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武道部 アーカイブ
演武会リハーサル
- 2010-06-09 (水)
- 武道部
6月9日。
第6回演武会リハーサルを市民文化会館で行った。
恒例の約1ヶ月前リハーサルである。
今年の招待演武の一つ、日本拳法の武田先生もおいでになり、ご挨拶。中日文化センターの子ども会場へ。
エミコさんの号令で、集合写真を撮る。
いつも当日はばたばたしていて、集合写真を撮る余裕がない。そういえば前からエミコさんはそれを言っていた。私がうかつにも聞き流していたのである。
第6回めにして初めて舞台で撮影した集合写真は、なかなかいいもので、実行委員が当日配布のプログラムに使った。
その写真を見ると、私がいかにそういう気配りが出来ないかが思い知らされ、恥ずかしくなる。
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昇段審査
- 2010-05-29 (土)
- 武道部
午前中武道部と泰斗武館の合同昇段審査、夕方は尚志館の昇段審査。
前者は、準初段受験2名、初段1名、三段1名。
イケオくんとユキミさん、ケンタくんは無事合格。非常にいい気迫を見せてくれた。
1名は残念な結果となった。次もチャレンジして、ぜひ合格してほしいと思う。不合格となったNくんも、審査中は純粋な気持ちで、懸命にやっていた。その気持ちで普段の稽古も続ければ、きっと合格できるだろう。ザツなところを一つ一つ、丁寧に直してほしいと思う。
尚志館の方は、Cさん1人。二段(少年少女部)の受験である。文句なしの合格。基本、約束組手、形など、まさに教科書通りであった。自由組手や四方組手の動きもよかった。改めて基本の大切さ、それをこつこつとやることの大切さを教えられた思いである。
彼女は小学校1年で入門して、今年で8年めである。その間、ほとんど休んだことがない。ただ「週1回稽古に来て1時間半稽古する」ことを8年間繰り返してきた。試合にも出ないし、誰かと競うこともない(演武会は出ている)。何度も書くが、ただただ「週1回」の稽古をやり続けただけである。何のメリハリも盛り上がりもないこのルーティーンが、人を成長させるのだということを、今日、改めて彼女に教えられた気がする。
今日の昇段審査は、いろいろ教えられた。Nくんを含め、全員に感謝したい。
Nくん、絶対に次、合格してね。
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三十六特別講習会
- 2010-04-11 (日)
- 武道部
今日で4回目。
今日は、開始前に、持って行った木刀を使って、イチローのバッティングを武道的に分析して見せた。ここ数日、『逆説の武道』の、イチローのところを書いていたので、それを実際の動きで試してみたのである。「少年野球ではこう習いました」などと続々と昔話が出て、結構盛り上がってしまった。
武蔵が『五輪書』で説明していることと非常によく合うし、それ以外の点でも、やはりイチローのバッティングは非常に武道的である。
今度の身体開発研究会で、ちょこっとそんな話もしようと構想中である。
三十六手の講習自体は、いつもながらとても楽しい稽古ができた。とくにイワサキくんが初めてオープンマインドの意味が分かったようだ。元に戻らないことを願っている。
もう一つ、クリタさんの怒り爆発事件もあった。私は見ていなかったが、あるメンバーが、謙虚さと丁寧さと感謝の心を失した振る舞いをしたようである。人間というのは、初めは特別な思いがあっても、知らず知らずのうちに慣れてしまって、それが当たり前だと思ってしまう。それを見逃さなかったのはさすがである。
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技術者が武道を修行することの意味
- 2010-04-05 (月)
- 武道部
以前も書いたが、
