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研究 アーカイブ

書類の山からゲラが……

 溜まっている書類の山の中から、今日締め切りのゲラが出てきた。すっかり忘れていた。計画的に仕事をしようと試みてはいるが、ちょっと一つの仕事に神経をとられているうちに、すっかり忘れてしまった。現実はなかなか厳しいものである。
 ともかく、急いでやって、投函。編集者さん、一日遅れるけど許してね。

七夕古書大入札会

3日。
明治古典会の七夕古書大入札会の下見展観。
まず「伝書」をみた。入札会は、色々な分野の「伝書」がたくさん出品されるので、大変有難い。普段の調査は俳諧伝書だけで手一杯で、なかなか他の伝書まで見ることができないからである。いろいろな伝書を見ていると、人々が伝書なるものを作りたくなる気持ちが何となく分かってくる。特に武道伝書は、個人的な興味もあって面白い。今回もちょっと面白いものがあった。
 俳諧では、4年ほど前に新聞で報道された、蕪村の「春興」(毛筆8行)が出ていた。それと当日新聞を賑わせた、子規の「幻の選句集」「なじみ集」。個人的には和田克司先生が朝日新聞で語っておられた「〈なじみ〉の顔が誰なのか、子規の周辺の人との結びつきもこれで明らかになる」という点が興味深かった。ぜひ明らかにしていただきたい。帰りに、その和田先生と入り口でばったりお会いした。
 もう一点、新聞に出ていた三島由紀夫の書簡と写真。写真の綺麗さに驚いた。「憂国」の切腹シーン6枚の他、目録には「「血と薔薇」聖セバスチャンの殉教2枚(篠山紀信撮影一枚は家族や出版社からの意見で使われなかった幻の未発表写真」とある。
 他にもいろいろ見せていただきました。

資料調査と村上春樹『1Q84』

 2日。一誠堂さんで本を見せてもらって、何冊か買う。
 夜、竹田青嗣と加藤典洋が学生さんたちも交えて村上春樹『1Q84』についての討論会をすると聞いていたので、参加した。
 久しぶりに竹田さんの村上春樹論が聞けるのと、加藤さんの『1Q84』論が生で聞けるのと、もうひとつ、極めて個人的な目的があった。
 竹田さんは私の師匠であるが、加藤さんは実は私の恩人なのである。 
 私はかつて一度だけ、研究を続けていけるかどうかの危機に陥ったことがあった。まだ院生の頃、阪神・淡路大震災のあとだった。自分が2、3年前まで住んでいた下宿が完全に倒壊し、昨日まで楽しく話していた生協のお姉さんが亡くなり、隣の家は半壊し、家のすぐ前の新幹線の高架は崩れ、阪神高速も倒れた。街ではマンションの一階にとめてあった車たちは押し潰され、家はドリフタ-ズの芝居セットのように、こちら側の壁が完全になくなっていた。
 直後は実感がわかなかったが、その影響は、あとからじわじわと私の中に染み込んできた。そして私は、自分が何のために、誰に向かって論文を書いているのかが分からなくなってしまったのである。本当に書きたいことを自分は書いてきたのか? 読者にではなく、「研究史」に向かって書いているのではないか? 学術論文とはそのようなものだと親切に教えてくれる人もいた。大切なのは研究史上の意味であって、あなたや読者の人生上の意味などではない。そうかも知れない。だが私が研究において知りたかったのは、そして語りたかったのは、人生におけるほんとうのこと(真実)であり、生きる意味であった。少なくともそれときちんと向き合っていない文学研究なら、私にはやる意味がない、だがはたして自分はそれを本当にやってきたのか、と。そう、じわじわと。
 ちなみに震災後、村上春樹は芦屋大学で自分の作品の朗読会をやってくれた。めったに人前に出ない村上春樹に会えるというので、喜んで出掛けたのを覚えている。そのときのシーンは、映像だけが、はっきりと私の記憶の中にある。特に、自分の本にサインして握手している村上春樹の表情。
 しばらくして、現象学研究会の合宿があった。加藤さんも特別ゲスト?で来られた。
 研究会の最中に、ある象徴的な出来事があったので、私は加藤さんにそのことについて聞きたかった。いや聞かなければならない、と思った。研究会中は機会がなかったので、夜の飲み会で聞くことにした。だが食事が終わるとすぐ、加藤さんはその場で横になって寝てしまわれた。眠ってしまったのかどうかまではわからなかった。だが私はその横で加藤さんが起きるのをずっと待っていた。しばらくして、加藤さんはむくっと起き上がった。その直後、質問したのである。加藤さんは、一瞬考えた後、私の質問には直接答えず、

