と思う。
 本居宣長は『うひ山ぶみ』でこう語っている。

 詮ずるところ学問は、ただ年月長く倦まずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかかはるまじきこと也。いかほど学びかたよくても、怠りてつとめざれば功はなし。
 又、人々の才と不才とによりて、其功いたく異なれども、才・不才は生れつきたることなれば、力に及びがたし。されど、大抵は、不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有る物也。(白石良夫全訳注・講談社学術文庫)

 才能の有無は自分の力ではどうしようもないから、そんなことに煩わされても仕方ない。どんなに学び方がよくても怠けていては成果は出ない。逆に才能のない人でも、ただ長年、倦まず怠らず、励み努めさえすれば、その分だけの成果は出るのである。だから、
 ただ自分の身の程を知り、かつ最善を尽くし続けるのみである。
 ほんとうに難しい。……が、
武道については、身の丈でやることがちょっと出来るようになってきたので、これがまたとても楽しいものであることも分かってきた。
 要するに長年やっていて、ようやく身の程を知った、ということですね。

特別講習会

 一昨日は卒業生のための制引鎮特別講習会だった。
 始めに全員で1回流してみて、そろそろ時期が来たと思ったのでレベルを上げた。今回は武道OS論でいうと、いつものマイナーバージョンアップではなく、メジャーバージョンアップである。つまり、次世代OSを再インストールしたのである。
 ちょっと面白いくらいに、全員が混乱していた。当たり前である。OSを入れ替えたら、それまで動いていたアプリケーションはもう動かない。つまり、心身の意識から使い方から、全てを総入れ替えしなければならないのである。
 だが講習会の最後には、全員が見事に技を決めていた。頭の混乱とは裏腹に、武道的な心身を練る形ができるようになってきたということである(しかもあの技は、前日私が初めてやって見せて、みんな驚いていた技なのだよ)。
 演武会間近のこの時期になんで? と思った者もいたかもしれないが、私にはそういうことは関係ない。何をやるかはあらかじめ決めていかず、その場で感じて決めるからである。始めに全員で1回流したとき、「よし、メジャーバージョンアップしよう」と思ったのである。もしその時、「演武会終わってからにしよう」と思ったら、その日の稽古会が充実した楽しいものにならないし、演武会までの期間、最善を尽くすことにならない。もちろん少しは現実的な判断をするが、基本的にその場を最善にするために、論理的思考よりも、その時その場で感じた感性を優先させることにしているのである。
 多分もう既にいくつも不具合が出ているだろうが、幸い来週は黒帯の稽古会があるのでアップデートできるのである。

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