を武道部員と方寸塾・寺子屋メンバーに紹介した。高度な技術者を目指す技科大生と、会社でさらに能力を高め発揮しようとしているメンバーである。
武道家と技術者は必要とされるものが非常に似ている。どちらも芸事であるから当然だろう。
一つは、愛があること。本書で、職人に愛が必要であることが繰り返し説かれているが、その通りだと思う。愛がない技術者が、超一流であるはずがないと私も思う。そしてまた、一般にはそう思われていないかもしれないが、武道も愛がなければ上達しないのである。
「技術よりも人間性が大事」と秋山さんは書いておられるが、武道の技術も全く同じである。「人間性」がなければ、ある程度のところまでは行っても、所詮はある程度までであり、しかも決して長続きしない。超一流の技術を身につけようとすれば、そしてそれを維持・発展させようとすれば、「人間性」が不可欠である。例えば、謙虚さ、感謝の心が、技術が高まるにつれて育ってくるのも、優れた人間性あってのことである。
とりあえず必要なのは、愛、謙虚さ、感謝の心、開いた心、感じる心(感性)、素直な心、気遣いといったところか。これを私は、「コミュニケーション能力」とか、「人間力」とか呼んでいるのである。
一流になりたければ人間的に成長せよ、と秋山さんは書いておられるが、同様のことを、これも前に紹介した北島康介選手のコーチ、平井伯昌さんも書いておられたし、痛くない注射ばりの岡野雅行さんも書いておられる。というより、おそらく超一流の職人さんは、みんなそう考えておられるはずだ。岡野さんも、直接はお会いしたことはないけれども、非常に明るくパワフルであり、開かれた心を持っておられると思う。
心が一流なら、必ず技術も一流になります。84
二つめは、「継続は力なり」である。職人も武道家も、続けた者勝ちである。そして、器用な人より、不器用な人の方が長続きする。「地道な反復練習ができる人間なら、はじめは腕が悪くても、あとで必ず伸びる」と秋山さんは書いておられる。鵤工舎の小川三夫さんに教えて頂いた上達曲線も同じであるし、その小川さんから頂いた私の座右の銘は「不器用の一心」である。武道における私の経験でも全く同じである。
謙虚に、ひたむきにやり続ける才能。84
三つめは、「成長したければ、馬鹿になる」。木村秋則さんも、「馬鹿になればいいんだよ」と書いておられる。しかしこれはなかなか難しい。ここでいう馬鹿とは、自分の理屈で判断しない、自分の固定観念に囚われないということである。職人の世界もそうだと思うが、武道の世界は、それまでの普通の価値観や理屈は通用しない世界である。心も体も、一からその原理を根本的に変更しなければならない。そのとき、それまで自分が持っていた固定観念や価値観が一番邪魔になるのである。それを入門の段階、すなわち修行すると覚悟した段階で、きっぱりと捨てられるかどうかが肝要である。今までの自分はここでは通用しない、という自覚からしか修行は始まらないからである。秋山さんのところでは、入社したら男も女も全員丸ぼうずというのも、その覚悟を求めてのことなのである。
四つめは、細かいことを大切に心を込めてやること。武道では、道場の稽古だけではなく、日常生活そのものが修行であると考えるが、職人さんも同じであるようだ。細かいことこそ大きなことであると心の底から思えるようになれば、武道はかなり上達するのである。
どうしたら失礼がないか、何をしたら喜ばれるかーをいつも考えるようにすることで、自然に「人を感動させる心」が養われます。201
もちろん仕事で、細かいこと(と自分が勝手に思い込んでいること)を、いい加減にしたら大変である。見本より2㎜太くして作るように指示されたにも関わらず、見本のままのサイズで作ってしまった丁稚を秋山さんは烈火の如く叱ったそうだ。
なんでちゃんとサイズを確認しないんだ!そんな凡ミスをするというのは、心のなかで『たった2ミリの差だ』と思っているからだ!そんな考えは許さない!たった2ミリのことにこだわるのが職人なんだ!