 あのね、みんな間違うことを怖がり過ぎなんですよ。

と言われた。そしてその後、自分が初めて書評を書いたときのことを話して下さった。それは加藤さんにとって批評とは何かという本質そのものの話だった。
 私はそれで救われた。これからも研究が、文学が続けられる、そう思った。そしてその秋、学会の全国大会で、これまでの自分の研究のど真ん中を発表することができた。実に不遜な発表だったが、気分爽快であった(ちなみに、私はこれまで学会誌への投稿論文が(書き直し再投稿判定ではなく)完全な不採択になったことが一度だけある。それがこの時のものだ)。

 もちろん加藤さんはそんなことは忘れておられるのだが、私にとって加藤典洋という批評家はそういう存在なのである。今自分がここにいられることのお礼をひとこと言いたかった(それまで何度も加藤さんとはすれ違っていたのだが、まだ時が熟していなかったのだろう)。

 さて、竹田さんと久しぶりに村上春樹の話しができて、率直に嬉しかった。このごろはすっかり(極めて自覚的に)哲学者になってしまったが、文芸評論家竹田青嗣は健在だった。だが、敢えて哲学者になった竹田さんは実に潔い、とも改めて思った。
 加藤さんの話しも、さすがに面白かった。ああ、そういう風に読んだんだ、ということが手に取るようにわかる。そして今流行りの言葉でいうと、加藤典洋の批評の方法は、昔から全くブレない。見事である。内容はすぐにでも活字になって発表されるだろう。いずれにせよ、贅沢かつ至福の時間だった。

 さて、私自身が『1Q84』をどう読んだかというと、
いや~、おもしろいね~
である。
 だがそれをうまく言うのはとても難しい。
 無理矢理いうとどうなるだろう?
 自分が生きているこの現実が、何か夢のように不確かで曖昧でよりどころのないように感じられることがある。というより、常にどこかでそのような感覚を持ちながら生きている。村上文学は、その感覚と不安の内実を、実に丁寧にかつ深く描いてくれるのであるが、この作品では、これまで以上に深化した形で描かれている。かつて日本の近現代小説は、それを自意識の問題として描こうとしたときもあったが、村上春樹は他人との距離感(あるいは関係の持ち方)と、自分が生きる上での個人的な価値観の一番底の原理の問題として描いている。さらに今回の作品では、そういう感覚をもつ現代人が、それを抱えながらも自己の生を「手応えのある肯定」として生きることができるとすれば、そのとき頼りとなるのは一体何であるかを、これまでの作品より一歩踏み込んで描いている、と思う。乱暴にいえば「愛」であるが、その愛が人の魂を傷付け、あるいはよりどころとなる、その多様で複雑なありかたを、強力な物語として描き出している。そう、今回の作品は、物語の力が圧倒的なのである。
 もちろん春樹文体も、いつもながら私の生の感覚の内実を見事になぞってくれる。

 そこにはただ深い無力感しかないんだ。暗くて切なくて、救いがない。

 睾丸を蹴られた痛みをこれほど見事に語ってくれる村上春樹が、私は大好きなのである。
 だがちょっとだけ気になることがある。一つは終わり方である。続編が出る可能性も高いが、一応BOOK2までで言うと、このまま完結するのだったら、それはちょっと、と思う。あの空気さなぎのシーンではこの物語は終われないでしょ?やっぱり。せっかくここまできたんだから、後一歩先まで連れていってよ、と思う。ここまで連れていってくれる現代作家は、村上春樹以外にはいないのだから。今回の作品に限って言えば、はっきりとした肯定が、断定がありうると思う(もちろん「物語の」、という意味であり、「明言」するとか「謎」が解かれるという意味ではない)。それほどこの作品の物語の力は強い。
 もう一つは、この物語は初読では圧倒的な力を持っていたのだが、何年か後に再読して、その力がさらに増すかが、やや疑問なのである。これは村上春樹の代表作となるか? 古典たりえるか?
 まあそんなことを考えるくらい、面白かったということである。