そして、注文品の材料代の半分を給料から差し引くことにして、「親に手紙を書いて、この事態を説明しろ!」と言いました。72
五つめは、人に感動を与えること。
職人というのは、人に感動を与える仕事だと思いっています。
人を恨んでいるままでは、職人にはさせられません。179
これが武道と何の関係があるか。実は大いにある。極められた武道の技は、見る人を感動させるのである。とても美しい。他人に見せるための、大げさな動きではない。他人に勝つための技術でもない。武道はもと武術であり、敵を殺す技術であるという人も多い。それはそれでかまわないけれども、武道の究極の境地は、それを突き抜けた境地である。つまり、自分も敵もない境地である。「無」とか「無我」とか言われる。これは哲学的な意味でもそうであり、技術的な意味でもそうである。決して抽象的なものではない。一個の技をかける技術としても必要であり、生きる技術としても必要な、具体的な技術である。
小我に囚われている人は決して真に強くなれない。真に強くなった人は、他者に勝つなどということはどうでもいいことである。そういう境地に至った人の技こそが、非常に効くという逆説が武道にはある。そしてその動きは、とてつもなく美しく、人を感動させるのである。人を恨んだままの武道家は、決してその境地にたどり着くことは出来ない。
もちろん私はまだ辿り着いていないが、武道の達人と言われる人は、皆共通していると思う。
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実行
- 2010-03-28 (日)
- 武道部
武道部の現部長は創部以来初の留学生である。非常にしっかりしている学生で、この前懇親会で会った学生課の課長も、非常に褒めてくれていた。
先日、審査の打ち上げの時、部員に
発売元: 幻冬舎
を紹介した。
徒弟制度を行っている会社の話であるが、挨拶やホウレンソウや心を開くこと、明るくすること、人の話をきちんと聞くことなど、普段武道部で大切にしていることが沢山出てくる。そしてそれを徹底して実行されている様子が描かれており、自分の甘さを反省させられた。ぜひ部員にも読んでほしい、そして頑張って修行しようという話をした。
一週間ほどして部長に読んだかどうかを確認したら、読んでいないという。2、3日して研究室に来た彼女は、「聞かれた時にマズイと思ってすぐ注文して買った。今読んでいる途中です。会社だったら私はクビです」と言った。すぐ買わなかったのは、まだ読んでいない本がたまっていたからだという。そしてしばらく話をした後に、「先生、ここに『実行』と書いてくれませんか」と言って、表紙を開いた。「ここは普通著者がサインするところなんだけど」と言いながら、ご要望にお応えした。著者の秋山さんには大変失礼なことを致しました。
私は人並み外れた悪筆である。それでも誠心誠意書いた。筆で。これから即レスで実行できる人間になって欲しいという思いを込めて。そして自戒を込めて。
私は彼女を部長にして正解だったと思った。もちろんこれからも彼女の部長修行はまだまだ続く。しかしきっとやり遂げてくれるだろうと信じている。
その部長のもと、いよいよ2010年度バージョンの武道部が始動する。2010年度バージョンの武道部は、今までとはちょっと違う武道部になるはずだ。
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第13回黒帯の稽古会
- 2010-03-25 (木)
- 武道部
3月20日から22日まで第13回黒帯の稽古会。
今回の稽古会は至福の時を過ごすことができた。いつも黒帯の稽古会はとても楽しいのであるが、今回はまた格別だった。稽古会自体がフロー状態に入っており、みんな楽しく、かつ技がばんばんきまり、流れている時間はゆったりしているのに、稽古会自体は、気がついたら終了時間になっていた。ほんとうにあっという間の3日間だった。もちろん一時は技ができなくて泣いていた人もいたが、終わってみればそれを含めてみんな至福の時を過ごすことができたのである。
自然の中で、川のせせらぎとウグイスの声を聞きながら、さまざまなパワーをもらった稽古会だった。みな感謝の気持ちで一杯になったに違いない。私もまた、傲慢になってはいけないと心から思った稽古会だった。
今回のテーマは、「肘の使い方」。前回のテーマ候補に挙がったが、1日では無理なので、お泊まり稽古会の時にやろうということになった。お泊まり稽古会は、毎年1回あるが、昨年はアラカワくんの結婚式でほぼ全員が北海道に行ったので、2年ぶりのお泊まり稽古会である。
1日目は、12時45分現地集合。なんと高速道路が大渋滞しており、何人かはぎりぎりでの到着となった。あれだけの渋滞でもみな間に合ったのはさすがである(一人だけ記念写真撮影中に到着。ギリギリセーフ)。
そんなこんなで、予定通り1時から無事稽古会が始まった。1日目は、受けの肘の使い方。いきなり試験をする。
中段横受けの肘の使い方を簡潔に述べよ。
全員正解。かつ不正解。今まで教えてきたことを全員きちんと書いていたので正解である。しかしそれは今までの話。今日からはそれは間違いです。
今まで教えてきたことはウソでした! がはははは!
ということで、中段横受けから順に解説し、皆で稽古した。もちろんほんとうにウソを教えてきた訳ではない。次のステージの受けをするためには、それまでのやり方を全て忘れて、違うやり方が必要なのである。しかしいきなりそのステージの受けはできないので、その段階に至るまでのプレステージで必要なことをこれまで指導してきたのだ。したがって、これまできちんとそれを稽古してきた人は、それまでと全く違う原理の動きであるにも拘わらず、スムーズに移行できる。身体とその感覚がきちんと出来ているからだ。それともうひとつ、基本が出来ている人は、心構えもできているからである。
えーっ?今まで習っていたのと全然違うやないですか!
などと誰も文句を言わない。そんなことに拘る人は、ここにはいない。「こうですよ」というと「こうですか」とやってみる。基本が出来ている人ほど素直なのである。だからすぐに出来るようになる。さらに5段くらいになると、「そこでもうちょっと三戦の締めを使って」などと一言いうと、「ああこういうことですね」とすぐに出来るから面白い。剛柔流空手は、そのような稽古システムを持っているのである。
2日めの午前中は、子どもたちのバスケと体育館を半分こ。空手衣を着ているにも拘わらず、エイ!とかヤー!とか一切やらず、触れるか触れないかで投げたり、繋がって歩いたりして、とても幸せそうにしていた私たちを、彼らはどう思っただろう。きっと変な団体だと思ったに違いない。まあいいか。
午後は、突きにおける肘の使い方。合わせて膝の使い方も稽古する。これまた驚くほどみんな上手くなった。一番驚いたのは、スズキくんを、クリハラさんが一本背負で投げたことである。ふとみたら、スズキくん、既に宙に浮いていて一回転してました。いやー、びっくりしたあ。って、なんで空手の稽古で一本背負をしているのか?もちろん空手の肘の使い方をマスターするためである(だから柔道でいう正式な一本背負ではない)。
やはり心構えが出来ていて、基本をきちんと稽古していて、志が同じ人と一緒に稽古するのは、とても楽しいし、私自身も成長することができる。今回も、「技を受けた感覚が、今までと全く違っていた」と褒めてもらいました。
そんな訳で、全員が、稽古中に自分の技が変化してゆくのを体感した。そして自分の身体自身とその動きの原理が変化するのを感じながら稽古ができた。だから凄く幸福感が漂った稽古会となったのである。
3日めは、恒例の観光。これまた楽しかったです。昼食を食べて、お茶を飲んで解散。
稽古場所といい、宿泊施設といい、ご飯といい、全て最高でした。幹事さんの尽力に感謝です。
食事で唯一失敗したのは、3日めの昼食。これは幹事ではなく私がここにしようと言った店である。うどんを食べるつもりだったのだが、席に着いたら、
先生、うどんは、300メートル先の系列店みたいですよ。ここにはないそうです。
ええーっ?