 3日は再び資料調査。これについては明日にしよう。さすがに携帯でこれだけの長文を書くと、指が痛くなってきた。

師は針のごとく、弟子は糸のごとし

 去来の『旅寝論』に次のようにある。

 師は針のごとく、弟子は糸のごとし。針ゆがむ時は糸ゆがむ。此故に古より師をゑらむを肝要とす。師を離れて独歩するものは、尤一口に論じがたし。又、善師有共数句を吐ず、自己に慢じて、先にすすむ事をしらざる人は、身を終る共達人に成がたし。許六のいへる、「きのふの我に飽」と、誠に善言なり。先師も此事折々物語りし給ひ侍りき。

 「師は針のごとく、弟子は糸のごとし」は、「弟子は師の導くままに従ってゆく」という意味で、古典俳文学大系は、

「伝教大師の守護章にいはく、師は針のごとく、弟子旦那糸のごとし云々」(妙正問答)。この詞は『わらんべ草』『長者教』等にも見える。

と注する。『わらんべ草』は狂言論書、『長者教』は仮名草子であるが、それ以外にもこの言葉を引いた本がいくつもあるようだ。
 さて、冒頭の引用は、おおよそ次のような意味である。
 師弟関係は、針と糸のようなものだから、師がゆがめば必ず弟子はゆがむ。だから昔から師を選ぶことが大切とされているのである。師を離れて独り行くものについては一口では論じられないが、たとえ良い師についたとしても、修行せず、慢心して先に進もうとしない人は、生涯達人にはなれない。許六が「昨日の自分に飽きる(人が上達するのだ)」と言ったが、これはまことによい言葉である。芭蕉先生も折に触れてそうお話しになった。

 良き師に導かれ、昨日の自分に飽き、日々新たな新しい自分を生きる。それが修行というものである。導く方向が間違っていても、あるいは正しく導かれてもその道をきちんと歩まなければ、上達することはかなわない。
 師への戒めであると同時に、弟子への戒めである。

フッサール『経験と判断』

経験と判断

発売元: 河出書房新社
訳:長谷川宏
発売日: 1999/05

 フッサール『経験と判断』の、緒論と第一篇第二章まで読んだ。大体全体の3分の1くらいである。現象学研究会のテキストだったからだが、俳論研究会終了後、現研に合流した。
 いやー、面白いですね~。細かいところはよく分からないことろも多いですが、論理学を現象学的に基礎付けるというモチーフとフッサールの構えは、読んでいてワクワクします。それとフッサールの根性と粘り強さには、ごちゃごちゃ感を越えて、勇気を与えられます。
 ただ大分前に『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を読んだ時ほどの衝撃は今回ありませんでした。まだ残り3分の2あるので、この後に期待です。残りも頑張って読んで、「『経験と判断』山」を登り切りたいと思います。