ということで鰻を食べました。でも美味しかったのでよかったです。だから失敗ではありません。その後の喫茶店も私が行きたいと言った店でしたが、雰囲気も味もとてもいいお店でした。
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恐るべし、小林秀雄
- 2010-03-13 (土)
- 武道部
小林秀雄の「私の人生観」を思い出してさっと読み直した。びっくりである。第2回寺子屋で話したことがたくさん出てくる。若い頃大好きで、講演のCDも時々車で聞いている(実はもうほとんど全て覚えている)小林秀雄であるが、「私の人生観」は長らく読み返していなかった。
第2回寺子屋でカトウさんが、「先生方の形や技をよく見ようと思って頑張って見るけれども、いくら見てもよく分からないんですけど」と質問した。
よく見ようとするから見えないんですよ。武道は「ぼーっと見る」んです。
そう言って、武蔵の「観の目」「見の目」の話をした。それについて小林秀雄はこう書いている。
武蔵は、見るということについて、観見二つの見ようがあるということを言っている。(略)観の目強く、見の目弱くみるべし、と言っております。見の目とは、彼に言わせれば常の目、普通の目の働きかたである。敵の動きがああだとかこうだとか分析的に知的に合点する目であるが、もう一つ相手の存在を全体的に直覚する目がある。「目の玉を動かさず、うらやかに見る」目がある、そういう目は、「敵合近づくとも、いか程も遠く見る目」だと言うのです。「意は目に付き、心は付かざるもの也」、常の目は見ようとするが、見ようとしない心にも目はあるのである。言わば心眼です。(角川文庫P113)
そしてこう続ける。
見ようとする意が目を曇らせる。だから見の目を弱く観の目を強くせよという。
よく見ようとすればするほど、その「意」(意識、欲望)が目を曇らせる、だから、「ぼーっと見る」のである。空手には形があるが、形の目付は、「敵合近づくとも、いか程も遠く見る目」である。敵が近くにいるのに、なぜ「いか程も遠く見る目」なのか。ここに人間の心身の秘密がある。
この「ぼーっと見る」ことは、何も武道に限ったことではない。超一流の野球選手も、ボールを凝視することなどないはずだ。私の少年時代は、「ボールをよく見ろ」と教えられた。これはウソである。ウソと言って悪ければ、「よく見る」方法と一緒に教えなければ、返って害となる。
それはさておき、その武蔵の観法が、
我事(わがこと)において後悔せず(112)
であると小林はいう。その解説はこうである。
自己批判だとか自己精算だとかいうものは、皆嘘の皮であると、武蔵は言っているのだ。(略)そういう小賢しい方法は、むしろ自己欺瞞に導かれる道だと言えよう、そういう意味合いがあると私は思う。昨日のことを後悔したければ、後悔するがよい、いずれ今日のことを後悔しなければならなぬ明日がやって来るだろう。その日その日が自己批判に暮れるような道をどこまで歩いても、批判する主体の姿に出会うことはない。別な道がきっとあるのだ、自分という本体に出会う道があるのだ、後悔などというおめでたい手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、そういう確信を武蔵は語っているのである。
ごちゃごちゃ頭で考えたり、反省したり、後悔したり、ああ自分は駄目だ駄目だと思ったり。そういう「小賢しい方法」では決して出来るようにはならない。また、そういう人の目は曇っている。
本当に知るとは、行なうことだ(101)
「阿含経」にこういう話があると小林は紹介している。
ある人が釈迦に、この世は無常であるか、常住であるか、有限であるか、無限であるか、生命とは何か、肉体とは何か、そういう形而上学的問題をいろいろ持ち出して解答を迫ったところが、釈迦は、そういう質問には自分は答えない、お前は毒矢に当たっているのに、医者に毒矢の本質について解答を求める負傷者のようなものだ。どんな解答が与えられるにせよ、それはお前の苦しみと死とには何の関係もないことだ。自分は毒矢を抜くことを教えるだけである、そう答えた。(101)
ところで小林は、「私の人生観」を「観」の考察から始めている。「観」は仏教思想であるとして、次のように述べる。
観というのは見るという意味であるが、そこいらのものが、電車だとか、犬ころだとか、そんなものがやたらに見えたところで仕方がない、極楽浄土が見えて来なければいけない。(88)