『俳諧十論』の講義録

 俳論研究会で、支考『俳諧十論』の注釈書を読んでいる。注釈書というより、支考自身の講義(十論講)をもとにした講義録である(ただし講義録そのままではない)。『俳諧十論』の講義録といえば支考自身が出版した『十論為弁抄』があるが、それと全く同じ体裁で書かれている。『為弁抄』の別本と言ってもいいだろう。ただし本文中で「先師」と言われているのが、おそらくは支考のことであると思われるので、内容的には支考の教え(十論講)を基にしているが、書いたのはその門人ということになる。何本か写本があり、そのうちの一本は、美濃派道統三世、盧元坊の伝書として伝わっている。ちなみに、本文中に『為弁抄』の名が出てくるので、『為弁抄』出版以後に書かれたものである。
 これが実に面白い。『俳諧十論』は同時代の俳人にとっても超難解で、江戸時代に書かれた解説本と批判書のほとんどが、『俳諧十論』を理解できていないと言っても過言ではないのであるが、そんな中でこの本は、群を抜いて理解が深く正確なのである(支考の講義が基になっているので当たり前であるが)。例えば十論講の講義録であると明言されている『俳諧十論発蒙』などよりはるかに分かりやすいし、『為弁抄』よりも分かりやすい箇所さえある程なのである。もちろん支考の教え(文章?)がもとになっているので、難解で意味不明の箇所も少なくない。しかし『俳諧十論』を理解する上で、非常に重要な本であることは間違いない。
 この本を初めて知ったのは、もう20年ほど前のことである。私の初めての学会発表は、支考俳論には「先後」なる概念があり、それが支考の認識表現方法として重要であることを指摘するものであったが、江戸時代から発表当時に至るまで、支考俳論において「先後」などという概念があることを指摘した本は、一つもなかったのである。だが発表の準備をするうちに、一本だけ、その「先後」を解説項目として取り上げている本を見つけた。それが今回読んでいる本である。
 結局、院生の私は生意気にも、「この本は支考のことを分かっているじゃないか」と思っただけで、学会発表には使わなかったのであった。
 またその後の支考俳論解読にも使わなかった。使わないどころか、読みもしなかった。それは自分自身で『俳諧十論』を解読し、それを論じることで精一杯だったからである。しかし、ほぼ『俳諧十論』が理解できた今、この本を読んでみると、自分の『俳諧十論』理解が的外れではないことが分かって、率直に嬉しいし、『俳諧十論』の理解がさらに深まった。
 この順序でよかったのだと思う。もしこの本を先に熟読していたら、そしてそれを使って『俳諧十論』を論じていたら、私はおそらく『俳諧十論』や支考俳論の核心を掴めなかったかもしれない。『為弁抄』とこの本を適当に引用すれば、もっともらしい論文が書けてしまうからである。
 私が『俳諧十論』解読に使ったのは、フッサールであり、ハイデガーであり、ウィトゲンシュタインであり、竹田現象学だった。そして井筒俊彦であり、西谷啓治であり、禅や『荘子』(の解説本)だった。国文学研究として邪道だと言われるそのような方法が、支考を理解するのには適していたのではないか、と思う。なぜなら支考は、「国文学研究」の正道では捉えきれない俳諧師だったからである。そのあたりの事情については、「連歌俳諧研究」で論じたので、興味のある方はそちらをご覧下さい。
 さて、今回の本、今年度中の紹介を目指している。どうぞ楽しみにしていて下さいね。

祝!『ゼロ哲』増刷

知識ゼロからの哲学入門(幻冬舎)
が増刷されるという連絡がありました。(^ ^)v

蝶夢『蕉門俳諧語録』

 蝶夢の『蕉門俳諧語録』を読んでいる。これまでは必要なところだけをつまみ読みしていただけなので、恥ずかしながら、最初から通してゆっくり読むのはこれが初めてである。これからじっくりいろいろ考える予定だが、それにしても、よくまあこれだけ集めたものである。支考も去来も其角も許六も野坡も、その他いろいろ引用されているが、これが蝶夢の考える「蕉門」の範囲なのである。もちろん現在の私たちも彼らを蕉門と呼んでいるが、それ以上に、美濃派だの江戸座だの誰の系統だのと、細分化している。言うまでもなくそれには十分な理由があるのだが、必要以上に「派」や「系統」を強固に考えすぎではないかと思う。
 今ほど情報が多くない時代にあって、芭蕉の直弟子やその系統の書が目の前にあり、そこに書かれていることが芭蕉の教えとして不都合でなければ、それは「芭蕉(蕉門)の教え」なのである。もちろん選別はしているが、教えの内容によってそれを行っているように思う。
 佐藤勝明さんは、『芭蕉と京都俳壇-蕉風胎動の延宝・天和期を考える』(八木書店)において、門派活動とは別に「俳諧圏」とでもいうべき交流関係があったと指摘し、「季吟俳諧圏」なる概念を提出しておられる。佐藤さんが問題にしておられるのは延宝・天和期であるが、書評にも書いたように(日本文学640号)、私は、時代が下っても、少なくとも、交流関係や影響関係においては、「門派」はそれほど強固なものではなかったと考えている。
 そのことについては今年度科研費に採択されたテーマとも関係するので、そのうち詳しく論じることになると思うが、少なくとも『蕉門俳諧語録』においては、「おおらかな蕉門」が感じられるのである。

 以上はただの思いつきと感想である。これからいろいろ考えてみたい(もちろん間違っていたら訂正します)。

「師弟」から見た日本人論

 重松清氏と鶴見俊輔氏の対談、「「師弟」から見た日本人論」(潮 2009年5月号)を読んだ。

(鶴見)ダメな教師ほど自分を模倣させようとするんです。

なるほど。その通りだ。

(重松)最近、「教え子」という言葉が死語になってきたと思うんです。「うちの生徒は」と言うけれど「私の教え子は」と教師が言わなくなった。「生徒」と言うと学校という組織のなかの構成要素ですよね。でも「教え子」と言ったら教師にとって大事な存在になるはずなんですが、いつの間にか教師は教え子と言わなくなった。

 そうなのか、とちょっとびっくりした。この前喫茶店に入ったら学生がいて挨拶された。マスターが「知り合いですか?」と聞いてきたので、私は「教え子です」と答えた。だから私は普段「教え子」と言っていると思うのだが、しかし逆に大学生のことを「教え子」と言っていいのかな? それはともかく、「教え子」が死語になってきたと聞いて、ちょっとショックだ。

(重松)若い先生たちは教え子に語るべき自分の人生とか思いというものを持っていないから踏み込んでいかない。踏み込んでいかないから生徒が「教え子」にならなくて「生徒」のままでいる。

 なるほど。私も、「語るべき自分の人生とか思い」を持ちたい、とずっと思ってきたが、恥ずかしがらずに語れるようになったのは、ここ数年のことである。

(重松)鶴見先生は--、弟子のほう、教え子のほうは自分の弱いところを知ることで師を求める。師のほう、先生のほうも自分自身の弱点を認めることでその言葉が説得力を持つ。師弟関係というのは、お互いに自身の「弱さ」「弱点」を自覚するところから始まる--とおっしゃいました。そういうことから言うと、日本は明治以降、ずっと自分たちの弱さを認めたくない、弱いと思われたくないということでやってきたのかも知れませんね。

 これもその通りだと思う。自分の弱さを自覚していない師匠に弟子入りしたら、たぶん不幸なことになるだろう。もちろん自分の弱さを自覚しない弟子を取ったら、師匠も大変である。

(重松)お稽古事のお師匠さんはまず最初に所作・振舞いを教えますよね。野球のコーチがバッティング・フォームを教えるのも、フォームを固めておけばどんな球でも打てるわけです。だからそれは決して形式主義じゃないんだけれども、僕たちはそういうものを形式主義という名のもとに過剰に排してきちゃったような気がするんです。

 私も以前は過剰に排していたが、今は過剰に推進している。もちろん形式主義ではないこと、その重要性が分かったからであるが、それについては今書いている本に詳しく書くつもりである。

(鶴見)私塾というのは「師の思い」が弟子に伝わるんですよ。幕末のころ、スコットランドに、やがて『ジギル博士とハイド氏』を書くスティーブンソンが学生でいたんです。……彼は当時は怠け者で、ただ大学生というだけなんです。そこに脱藩した日本人がやって来るんですよ。その日本人がものすごく勉強する。……その日本人は、なぜ自分が勉強するかというと、「自分たちの先生に吉田寅次郎という人がいて……」と。
(重松)松蔭ですね。
(鶴見)「先生は、捕らえられて処刑されるときも詩を吟じながら刑場に赴いた。先生のことを思えば怠けていられるか」って。