仏教でいう観法とは単なる認識論ではないのでありまして、人間の深い認識では、考えることと見ることが同じにならねばならぬ、そういう身心(ママ)相応した認識に達するためには、また身心相応した工夫を要する。そういう工夫を観法というと解してよかろうかと思われます。(89)
そしてその観法は、画家にも詩人にも通じるとし、次のように述べる。
西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、その貫道するものは一なり、と芭蕉は言っているが、彼の言う風雅とは、空観だと考えてもよろしいでしょう。(104)
空観とは、真理に関する方法ではなく、真如を得る道なのである。現実をさまざまに限定するさまざまな理解を空しくして、はじめて、現実そのものと共感共鳴することができるとする修練なのである(105)。
やっぱり小林秀雄はいいですね。私が、「囚われず、偏らず、心身を開いて「空」にし、即レスする」と言っているのは、まさしくこの事なのであり、その日々の営みが「観の目」であり、「我事において後悔せず」なのである。さらに驚くのは、「脇道」として語られている話である。
先日、ロンドンのオリンピックを撮った映画を見ていたが、そのなかに、競技する選手たちの顔が大きく映し出される場面がたくさん出て来たが、私は非常に強い印象を受けた。カメラを意識して愛嬌笑いをしている女流選手の顔が、砲丸を肩に乗せて構えると、突如として聖者のような顔に変わります。どの選手の顔も行動を起こすや、一種異様な美しい表情を現わす。むろん人によりいろいろな表情だが、闘志というようなものは、どの顔にも少しも現われておらぬことを、私は確かめた。闘志などという低級なものでは、とうてい遂行し得ない仕事を遂行する顔である。相手に向かうのではない。そんなものはすでに消えている。緊迫した自己の世界にどこまでもはいって行こうとする顔である。この映画の初めに、私たちは戦う、しかし制服はしない、という文句が出て来たが、その真意を理解したのは選手たちだけでしょう。選手は、自分の砲丸と戦う、自分の肉体と戦う、自分の邪念と戦う、そしてついに制服する、自己を。かようなことを選手に教えたものは言葉ではない。およそ組織化を許されぬ砲丸を投げるという手仕事である。芸であります。(122)
「闘志などという低級なもの」はなく、相手も「すでに消えている」。ここで語られているのは、最高のパフォーマンスを発揮する超一流のアスリートの境地であるが、実はこれは武道の極意というべきものでもある。というより、諸芸の極意であり、日常生活(人生)の極意であるといっていいだろう。私の言っている、「囚われず、偏らず、心身を開いて「空」にし、即レスする」というのもこれに他ならない。
ところで、メンバーの1人から「先生、最近だいぶ変わられましたね」と言われた。自分ではあまり気づいていなかったのだけれど、たぶんそうなのだと思う。「囚われず、偏らず、心身を開いて「空」にし、即レス」できていると思われる具体的な出来事がたくさん起こるようになったからである。
志の通じる人と一緒に修行することの意味は、師と弟子が一方通行ではないということである。弟子がその時師を求めるように、師もまた弟子を求める。お互いに刺激を受け、新しい境地が開拓される。芭蕉と蕉門の弟子たちを見ているとそのことがとてもよく分かる。芭蕉も、それぞれの時を得て、必要なお弟子を求め、出会うことによって、芭蕉になり得たのである。
芭蕉と一緒にするのは烏滸がましいが、私もまた寺子屋で学んでいる1人なのである。
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寺子屋について
- 2010-03-12 (金)
- 武道部
このブログでも何度も書いているが、昨年から寺子屋という活動を始めた。既に2回開催し、第1回は21名、第2回は24名が出席してくれた。社会人も学生も、当日やむを得ず欠席した人も含めて、皆が真剣に取り組んでくれて、大変すばらしい活動になっている。ほんとうに嬉しいことである。
寺子屋は基本的に武道の話が中心であるが、それを通して仕事や研究、勉強、日常生活の基盤となる心身を学ぼうというものである。課題図書を読んだり、私が講義したりした上で、ディスカッションをする。
寺子屋で私が語っているのは、客観的に実証されている「事実」ではない。いわば私の「主観的な真実」である。名物コーナーとなりつつある「こんな奴いらん」では、メンバーの具体的な行動を取り上げ、「こんな奴いらん」と断定する。当然、自分はそうは思わないという反論がありえる。しかし、私は、自分が修行している武道と、そこで目指している価値観から、「こんな奴いらん」と断定するのである。そこからディスカッションは始まる。お互いが他者にさらされることによって、自分の志や価値観を鍛えてゆくのである。もちろんその中で、最低限の価値観を共有できなければ、一緒に修行はできない。