 自分が怠けることは、先生に対して恥ずかしいという気持ちを持っていたのだと思うが、おそらく彼は、怠けず必死に勉強しても、なお先生に対して恥ずかしいと思い続けたに違いない。自分の存在自体が、先生の大きな存在に対して恥ずかしい、だから少しでもそれに近づけるように必死に努力する。努力すればするほど先生の大きさが分かってくる。もちろん師は師で、自分の弱点を知っているので、その弟子を見て自分が恥ずかしくなるのである。おそらくよい師弟関係とはそういうものだろう。
 ついでに言うと、人は自分のためだけだと、最後の最後で踏ん張り切れないものである。ここで自分が諦めたら、それまで支えてくれた人に申し訳ない、ここで自分が最後の一踏ん張りができたら、あの人が喜んでくれる、そういう思いこそが、土壇場で人を強くするのだと思う。

(重松)こういう時代、インターネット全盛の時代だからこそ、たとえば正座をさせたりしたら、すぐに「権威主義だ」と言うんじゃなくて、「背筋を伸ばせば、能率も上がるよね」という発想が必要なんじゃないかと思いますね。

 そのためには、まず教師や指導者が、呼吸が深くなる、能率が上がる姿勢がどういうものかを知らなければならないだろう。自分の心身の能力を最大限に発揮できる姿勢、体の使い方を知らず、いわゆる「気をつけ」などを良い姿勢だと思っていては、自分の語る人生や思いを伝えることは難しいかも知れない。 

百尺竿頭に一歩をあやまる

 ここのところ蝶夢の『門能可遠里』を読んでいる。
その中の「不易流行」を説いた箇所で、「不易とは正風の地の躰なり。流行とは正風の曲節の躰なり」。すなわち、「不易」が基礎(地)であり、「流行」はその時々の調子や節回し(曲節)のようなものであって、その両方を学ばなければならないことが説かれている。
 「しかれども初学の人は常に不易の句躰をわすれず、ふかく心にいれて修行し給ふべし」。初心者は、基礎となる不易を深く心において修行しなければならない。そうすればその基礎から、自然と流行の句は出来てくるものである。「不易の修行地より、をのづから流行の句躰はあんぜられぬべし」。
 では基礎である不易の句を忘れて、流行の句だけを求めるとどうなるか?「流行の句躰をのみ修行あらば、百尺竿頭に一歩をあやまり、風雅の実地を踏たがへて異風に落ぬべき事也」。
 正しく修行したら到達できたはずの極致への一歩を誤り、風雅の道を踏み外して、必ず「異風」に落ちるに違いない、というのである。

 この考えは、支考の「其地をよくしれば、曲節は時に自在なる物也」(『俳諧十論為弁抄』)などを念頭に置いているものと思われるが、正しいと思う。
 俳諧も武道も芸事である。芸事の修行においては、この「地」が何よりも大切である。少なくとも武道において「地」(基礎)を忘れ、目先の変化(派手さ)に心奪われた修行者が我流に落ちてしまうのを、私は数多く見てきた。武道においては、この「地=不易」は「形(型)」である。形を正しく練っているうちに、自ずから「その人の動き」(個性)が出てくるのであって、「自分らしさ」は自分から求めるものではない。武道の存在感を前にすれば、己一個の存在など実に取るに足りないものであり、このちっぽけな己の存在を溶かすところから修行は始まるのである。それは一人稽古であれ、対人稽古であれ、同じである。
 この、己がとろける快感が修行のエロティシズムであり、バタイユが言う「連続性」のエロティシズムに通じるものである。その意味で、恋愛と武道の修行は似ているのかもしれない。とすれば、よい恋愛が出来る人は、よい修行も出来るということか?(いい加減なことばかり言っていると、「お前こそ「地」をきっちり学べ」と怒られそうなのでこの辺でやめておこう)。
 ともかく、学問においても、武道においても、仕事においても、人生においても、(他人との比較ではなく)自分自身の「百尺竿頭」を目指すのであれば、その一歩を誤らないようにしなければならない。自分自身の百尺竿頭に至る道、それは「心身最有効使用道」(嘉納治五郎)である。

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