先師一代、志の通ぜぬ人と俳諧せず。
李由・許六『宇陀法師』にあり、蝶夢の『蕉門俳諧語録』にも引かれている言葉である。「先師」とはもちろん芭蕉のこと。
芭蕉の俳諧同様、私の武道も、志の通ぜぬ人とは一緒に修行できない。だから、私は、私の志と価値観を、メンバーに問う(メンバーも私や他のメンバーに問う)。それが受け入れられれば寺子屋は続くし、誰にも受け入れられなくなれば、閉じるまでである。だからこそ、多くのメンバーが熱心に取り組んでくれることがとても嬉しい。
また、寺子屋は「お勉強」の場ではない。ここには「事実」や「正解」を誰も与えてはくれないからである。私や他のメンバーが提示したそれぞれの価値観を、自分の身を以て吟味し、それがよいと思えば「決断」、「即その場で」実践する。
後日の感想を読んでいると、「早速仕事で試している」とか、「日常生活でチャレンジしている」というものが多い。非常に嬉しいことである。しかしその一方で、「頭では分かっているのだが」とか、「今まで長年これで生きてきたので」という「我」を見せる者もいる。しかしそんなことをいっているうちは、断定も決断もできないのである。30年かかって蓄積されたものを壊すのに、何も30年必要な訳ではない。ごちゃごちゃ自分に言い訳する暇があったら、「即レス」するに如くはなし、である。
囚われず、偏らず、心身を開いて「空」にし、即レスする。
これが寺子屋で大切にしていることである。たったこれだけであるが、非常に難しい。でも私は難しいと思わないし、もちろん悩まない。いつでもその時その場でチャレンジし続けるだけだからだ。失敗してもうまくいっても、ただただ実践し続けるだけなのである。
ここまで書いて、小林秀雄の「私の人生観」を思い出した。ちょっと長くなりそうなので、続きはまた明日。
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第2回寺子屋
- 2010-02-28 (日)
- 武道部
第2回寺子屋。今回の参加者は24名。今回もたくさんの社会人、学生が参加してくれてとても盛り上がった。嬉しい限りである。
社会人も学生も、あらかじめレポートを提出して、遠方の人は泊まりがけで豊橋までやってきて、直接自分の仕事や研究と関わる訳ではない話を一日中して、事後レポートも提出する。これはとても意味のあることだと思う。今回のテーマは「武道の本質」である。武道とは何かを私が講義し、皆でディスカッションするのである。
いろんな話がでる。課題文の一つ、嘉納治五郎先生の文章についてある人が言った。
この課題の文章をいいと思った人いるんですか?いたら手を挙げて下さい。
はーい。
数人が手をあげた。そして数人が自分はいかに感動したかを話した。
また、3年前に卒業したHくんは、「最近、自分自身の立ち位置と日本のものづくりの現状と今後について、真剣に考えるようになった」と言った。課題レポートとほとんど無関係に、最近の自分の悩みを話す人もいた。学生のNさんは、定期試験の前日にも関わらず、頑張って出席して、積極的に発言していた。この経験は彼女の大きな財産になるだろう。
みな、それぞれの思いを抱え、いろんなものを求めて寺子屋に参加し、それを通して、自分を見つめ直し、自分の人生を考え、社会を考えているのである。
懇親会もとて盛り上がった。
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三十六手特別講習会
- 2010-02-01 (月)
- 武道部
形の特別講習会、今年は三十六手である。
前日に決意表明食事会を開催し、それぞれの意気込みを語った。それぞれの事情があって、今年はメンバーの意気込みが違う。かなりいい稽古会になりそうである。
実際に、第1回はとてもいい稽古ができた。僕が勝手に「パオ-の分解」と呼んでいる分解があって、その稽古だけをやった。それぞれが必死に、また楽しく稽古ができた。僕も新しい発見があった。
それにしても、クリハラさん、ちょっと出来すぎでしょう?びっくりしてしまいましたよ。
遠方からの参加者を含め、全員無事帰宅したようである。
第2回がとても楽しみだ。
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